哀哭と咆哮

 判決が下ると男はその場に崩れ落ちた。滂沱の涙に頬を濡らし、声をあげて泣いた。

 同じように泣いたもうひとりもまた、似た年頃の中年の男だった。短髪のごま塩頭まで瓜二つだったが、立場がまるで異なった。

 一方は死の運命を他人に委ねることが決まった死刑囚となり、もう一方は妻と女を奪われた遺族だ。

 死を望む男と、死を望まれる男。二人を阻むのは一枚の薄い衝立と数歩で届くほどのわずかな距離だけだった。生死を隔てる境界線にも見えた。


 男はようやく迎えたエンディングに絶望していた。

 もはや生の目的となっていた判決を得たのだ、今更なにをすることがある。やるべきことが終わったなら、彼女たちのもとへ行くのが筋ってものだ。犯罪者に対する死刑判決は死刑を望む遺族から生の意味を奪う形而上の死刑判決になった。


「やっと、終わりましたね」


 支援者の一人が手を差し伸べた。握手を求めているらしいことがわかり、遺族の男はその手を握り返した。じっとりと湿った熱の帯びた感触は、人間の生の醜悪さを表すのに十分だった。

 それは男にとって、妻と娘を食べさせるためにしてきた経験による、反射的な動作に過ぎなかった。

 人の死に対して全く無力な社会的触れ合いは愚にもつかぬ行為に思え、握る手の力を余計に強めた。空虚な心を満たそうと物理的な力を用いる。醜悪さを握り潰そうと試みれば、新たな希望を見出せることを期待するかのように。


「力強い握手ですね。念願の判決ですからね。戦い続けたあなたの、生への強い意志が感じられますよ」


 ——ああ、念願の?


 男の細い腕には血管が浮き立っていた。生への意志などない。復讐への執着と、なにもできなかった過去への悔恨だ。

 終わり、とはなんのことを示しているのか。二人が死んだその瞬間から。終わりならば既に訪れていた。

 男はあらかた死んだ。決着だけが必要だった。ほんの一押しで足りる。死刑宣告を最初に下されたのは、憎むべき男ではなく、自分だったのだ。今ではわからない。二人を殺したのはあの男ではなく、自分だったのではないか。手を下すことと行為の間に必然や偶然が介在しうるならば、責任とはいったい誰に帰属するものなのか。


「ええ、そうですね」


 男は混乱しながら答え、不思議と手に力が入った。

 目の前の支援者の喜ぶ姿に殺人者の面影を重ねていた。同じだ。自らの信念や目的のために他者の死を望む。我々は生まれながらにして殺人者なのだ。



 男の脳裏に、娘に言われた言葉が駆け巡った。そしていつからか、一度だって言われたことのないはずの言葉もそこに混じり始めた。

 何度だって聞きたい娘の声であるはずなのに、殺人犯の死を望み、実現するために尽力してきたこの数年で、耳障りに感じるようになった。

 地裁から高裁、最高裁への変遷の過程で、娘が男の耳元で囁く。懐かしい声で、少し棘のある調子で。残酷に。


「どうして好きなことを仕事にしないの? ただ私やお母さんを言い訳にして、本当にやりたいことから逃げてるだけじゃない。みっともないよ」


 好きなこと。

 男にはなにも思いつかなかった。

 野球を見ながらビールを飲むことと、馬券を買ってもいないのに見る週末の競馬。金曜の夜の過去に繰り返し観たことのある映画鑑賞。三十年続けてきた商社の仕事。妻に頼まれたゴミの仕分け。

 自ら動く、というのがなんとも億劫で、受け身の情報のなかでただ怠惰な時間を過ごして楽しみを見出すのが良いと思っていた。なにもせずとも、楽しみは向こうからやってくる、と。


 娘は美大に一浪で合格し、日本画科を専攻し、絵画を学んでいた。


 昔、妻が美術部で油絵をやっていたという話を聞いたことがある。

 二人に通じるところがあるのは、そのためだ。

 男ははじめ、娘が美大に行きたいと言い出したとき、反射的に反対した。

 文系の無難な大学に入学し、数年間勤め上げ、良い相手を見つけ、結婚すればいい。男の妻のように。あるいは、世の中ののように。


「お父さんは勘違いしてるけど、お母さんだって大切なものをたくさん犠牲にしてきたのに、『お前のためだ』なんて言葉は一度だって使わなかった。その違い、お父さんにわかる?」


 今でも男にはわからなかった。

 妻が笑い、娘が普通に育ってくれることだけが男の望むことだった。


 ——それ以外に望まないことが、そんなに悪いことだろうか。


 そこに喜びを見出した人生が、価値のないものだったのか。


「お父さんは私たちを、に利用していただけでしょう。今だってそうよ。お母さんに『お前のため、食わせるため』って言い訳して、私に対したって『お前を大学に行かせるため』って言い訳して、いっつもそればっかりじゃない。私たちのために死刑判決を勝ち取ったんだとか言ってるけど、私たちはもういないの。死んでしまったの。それがどういうわけか、死刑判決が死んだ私たちのためになるっての? あの男が憎くてと願っているのはお父さんであって、私たちにはもうそんなことを願うことすらできないの。なのに、ねえ、お父さんはいつまでもこうしてすべての原因を私たちに押し付けるのね。どうして、ねえ、どうしてなの? ねえ、お父さんはなんのために生きてるの?」


 そんなことを言われたことがあっただろうか。

 思い出そうにも妻や娘の顔を思い浮かべるたび、殺人犯の不気味な笑みが瞼の裏に映じた。

 望むか望まぬかなど関係はなかった。できることなら、彼が死刑判決を免れ、すぐに出所して自らの手で決着をつけたほうが遥かにましだったのだろうと思う。男は、とにかく殺したかったのだ。

 大切なものを奪われたのだから、それは当然の権利であるはずではないか。男はそう思っていた。


 死刑がなにか、など男は考えたことなどなかった。法を破ったものが報いを受けるのは当然だと思っていたし、殺人を犯せば相応する死が待っていて然るべきだとも思っていた。

 思考を挟む余地などないし、必要性すら感じない。その短絡が、男のすべてだった。


「だからお父さんは、お父さんを探すのではなくて、私たちの代わりに殺人者を同じ場所に置いたのでしょう。生きる意味として憎しみに価値を見出したのでしょう。自分から逃げるためだけに、お父さんは動物みたいに生きるの。欲を満たして飢えて欲を満たして飢えて。だけを繰り返すの。意味から逃れるために自ずから、自意識から逃れるためだけに。そんなお父さんとあの男と、。同じでしょう、あなたたちはただのなの」


 ——そんなわけない。どうしてお前は、そんなことを言うのだ。


 娘の声は何度も男を苛み、やがて声がやんだ。


 憎む相手が死ぬことが決まったと同時に、妻と女は、男のそばからいなくなった。

 二度と声は聞こえない。完全な喪失。おそれていた無意味。自分という空虚。そして耐え難い孤独。

 死刑判決によって死ぬのは自分なのではないか。凄まじいほどの恐怖が大きな影になって男を包み、視界を奪った。

 終わり。終わり。これですべておしまいだ。もう、生きる意味などなにひとつない。



 男は孤独だった。

 だが、死が決まった瞬間、絶望と共に、安堵に似た感覚があった。男にとって罰は救いだ。永遠に失われた命の贖いのために、自らの命を差し出すという高潔さを最期に手に入れられる。

 男の過去の孤独は終焉を告げ、死とともに、自分が殺した二人のために命を捧ぐ。

 孤独ではない、二人がともにあった。

 そこに一緒にある。生きた。殺して良かった。最期に救いが訪れるならば、瞬間に全てが報われる。



 ああ、という声が法廷に響き渡った。


 二人の男は獣のように地べたにはいつくばり、周囲のものが必死に抱き起こそうとするのにも気づかぬかのように、ああ、ああ、ああと何度もなんども悲痛な声をあげた。

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