じかんが落ちたばしょ


「昔した約束って覚えてる?」


 錠剤を水に落とすと、しゅわしゅわと空気が漏れていく。固体に見えたはずのそれも、実際は空虚ないれものに過ぎない。女はグラスを持ち上げ、なかなかとけそうにない白い物体を蛍光灯の光で照らした。


「たとえば、どういう約束のこと?」「ほんのささいな約束。あの映画、観に行こうねとか。今度、あのマンガ貸してねとか。私より長生きしてねとか」「覚えてない。っていうか、最後のやつ急に重いじゃん」「そうかな? でも、そういうことだと思うの」「というと?」「だからね、そういう約束ってちょうど体温と同じ温度の水みたいでさ」


 記憶をたどって過去にさかのぼる作業を、女は少しも億劫には思わなかった。錠剤の助けもあって次々と過去をめぐり、やりなおしていく。こうあった過去を、そうあった過去として書き変えていけば、帰結としての未来は必ず美しくなると信じて。


「過去は変えられないんだよ」「いや、変えられる、変えられるよ。って昔、誰かが言ってた気がする」「誰?」「叔父さんかな」「定番の叔父さん」「定番?」「ファンタジーの定番、叔父さんが魔法使いとか伝説の剣士だとか、そういうやつ」「なるほど」


 剥がれ落ちた壁紙を貼りかえるのは簡単だが、どうして剥がれ落ちたのかを知るのは簡単なことではない。ましてや、その瞬間に戻って壁紙が剥がれなかった過去を選び取るのは不可能だ。

 アメリカに行った叔父が打たれて死んだ。ちょっとしたニュースになったらしいが女はよく覚えていない。印象に残っているのは、いつまでもやむことのない母のうめくような泣き声だった。グウ、グウとなにか腹のなかに丸いからだをした小さな生き物を隠し持っているかのように前かがみになって、低く、小さく泣く。階段の暗がりでうなだれている彼女に、お腹になにを隠しているの、とは聞けなかった。翌日、いつもの母に戻っていた。なにもなかったかのような日常。なのになにかが、すっぽりと抜け落ちている。

 死は日常に穴をあけて、後からでは見つけることのできない微細な欠落を作るのだと知った。

 ビルの隙、窓のそとの赤い空を見た。朝焼けなのか、夕焼けなのか、わからなくなる。思い直す。あそこに見えるのはいつも黄昏。黄昏の語源を思い、黄昏を見るというのは、見えないものを見るようなものではないかと、夢想する。目のまえにいる男は誰だっただろう。束の間の話し相手のつもりが、もう幾年も連れ添っている。過去を繰り返し変えてきたにもかかわらず、あいかわらずあそこに見える赤い空は、そこにあるのにないような不安な空だ。

 背後に夜を隠している。いつでもおいで。私は眠るから。と女は思う。


「あなたは誰?」


「さあ、僕にもよくわからない」


 違う。朝焼けだ。女ははじめて男の部屋で眠り、目を覚ました。電車の走る音が聞こえ、ベッドのうえでからだを起こした。

 ブラジャーも着けずにベランダへ出ると、朝の空気を胸いっぱいに吸った。したの道を中年の男が通ると、驚いたように視線をそらし、駅へと駆けていった。


 ――私たちの約束、叶えに行くよ。

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