第30話 好きな人
自分のこと、と言っても、自分ではない。この体の持ち主の過去。
そうでもないと、このリリアンヌが貴族の教養を欲しがっている理由は説明つかないし。
女性が爵位を得ることはほぼできないこの国で、リリアンヌが貴族になるのは貴族と結婚が一番早いだろうけれど、爵位を金で買うという方法もある。
その場合でも、自分がではなくて配偶者が爵位を得るのがしゃくに触る。
「両親が死んで爵位は返してるの。領地もないくらいの大したことない貴族だったけれどね」
私がそういうと、なるほど、とリベラルタスが頷いた。
「それで、学ぶことに慣れているようなのですね」
「え?」
どこが?
私は自分のふがいなさに心で涙を流していたというのに。
「契約書にサインしていた貴方の字を見たら、書くことに慣れているなと思って不思議でした。書くことに慣れていない人の字はそろってないですから」
あれでも彼からしたら慣れているように見えたのか。確かに字を書くことすらおぼつかない人間ばかり周囲にいるとしたら、私の字は書き慣れているように見えるだろう。
日本に生まれて、義務教育で9年、高等教育で3年、最高学府で4年というコースを歩いた経験は、この体には沁みついてなくても、心には沁みついていて、無駄じゃないと言ってもらったようで嬉しい。
「なんという家名だったのですか?」
「ゼーレンよ」
「リリアンヌ・ゼーレンが貴方の本当の名前だったのですね」
「本当もなにも、今はただのリリアンヌだから」
平民である自分を否定する必要はない。私はそう思う。
本当のリリアンヌは、貴族であった自分の過去を懐かしんだり、今を憂いたりしていたりしたのだろうか。
それは私にとっては、現代日本を懐かしむくらい建設的でないことじゃないなぁと思う。
そりゃ、たまには懐かしむよ。カップラーメン食べたい! とか思うもの……。
でも、今を生きるしかないのだから、そんなことを考えるより、今、なにが自分の手の中にあるかを考えていたい。
そして、明日はもっと色々と手に入れられるようにしたいものだ。強欲だろうか。
「あ、そろそろですね。わざわざありがとう」
「じゃあ、ここで」
公爵邸への道の分岐のところで、リベラルタスに軽く微笑んで別れる。
「あれ?」
なんとなく振り返ったら、リベラルタスが戻っていくのが見える。
配達に行くと言ってたから、これより先まで用事があるのかと思っていたのに。
彼の目的地は、ここよりもっと店寄りであったらしい。
「わざわざここまで送ってくれたんだ……」
彼からしたら仕事中の忙しい時間。
それなのに恩着せがましいものではない、彼の純粋な優しさが好ましく思えた。
*****
次の日の昼。シシリーのお茶の準備に厨房に来ていたら、おしゃべりのコリンヌにつかまってしまった。
「ねえねえ、リリって、恋人できたの!? だから最近休みの度に出かけているの?」
「は?」
後ろでシングルマザーのメイドのマイナや、同室のシンシアもこちらを見ている。三人の中で私の話題になって、代表してコリンヌが私に突撃してきたようだ。
「な、なんで?」
「昨日、男の人と歩いているの見かけたってマイナが!」
私がとっさにマイナを見ると、ごめんね、と目配せされた。
一緒というのはリベラルタスのことだろう。
「ああ、あの人はちょっとした知り合いよ」
「ええ~ほんとに~?」
ぐいぐい来られるところに閉口してしまう。ほんと、女子は恋バナが好きだなぁ。
でも、もし好きな人がいたとしても、コリンヌには絶対喋らない! 屋敷中に触れ回れてしまうから!
「私、他に好きな人いるし?」
「どんな人!?」
「……茶色い髪、茶色い目で、イケメン。口元にほくろがあって、声が良くて……みんなからも人気があるおじさんです」
好きな人って真っ先に思いついたのが、みずほの頃に気が狂うほど好きだった、バンドVontageのギタリスト、SHOGO。
あのギターテクニックを間近で見て、あのハスキーヴォイスで囁かれるなら死んでもいいと思ったよ。ほんと夢にまで出てきたからね。年齢差四半世紀くらいあるけど。もちろん、私の方が下で。
私の顔がとっさに締まりのない顔になったのを見て取ったのだろうか、周囲が静まり返った。
「え、それって誰?」
「えーっと、とある楽器の奏者ってやつかしら……」
何と言ったらいいんだろう。この世界に芸能人っているの?
歌舞音曲の類はあるらしいけれど、どういう扱いをされているのかよくわからない。
音楽といったら祭りの時のチンドン屋みたいなパレードくらいしか、リリアンヌの記憶にもないみたいだし。レコードのようなものもあるとは思えない。
「ああ、流しの吟遊詩人に惚れちゃったのね~」
なんか違うけれど、勝手に納得してくれたようだ。吟遊詩人というのがいるのね、覚えておこう。
生温かい目で見られている気がするんだけれど。どちらの世界でも芸能人にマジ恋する少女に対する第三者からの目というのは同じらしい。
しかし、愛しのSHOGOをバカにされてるようでむっとしてしまった。
他人の推しを否定しちゃいけないんだよ、と言ってもわからないだろうけど。
「格好いいならいいんです~、イケオジとは彼のようなことを言うのです」
「しかもおじさんなの!?」
悔しくなって私が余計な口を出したら、妙に盛り上がってしまった。
「え、リリっておじさんが好きだったの?」
好きな人がおじさんだっただけで、おじさんが好きというわけではないのだけれど。
しかし、年下より年上の方が好きなのは事実なので、ここは黙っておこう。
「若い子には、おじさんの格好良さがわからんのですよ」
「貴方だって若いでしょうが!」
即座に突っ込まれてしまった。
まぁ、元も20代だけどね。
「おじさんというと、シュナイダーさんとかがタイプってこと?」
当家の筆頭執事の名前を出されて顔が引きつる。あんな怖い人はこちらからごめんだわ。
「なんでそんな狭い範囲で好きな人を作らなきゃいけないのよ」
「だって、リリって結構人気あるのに、そういうの全然興味なさそうなんだもの」
え、人気あったの? その言葉を聞いてびっくりしてしまったけれど、鏡で見たリリアンヌの顔ならモテてもわかる気がする。うん。中身の人がとても残念だけど。
「私のタイプがここにいないだけ!! というわけで、私はこの家の人を好きになることはあり得ないので、安心してください」
「裏切らないでよ!?」
その言い方だと、コリンヌは誰かに恋する乙女だったらしい。知らなかった。
でも、裏切らないよ。
将来どうなるかわからないこの家で、伴侶となるような相手を見繕うようなことはしたくないから。
お茶の支度が整い、私はさっさとシシリーのところまで戻った。
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