萩の花
少し背の高い萩が生い茂り、地面には紫色の花がいくらか落ちていた。風に揺れるほどひょろひょろと長く、頼りない。葉の重なりあう緑の裏には、濃い黒い影が落ち、日の差し加減のせいか、明瞭なコントラストが目に眩しかった。
女は長い黒髪を振った。と同時に、昨日使ったシャンプーの匂いがふわっと鼻に触れるのを感じた。うなじを汗がつたい、心臓が高鳴る。秋が立って来たとはいえ、彼岸頃はまだ暑い日もある。近所のコンビニまで歩いただけだが、からだの芯がぽかぽかと熱を持っているのがわかる。それでも、萩の葉のあいだを抜けてくる風は冷たく、爽快だった。
先日の台風で花を散らした萩が、それでもなお青々とした葉を日の光に輝かせている。女は濃い色彩の向こうの軒下に、裸足を水に浸けた、一見すると少女のような、髪の短い女を見出した。沓脱石の上に置いた木桶には、たっぷりと水を注いである。その水と戯れる妖精のごとく、彼女は白い足をばたつかせたり、足先の水を遠くに飛ばして遊んでいる。女はしばらく、その様子を眺めていた。少しすると、別の女がそれに気づいた。「おかえり」と言って、女の方へと足で水を飛ばした。それもまた、冷たく心地よい。
「濡れちゃうじゃない。せっかくあなたのためにアイス買って来てあげたのに。そういうことするならあげないよ」
といっても、このあと二人でアイスを食べることを二人とも知っている。
「いやーごめんごめん。謝るから許して」
と、別の女は申し訳なさそうにして見せる。そうした約束事のコミュニケーションは、どこか挨拶に似ていた。
「ん。よろしい」
女はコンビニのビニール袋を手に、別の女の隣に腰掛けると、中から何種類かアイスを取り出した。
「どれがいい?」
「めっちゃ多くない?」
「ご両親の分も」
「食べるかわかんないよ。きっと食べないよ」
「なら後でまたふたりで食べよう」
別の女は、チョコレートのバーのアイスと、苺練乳のかき氷のアイスを選んだ。
「なんだ、結局ふたつ食べるんじゃん」
「苺練乳は少し溶かしてから食べたいの」
「ふーん」
女は選んだコーンのアイスを置くと、水桶の横に靴を脱いだ。
「水、飛ばさないでね。靴が濡れたら嫌だから」
「わかってるって」
女は縁側にあがり、居間を抜けて台所の冷蔵庫にアイスをしまった。ついでに、グラスに二杯麦茶を注ぎ、縁側へと戻った。
「飲むでしょ」
「うん。……なんだか、お腹壊しそうだね」
「確かに」と答えてから、女は思案するように腕を組み、しばらくすると再び立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
「ん?」
台所には、昨日飲んだ空のペットボトルと缶が並んでいた。女は、二人が来る夜までには片付けなければと思う。だが、今はまだ、時間があった。
湯を沸かした。沸騰するほど暑くする必要はない。いくらか温まってから、それをペットボトルに注いだ。外から触れて少し暑いくらい。それを、フェイスタオルで包んで、暑過ぎないかもう一度確かめた。平気だ。
女が縁側に戻ると、別の女は水から足を抜いて、沓脱石にぺったりと裸足で乗っていた。
「汚れるよ」
「平気、水ですぐに流せるから」
彼女はそう言って、桶に足をつけて、綺麗に洗い流した。そしてその足をどうするのだろうと見ていたが、桶の端に乗せて、乾くのを待つらしかった。沓脱石には、彼女の小さな足の跡がくっきり残っていた。それも次第に日差しに吸い込まれ、薄くなっていった。
「それじゃ疲れるよ」
「うん。タオル持って来て」
「ん、これでよければ」
女の作った即席の湯たんぽが使われることはなかった。ぐるりと巻いたタオルは足を拭くために使われ、ペットボトルのお湯は、木桶の水と混ぜて庭に撒かれた。
庭の内側から見ると萩の花は散り尽くしていた。季節がひとつ終わり、また新しい季節を迎えようとしている。女はなんとなく寂しくなった。
「散っちゃったみたいだね」
「毎年のことだもん。仕方ないよ」
女と別の女の考えていることは、どうやら同じらしかった。
「それにしても、君は律儀だね」
「なにゆえ?」
「だってわざわざ、挨拶がしたいだなんて。あたしは少し驚いたよ」
「そう。私たちのことを近しい人に認めてもらいたいと思うのって、珍しいことかな」
「君って案外、普通なんだよ。あたしにはない感覚」
「そうかな。あなたも意外に普通だと思うよ」
「そう」
「ん」
彼女の両親が来るまで、まだ時間がある。と女は思った。隣のひとまわりからだの小さい生き物を、そっと抱き寄せた。髪からは、自分のと同じシャンプーの匂いがした。昨日、はじめてこの家に泊まった。まだ時間がある。もう一度、そう思った。
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