渦を巻いた白い波が岩の隙間に吸い込まれるのを、男はなんとなく憂鬱な気分で眺めていた。

「で、どうするの?」

 女は尋ねるというよりは、ただ海に吐き捨てるように言葉を口にした。ずうずうしい記憶が頭にするすると忍び込んできては、矛盾した言葉で麗しい過去へと誘惑してくる。無視はできない。幼年時代の幸福な日々。誤った記憶だと知っていても、今を認められない女は、過去こそが人生における最良の時だと、どうしても勘違いしてしまいがちなのだ。悪いことに、それを自覚している。目の前の男も、そう変わらないだろうとも思う。

「どうするもなにも、どうもしないよ。僕らはこうしてここにいるから、きっと明日も、こうしてどこかにいるのだろうよ」

「は。わけわかんない」

 男は潔いほど憂くなるような鈍い声でしゃべった。声はほとんど波の白い渦に飲まれて消えた。互いの呼吸が聞こえるくらい近くにいるのに、声だけが届かない。遠くのひかりのほうが、近くの光よりもずっと明るく見えることがあるのと同じで、近くの声が遠く聞こえることだってあるのだと自らに言い聞かせた。女が悲しい顔でも見せてくれれば、気休めになる。だが、女が男に見せるのは常に、怒りと苛立ちに満ちた険しい顔ばかりだった。

 ぴゅーひょろろろろろー。

 トンビが上空を横切った。男が視線を上げると、雲一つない空が広がっている。秋は深まり、冷たい空気が二人の間を吹き抜ける。それでもまだ、過去が二人を繋ぎ止めて放さなかった。

「僕にだってわからないよ」

「それなら、私にわかるわけないでしょ」

「そうとも限らないと思うけど」

「まあ、どっちでもいいわ」


 島をぐるりと歩く間に、人より猫に多く会った。猫の時間の中で、人間だけがせわしなく生きている。男と女は目的地を持たずにふらふら歩いて、人間にも猫にもなれない半端者は二人だけだった。

 途中でカラスと睨み合い、ちょろちょろとヨガをする女性の周りを動き回っていたリスを観察して、最後は海岸に行きついて波を見た。

 その頃には海には人が増えていた。朝はサーファーの姿しか見られなかったが、いつのまにか散歩する老夫婦や、何かの動画を撮影している高校生の姿もあった。男はポケットからスマホを取り出すと、一枚の写真にそのすべてをおさめた。

「なに撮ったの」

「人の一生だよ。ほら」

 子と母と父。高校生たち。サーファー。老夫婦。生まれてから死ぬまでの時間の変遷がちょうどよく一枚に閉じ込められていた。

 女はなるほど、と頷いてから尋ねた。

「子供って、いなければならないものかな」

「どうだろうね。いた方がいくらか人生は得かもしれないね」

「得?」

 女はいつしか苛立ちが消えていたことに今更ながら気がついた。男の方でも、それに気づいているらしい。互いが落ち着いた気持ちで話すのは久しぶりだ。女はなんとなく、懐かしい心持ちがした。

「そう、得なんだと思う。過去と現在と未来が一度に、幾重にも感じられるのは、子供を得てみないとわからないことなんじゃないかな。僕らには過去しかない。過去しかなくても悪くはないけど、ちょっと物足りなさを感じるよね」

「物足りなさ、か」

 やがて子連れの夫婦はどこかへ消えた。高校生たちも動画を撮り終えたのか、別の場所へと移動して、別の動画を撮影しているらしい。老夫婦はまだそこにいる。

「子供、作る?」

「どうだろう」

「まあ、いなくてもいいかもね」

「でも、いてもいいかもね」

 老夫婦も立ち去った。二人は自分たちがさっき歩いた場所を、振り返って見た。どれが自分たちの足跡か、もうわからなかった。

 女は特別、それを気にかけなかった。

 男も特別、それを気にかけなかった。

「また歩こうか」

「うん、そうしよっか」

 二人は立ち上がると、来た道とは反対へと歩き出した。

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