海の青の深さに飲まれて

 洗濯物に灰がついているのは、うえの部屋で煙草を吸う女のせいだ。男は夏になると朝早くに洗濯して、七時から干す。二時間後の九時に取り込む。

 今日は三十分遅く干し、三十分遅く取り込んだ。


 ――なぜ?


 回転する車輪がカラカラと妙な音を鳴らしはじめたのは先週の木曜だった。

 近くのおおきなスーパーで買った一万四千円の二十七インチの自転車で、いくらだったか、どこで買ったかは覚えているのに、いつ買ったのかだけが正確には思い出せなかった。

 パンクは何度したかわからない。後輪のタイヤとチェーン、ブレーキパッドを交換した。ギアはない。

 男にとっては大切な愛車だった。


「こんちはー」


「ああ、こんちはー」


 せまい階段をすれちがう。上の階の女だ。男は集合ポストを開けずにすきまからなかを確認し、駐輪場へと向かった。



「なあ、砂のなかになにかあるぞ。これ、なんだよ」


 少女の小さな手が掘り出したのは、虹色に光る貝だった。


「貝じゃん。そんなのどこの砂浜にもあるじゃん」


 ぞんざいに応じたものの、黒い砂ばかり見ていた目には鮮やかに映った。少女の白い手のひらは濡れた砂で汚れていた。空は冴え渡り、天頂まで遮るものがなにひとつとしてなかった。


「んや、そんなことないべ。こんなきれいなの、はじめてだよ」


「だからさ、そんなのただの貝じゃん」


 弁天橋下の砂浜で見つけた貝は、どういうなりゆきだったか、今でも男が持っている。

 休日、ただ自転車でコンビニに行くつもりが、そのまま国道に出た。

 空に雲はないものの、うっすらとしろいガスで覆われている。冬の晴れた日ならば、毎日と言って良いほど富士山が見える。海岸の黒い砂を埋めるように、人が海水浴を楽しんでいた。

 キュコ、キュコ、キュコ。男の愛車が鳴く。理由もなく弁天橋を渡った。コンビニに行くつもりだったのに、国道を左に折れて、島へと向かっていたのだ。そこにコンビニはない。飲み物も、橋を渡るか渡らないかで値段が違う。観光地なのだ。


 ―—なぜ?



 駐輪場に自転車をとめた。

 観光客らしきアジア人が、海を背景に写真を撮っていた。その横で、半裸のおやじが昼からビールを飲んでいた。

 日常だ。男は島に渡る度に、地元の住民が酒に溺れているのを目にする。外国人観光客で賑わうようになるのと比例するように、地域の経済は潤った。恩恵に与らなかった一部の人の生活は、不思議とかえって悪くなった。半裸のおやじも男も、後者に属する。


 参道をまっすぐのぼり、手前で右に折れた。多くの人は直進し、エスカレーターを使う。右に続く坂道は長く、人は少なかった。不意に景色が開ける。自転車をこいでいたときにうっすらと滲みはじめた汗が、今ではTシャツの胸のあたりまで濡らしていた。夏の日差しや潮風を感じなくとも、汗は乾かない。それがこの島だ。Tシャツがべったりと肌に貼りついていた。

 細い路地を抜けて本道に合流したさらに奥の神社を抜け、岩棚の方へとおりた。島の入り口の橋の、ちょうど反対にあたる位置する。潮位次第で海の中に沈むそこには今日も釣り客がたむろしていた。

 遠くの海で船が揺れている。岩棚に打ち寄せる波が、くぼみの中に落ちて白い泡の渦になる。一粒ひとつぶ生まれては消える泡沫に視野が飲まれて暗くなっていく気がする。

 海が憎い。空の青が憎い。太陽が憎い。焼けた黒い肌が憎い。夏のすべてが憎い。なにもかもが憎い。額からつたう汗が目に入る。

 男は目を瞑り、声をあげた。瞼の裏側には、太陽の光が虹色に透けていた。

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