名と絆

 男は休憩室のソファーに横たわって目をつむると、心臓の音が聞こえてくる気がした。ディスプレイに並ぶ言葉や数字から遠ざかり、自分の中に閉じこもる。同じく休憩室にいる同僚の何人かはお喋りに興じていたものの、仲間になろうとは思わない。男のような人間が多数派だ。ほとんどがソファに座って眠るか、椅子に腰掛けてスマホを見て過ごしている。自分を開いて他者と関わろうとする者を、羨んだりすることもない。完結した小さな世界で心を休ませる術を誰もがわきまえている。むしろ不安を感じているのは、むしろ話し通しの何人かなのかもしれない、と男はぼんやり考えていた。

「ここ、空いてますか」

「ええ」

 男の隣に女が座った。

 男は、女の名前を知らない。女もまた、男の名前を知らない。

 というのは正確ではなかった。業務上チャットツールでやりとりすることが多く、名前だけを知っていた。男は女の名前だけは情報として持っているのに、それを女と結びつけることができない。逆もまた然り。現実に存在するはずの対象を見ずとも名だけでその実在を疑いもせず受け入れるのは、いくらか奇妙なことに思えるものの、誰も気にはとめない。もちろん、男も、女も。

 くう、と声を漏らし、全身をピンと伸ばしてから、女もすぐに目をつむったようだった。男はかすかにその気配を感じながらも、再び自分の世界へ閉じこもった。

 幼少期を過ごした家の近所に、大きな病院があった。市内で数カ所しかない救急病棟のうちの一つが、その中にあった。そのため、年中救急車の音を聞いた。その音を聞くたび、祖母が言った。また誰かにお迎えが来たのだろうね、と。男は子供ながらに、そんなわけないだろう、いい加減な人だな、と思ったのを覚えている。その大きな病院の裏庭に、黒い犬がいた。敷地と裏手にある林の間にはフェンスが張られ、外には出られないようになっていた。男は友人とよく裏手の林で遊んだ。すると、フェンスの向こう側から犬が駆けてきて、ワン、ワンと高い声をあげた。遊びたいのだろうと思ったが、二人と犬のあいだをフェンスが隔てていた。木々の梢が風で揺れ、こもれびが揺れながら黒い犬とじゃれあった。黒い犬はそうして、遊び相手を求めているのに、フェンスに阻まれ得られない。可哀想だと思った。男と友人は犬に名前をつけた。そして誓った。この小さな世界から助け出そう。そのためには下に穴を掘って、抜け出すための道を作ってやらなきゃならない。

 男は目を開けた。白い天井をには無数の黒い穴が空いていた。蛍光灯やスプリンクラーがあった。火災報知器もあった。穴だけがなんなのかわからなかった。天地を逆さまにし、穴の一つひとつに種を植えれば、花を育てるのにちょうどいいのではないかと考えてみた。甘い香りが鼻先をただよってはすぐに消えた。

「犬をね、逃したことがあるんですよ」

 と、口にするのを男は想像した。

 男と友人はスコップを手に、必死に地面を掘った。木の根が長く伸びているのか、なかなかうまく掘れない。表面に生えた草も二人を邪魔をした。それでも夢中になって掘るうち、ようやく犬一匹が通れるくらいの溝をフェンスの下に作ることができた。ほら、おいで。と友人が言った。犬は少し迷っているのか、ふらふらとした足取りでフェンスに近づいた。ほら、おいでったら。友人がまた言った。犬はおずおずと身を縮こまらせ、フェンスの下をくぐった。尻尾を丸め、股の間に挟んでいた。毛は逆立ち、震えていた。怖かったんだろう。と友人が言って、犬の頭を撫でようとしたが、するっとその手をすり抜け、犬は駆けた。一瞬だった。林の人の通らない、下草の長く生えた薮に飛び込み、姿が見えなくなった。男と友人は、犬を逃がしてしまったが、救えたのかはわからなかった。

 男は重たい腕を持ち上げ、時計を見た。休憩時間がもうすぐ終わる。体を起こし、ゆっくりと立ち上がる。ふと隣を見ると、そこに女の姿はなかった。さっき見たのは夢だったのか、現実だったのか。考えてみげも答えは出ない。ならば。

 ——聞いてみよう。

 と男は思った。

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