羊は哭き山羊はのぼる

 イタリアのダムの壁面をのぼって、塩を舐める山羊がいる。そんな話を聞いた青年は、実際その目で動画を見るまで、信じることなどできなかった。

 グラン・パラディーゾ国立公園の一画、アルプスアイベックスは五十メートル近い、ほとんど垂直の壁面のわずかな凹凸にひづめを引っ掛けて、必要な栄養素を摂取するため、その壁面を必死に舐める。健気だ。


「でも、そんな危険を冒す必要が本当にあるの?」


「なに言ってるの。必要な栄養なんだから、生きるか死ぬかの問題、どっちにしたって命懸けなの」


 切実とも言える少女の声は密かに怒りはらみ、誰もいない教室の空気を静かにふるわせた。



 羊になった。狼たちの前で、草を食むことしかできない者は、ただ潔く食われるしかない。本当は他の誰でもよかったのだ。教室の隅っこでおとなしく座って息を潜めていたはずなのに、運悪く見つけられた。それだけの話だ。

 サッカー部のエースがふとノートを覗き込んだ。好きなアニメのキャラクターをページの端に小さく描いていた。


「ん、なにそれ」


 咄嗟に隠したのが悪かったのかも知れない。サッカー部のエースは、それほど悪い人間ではなかった。とりまきが集まって来ると、からかい始めた。


「げ、キモッ。オタクじゃん」


「こういうの描いて自分でやってんじゃね」


「うわっ、汚ねえ」


 それから二年間、ただ耐えるしかなかった。

 高校の三年間はいじめられない代わりに、友人ができなかった。一方、勉強ははかどった。友人がいないことで、時間が有り余るほどあったのだ。決まった時間にアニメを見て、ゲームをしたって、時間は余った。

 受験は成功した。名のある大学に複数合格し、地元の国立大学も合格した。最後に選んだのは、上京することだった。


 ——この土地から逃げ出したい。食われるのは嫌だ。



 中学高校の記憶を置き去りにしたくて出てきたはずの都会も、結局はおなじだった。狼ばかりの世界で、肩をすぼめて自分を小さくしながら、隠れながら生きるしかなかった。

 記憶はどこまでも自分にへばりついて離れない。羊に自由などないのだと知った。


 ――だからせめて、山羊くらいにはなりたい。


「羊より、山羊のほうが上等だなんて、なんでそんなことが言えるん?」


 少女の理屈も一理ある。山羊のほうが漠然と位が高いと思っていた。羊はただ従順に人間の家畜となる無様な生き物だ。一方山羊は、人に媚びない野生の美しさを備えている。そんな気がしたのだろうか。


「生贄に値するから、かな」


 適当に反論した。スケープゴートという言葉を授業で聞いたばかりだった。抗う気などない、ただ、もう少しだけ彼女と会話を続けたかった。


「羊だって生贄になるよ」


「え、そうなの?」


「あと、人もかな。君は、そんなものが、ただそれだけで、本当に尊いと思うの? 君が無価値なのはさ、君自身が君を無価値だと思っているからじゃない」


 夏の太陽は西に沈んだ。夕涼みといきたいとこだが、まだまだアスファルトは昼の熱を忘れてはいない。

 二人で外に出た。言葉は少なかった。一緒にバスに乗って駅まで行き、ターミナルから駅までの間にある汚い居酒屋に入った。未成年でも飲めるのは、そこだけだった。カウンターに座ると、少女はビールを注文した。黙ってそれに従った。

 次第に酔いが回った。なにを話したのかも覚えていない。前後不覚。酩酊状態。歪んで見えるのは、レンズが歪んでいるからだ。英語で誰かが叫ぶのが聞こえた。

 それもいつしか遠ざかり、がらがらとシャッターを開けるぎこちない音で目が覚めた。

 朝だった。少女の姿はどこにもない。身体中いたるところに痛みがあり、吐瀉物が足元を汚していた。財布とスマホが頭の近くに転がっていた。開いたシャッターの向こうに改札があった。駅だ。駅でそのまま眠ってしまったのだ。


 ——まずい。


 明日は、いや、もう今日だ。今日はバイトが入っている。重たい身体を持ち上げると、どうにか始発電車へそれを乗せた。汗と吐瀉物と酒で、異様な臭気を放っているのが、自分でもよくわかった。

 女の子と二人で飲みに行く。と聞けば、少しは青春らしいことをしているではないか。

 もう、単なる草を食むだけの羊ではなくなったのかもしれない。



 アイベックスが塩を舐めるようとダムの岩壁をよじ登るのは、ナトリウム不足のためだという。草だけでは足りない。草だけでは足りない。塩分がどうしても足りないから、草食系でも、命を懸けて岩壁をよじのぼる。

 欲が、命を賭してまでも山羊を危険な場所へと駆り立てるのだ。


 ――もう羊じゃない。


「スケープゴートになりたいなら、別にそれでもかまわないけど」


 バイトに行った。青年はほとんど眠っていなかったせいか、その日のことを覚えていない。少女との間になにがあったかも。夏はまだ、始まったばかりだった。


 ――生贄は一匹で十分だよ。


 夜に話した、唯一覚えている彼女の言葉だった。返す言葉がみつからなかった。彼女にはなにもかもが見透かしているような気がした。そんなはずないのに。彼女も同じように、どこかに理解者を望んでいたのだ。


 ——見えてることがすべてじゃないから。


 二度と彼女に会うことはなかった。

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