かつてそこにあった

「人間の力ってのは、信じがたいものがあるわよね」


「自然を捻じ曲げてしまうのに十分なだけの力があるんだから、それはそうだろう」


 川に沿って登っていくと、上流にはいくつか湖がある。ダム湖と呼ばれるものと自然によって作られた湖とを区別するでもなく、地元の人はどれもただ湖と呼んでいるらしい。

 社会の教員である女は、ダムの底に沈んだ村の歴史を生徒たちと調べたことがあるといっていた。ほんの半世紀前のこと。過疎化によって村は自然と潰れていったが、ダムの底に沈んだ村も同じような道を辿るはずだった。予想されたより、少しはやくなった。

 故郷を失ったほんの数世帯の記憶は、今では誰も触れられない深い水の底に沈んでいる。


「車だってそうだろう。あんな大きな金属のかたまりがあんな速度で走るだなんて、ライオンが想像できるか」


 すぐ背後にいるはずなのに、無線を通じて聞こえる声は遠かった。ヘルメット越しでは生の声は届かない。エンジンや風を切る音にたやすくかき消される。肌の熱も感じられないほど、空気は冷たい。


「できるんじゃない。だって、百獣の王ですもの。聡明に決まっているわ」


「なるほど、そういうものか」


 山の冷たい空気を切ってバイクは走る。梢から落ちる葉はかすかに色づき、秋が近いことを知らせていた。




「いい年してバイクとか、ホントに気を付けてくれよ」


 男は、息子と自分とで、どちらがどちらに言い訳しているのかわからなかった。車を使いたいと息子がいうのを口実にして、二十年ぶりにバイクに乗った。家族で遠出することもなくなり、男が週末にひとりでドライブするくらいしか車を使う機会がなかった。

 女との関係は二十年以上続いていた。友人ということになっていたが、男の妻も息子も、なにも知らないというわけではない。黙認していた、というわけではない。妻は傷ついていたし、息子は父を憎んでいた。ただ、少なくとも息子には、なす術がなかっただけだ。

 バイクに再び乗る。車は家族のために買った。バイクに乗り換えるということは、後ろに乗せるのは妻ではなく、女だ。

 妻も息子も理解していた。息子は来年、大学を卒業する。妻も、それまで我慢しようという考えなのだろう。男にはうしろめたさがなかった。なぜかはわからなかった。




 さらに上流を目指した。川がどこにあるかもわからず、上へ、上へと、のぼれそうな坂道があれば迷わずのぼる。そうしてのぼっているはずが、先には長い下り坂が待っていることもあった。いつまでも川の源流を見つけられず、待避所にバイクをとめ、紙の地図を確認する。女がいた頃は、ガイドをしてもらった。土地の地理に詳しいからだ。

 いつまでも待避所にとどまってはいられないことにも、とうに気づいていた。そのうち、走り始めなければいけないのだ。

 録音された音声はがさがさとノイズが混ざるというのに、懐かしさだけが耳の奥でくすぐったくなるように震えた。


「あたしにだって同じことが言えるのに、そんな質問を平気でしてしまうなんて。本当、あなたってひとは――」


 息を飲んだ。


「薄明光線っていうそうだ」


 目の前の光景にはふさわしくない名前な気がした。待避所の崖から斜面に張り付くように樹々が張り出している。見下ろした梢の隙間から、湖がのぞき見えた。反射した光が眩しかった。男は目を細めた。


「さすが、理科の先生じゃない」


「馬鹿にしてるだろう」


「フフ、馬鹿にしてないわよ」


 女はあっさり死んでしまった。誰から聞いたのか、妻も息子も知っていた。息子が大学を卒業し、男はひとりになった。

 水面から空にのびる光が、男に、となりにいるべき人のことを思い出させた。横隔膜がさがって腹を押し、清らかな空気が肺一杯を満たす。遅すぎた。犯した罪を贖う術などない。

 バイクにまたがり、再び山を走らせた。

 

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