まださめないまま
「心の哲学は心理学とは違うんだよ」
「そうは言っても、似たところもあるんじゃないの?」
コーヒーは冷めきっていた。朝の一杯は、決まって飲み切る前に冷めてしまう。それも含めて男のルーティンになっている。そして、頭がきりりと冴えた頃に妻は起きてくるはずだった。
交わした会話も日々の断片として、特定の時間と結びつかないままばらばらと思い出される。そのひとひらが、真冬に降る雪のように白く輝いている。男のなまなましい体温に触れ、どうせすぐに消えてしまうのだけれど。
「平気。ちょっと頭が痛いだけだから」
これも一つの断片。男が、二度と忘れることのないであろう断片。苦しみこそが、男が男自身を許すための免罪符となる。自覚しながら、捨てきれない記憶。幸福を追うことこそが真の償いであり、妻に報いることだと思いながらも、自分の苦しみにいつまでも縋っていたかった。
――十月に実家に帰るってアイディアも悪くはないな。
山の樹々は早くも鮮やかに色付き始めていた。下旬にもなれば霜が降りる。ここの秋は短い。狭い国道から道をそれて、さらに細い山道へと入る。秋は一層と深さを増し、空も近くなる。瞳と空とのあいだに遮るものがなにひとつない。
そうして曲がりくねった山道を車でのぼっていくと、やがて小さな集落がある。この季節、誰も田畑で働くものはいなかった。綺麗に整えられ、草一つ生えていない。面積が広くはないひとつひとつの田畑を大切にしている。土地の人の勤勉さを物語っていた。
「なんだ、帰ってきたのか」
男の祖父母が山を買って切り開いた畑地は、今ではまた山に戻りつつある。祖父が亡くなってから、誰も畑仕事をしなくなった。山に接していたため、すぐに低木が伸び、下草は伸びた。
「ああ、帰ったよ」
喜ぶでも面倒臭がるでもなく、平坦なあいさつですませた。こうして親と顔を合わせるのだって、あと何回あるかも知れない。
「ちょっと、てきとうに歩いてくる」
実家なのに、なぜか居心地の悪さを感じた。裏の山も秋模様で、まばらに植えられている山桜や紅葉、銀杏が色づいている。
鹿や羚羊、猪が来るからといって、両親が山と畑の境に罠を仕掛けた。農作物を獣害から守るための罠は役場への申請が必要だが、両親が申請したようすはなかった。そもそも、その頃には農作物など作っていなかったのだから当然だ。
小学校のころ、罠にかかった子供の話を聞いた。男の記憶は自然と膨らみ、山の木漏れ日のなかで大きく育っていった。大人になってから、それが子供たちを深い山から遠ざけるための嘘だと知った。嘘だと知った途端に恐怖が消えるかと言えば、そうはいかない。罠に関する彼の記憶は大人になる過程で知る知識と絡み合って、現世の無常を諭すような九相詩絵巻へと書き変えられた。死への恐怖。肉体への執着。消そうにも消せない感覚を自らの肉体の腐敗を思い浮かべることで、嫌悪によって上書きすることによって誤魔化そうという寸法。うまくいくとは限らなかった
郵便局に寄ってから、川沿いの道をしばらくくだった。村の運動場には一台も車がとまっていない。ベンチに老人がひとり腰掛けているが、どこに住む者かも男にはわからない。ぷるぷると震える指には煙草がはさまっている。祖父も煙草を吸った。話し足りなかった。
生きれば生きるほど、不足や欠落が増えていく。生と不足のバランスが取れなくなったときに人はあまりの軽さに耐え難くなって死んでしまうのだろう。
ほんのあどけない思考だ。哲学と呼ぶには恥ずかしいほどの無為な戯れだ。男は不在から力を得て、どこまでも深いところへ沈んでいけるような気がした。
「似てるよ。というか、大部分は重なると思う。でも、たとえばね、死そのものと死を思うことでは違うんだよ。人はそうして哲学からは離れようとしているのかもしれないね」
妻が眉を寄せ、こめかみに指先を当てた。難しい話をしないでよ、と笑ってそんな仕草をしてみせることはあった。様子が違った。
「おい、平気か?」
「まだちょっと痛むけど、平気だよ?」
――無理やり連れて行けばよかった。
翌朝、久々の実家で目を覚ました。二階の自室から一階の居間におりた。
「コーヒーでいい」
母が尋ねた。
「ああ、ありがとう」
男は思い出した。妻は母のように自分より早く起きてコーヒーをいれることなどなかった。カップに触れた。まだ熱かった。
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