揶揄い

 男は訝しげに首をかしげ、女の表情をうかがい見た。わからない。揶揄っているように見えるが、恥じらいを隠しているだけにも見えた。あるいは、ただ無邪気に笑っているだけなのかもしれない。距離に対する感覚が乏しいのか、必要もないのにどうしてそれほど近くにいるのか男にはどうにも解せない。

「ちょっと近すぎないですか」

「あら、ごめんなさいね」

 そういうと、なんでもないことのように少し距離をあけた。男は意外だった。

「いえ、嫌というのではないのですよ。僕はどちらでも構わない」

「どちらでも構わない、というとどういうことですの」

 女に問われ、男は頬を赤く染めた。

 自分自身どういうつもりでそんな言葉を口にしたのか腑に落ちなかった。

 宴もたけなわ、すっかり出来上がった同僚たちは騒いでばかりで、そんな二人の様子には気付きもしない。居酒屋の座敷の隅で、ぽつんと二人きりで奔放にはしゃぐ同僚たちの姿を眺めていた。憂さ晴らしに酒を飲むことの上手な人を、羨みながら、はるか遠景を眺めるかのように。

「特に、意味はありませんよ」

「そうですか」

 店員が同僚たちを注意した。他の客の迷惑にならないよう気をつけて欲しい、と。リーダー格の男と、それに付き従うような形の新入社員が、不服そうに不平を述べた。他の同僚が宥めようと諭すと、余計に二人は怒りを募らせたのか、さらに大声で叫び始めた。そろそろお開きだろう、と男は思った。

「そろそろ出ますかね」

 女に問うでもなく言った。

「じゃあ、二人で出ますかね」

 女はまた、揶揄うかのように言った。

「あはは。そうしますか」

 今度は男には少し余裕があったと見え、女の言葉に軽く応じた。女にはそれが意外だったようで、一度目を丸くして男を見てから、離したはずの肩を再び寄せた。

「冗談じゃなくって、本当にそうする?」

「構いませんよ」

 二人とも意地になっているのか、引くに引けないだけなのか、取るものも取り敢えず、騒ぐ同僚を尻目に、こっそりと店を出た。


 会社から五分とない。駅からも近い。長距離バスターミナルのあるビルから、しきりに大型バスが吐き出されては、飲み込まれていた。ちょうどその交差点に、二人の勤めるオフィスの入ったビルがある。店を出て、しばらくぼんやりと喋りながら、どうしたものかと二人で考えていた。栗の花のにおいがする。オフィスの裏手はホテル街だった。男がちらと女を見やると、やけに落ち着いているのでなおさら困る。男の緊張が高まる。が、女が男の袖をつかみ、オフィスの入ったビルの方へと引っ張った。脇の路地を抜けると、オフィスの裏手へ回ることになる。

「せっかくだし、ちょっといいとこ行きましょ」

「えっ」

 女の言葉にさらに緊張したのも杞憂だった。脇の路地に抜けるのではなく、ビルに入った。いつも使う業務用とは別の、正面の商業用エレベーターの乗った。オフィスの上にある、小洒落たカフェで過ごすことに決めたのだ。

「どきっとした?」

 女はやはり、からかうように男を見た。

「すこし」

 男は素直に答えた。酔いが回っている。繕うのも面倒だった。それでも恥ずかしくないわけではない。頬が熱くなるのを、少し冷えた自分の手で冷やした。女がそれに気が付いたのか、手の甲を男の頬に当てた。

「冷たいでしょう。私、とても冷えやすいから」

「そうですか」

 女の手は冷たく、心地よかった。体温がしっとりと混じりあう気がした。男の熱が女に移り、すぐに温くなった。エレベーターからは都会の夜景が一望できるのに、女は男だけを見た。

「ここじゃなくても、私はいいんだよ」

 揶揄うような笑みはなく、その真剣な眼差しには少しだけ嘘をはらんでいる。男は過去に付き合った女性たちを目の前の女に重ねて、その嘘の意味を考えざるを得なかった。

「いえ。今日のところは、ここで楽しみましょう」

「そう、そうですね」

 男は、女の黒い瞳が夜の街の光を映すのを見た。そこには同時に、臆病そうな男のおどけた笑みが映っていた。

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