虜囚

 娑婆の空気はうまいというが、塀の内も外も空は同じだ。女は犯罪を後悔していなかったが、反省はしていた。もう少し巧妙にやれたのではないかと。もっと苦しみを与えてやれたのではないかと。憎しみを回収するには十分だったが、倍ないし四倍くりあで返してやりたかった。それが礼というものだと教えられたのだから、まったくその通りに返してやるべきだったのだ。だが、もう遅い。

 何もかもが規則正しく律せられた施設の中でほんの束の間おとずれる自由は、運動の時間だけだった。秋空は冴え、紙飛行機でも飛ばしたら気持ちが良いだろうと思うが、当然ながらそんなことはできない。だから女は短い時間で効率よく身体を鍛えることだけを考え、寸暇を惜しんで体力作りに励んだ。ランニング。懸垂。腕立て伏せ。腹筋背筋。器具はない。自分の肉体の重みのみを用いて、自らを鍛える。外にいるときは考えたこともなかったことを、毎日のように習慣としてこなしているのがいかにも不思議だった。

 刑務作業も嫌いではない、というより女は、単調な刑務作業を好んだ。決められた工程で衣類を縫い上げていく。ミシンの整備から針の管理まで、厳密に定められた方法で行わなければならない。秩序、という一語で表すにはあまりに詳細に行動が制約されるため、嫌う者も多かった。刑罰に喜びを感じることに罪悪感を抱くようなややこしい連中もいた。苦悩が免責の意識を育てるのと同じように、喜びが贖罪の念を損なうのだ。女は違った。決められた動作で、決められた手順で、決められたことをこなせば価値が認められる。社会で感じる理不尽よりかは遥かに優しく心地よい環境だった。刑務官は、機械も身体の一部だと思って大切に扱うように、と宣った。逆だ、と女は思う。人間が機械の一部なのだ。刑務所全体が連動した大きな機械のようなもので、適切な部品を適切な場所に設置すれば、故障なく効率よく機能する。故障があれば修理が必要なわけで、適切な部品が適切に扱われていなければ修正が必要なわけで、こうして私は運動場で体力を保ち、長い懲役の中でついには刑務作業の最上位である一級を獲得したのだ、となればここを出る必要もない、生涯ここで過ごし続ければいいではないか、と女は考えた。——皮肉なことに、女は模範囚だった。

 娑婆よりに居心地の良さを感じるのは女だけではないうえ、居心地の良さを感じるが故に模範囚になってしまう受刑者は無数にいた。そのほとんどが再びここへ戻ってくる。

「あたしはここじゃなきゃ、生きる価値や意味が感じられないんだよ」

 計三度目になる窃盗癖の中年女がぼやいていたのを女は聞いた。価値や意味を他者が決め、贖罪という大義名分を与えられたうえで自らの運命を丸投げしてしまう虜囚の惨めな境遇こそが、人間の本質に近いなにかを表しているのではないか。女は図書室で借りた一冊の本を読みながら、そんな感慨にふけった。

 図書室の窓からは、カタカナでコの字を描いたような刑務所の全容が望める。中央にある運動場は、周囲から監視されている。問題が生じるのはいつだって運動の時間なのだ。束の間の自由は闘争の余地を与える。運動の時間のみ、ここに社会が生じる。社会は常に善悪混淆し、善が罰せられ、悪が褒め称えられるのも珍しくはない。天網恢恢疎にして漏らさず、なんて言葉が意味をなすのは小説映画の虚構くらいで、世に悪は蔓延り、善は蝕まれ、混ざり合った灰色の波が寄せては返すような荒れ狂った海原なのだ、だから女は、全力で肉体を鍛えることに執心したのだ。善も悪も関係ない彼岸を目指して泳ぎ続けることでしか女は生きられない、とどまれば途端に沈む、見渡す先になにも見えずとも、続ける意外に手段を知らない、だから進む、だから進む、進む、走り続けている間はずっと、景色は変わり続けているのだから。

 窓の外の風が図書室に吹き込んだ。清らかな風だった。何も考えずに胸いっぱいに吸い込んで、吐き出した。外に自由があるなんて幻想に過ぎない、と女は思う。自由は外にあるのではなく、内にしかない。この確信を、中年女にぶつけてやりたかった。

「ここだってあんたは、生きる価値や意味はないよ」

 中年女が死んだのは、その一週間後だった。刑務作業中に倒れた。ほぼ数時間、座りっぱなしの作業だった。心肺停止。AEDでの蘇生は間に合わなかった。娑婆での不摂生で高血圧、高脂血症となったことが原因だろう、と医療班のひとりがいっていたのを、女は聞き流した。


 意味がないから死んだのだ。価値がないから死んだのだ。あの女には、娑婆にも務所にも居場所はない。

 走る速度を増していく。限界に近い速度まであげなければ、自分が生きているという実感が得られない。心臓が高く打つ。たんたんたん、激しく打つ。咽喉に血を吐くような味があがってくる。限界。もうちょっと先に。もうちょっとだけ先に。さらに、さらに。——女はようやくペースを落とした。

 運動場で、雲一つない空を仰いだ。やはり、外と内は空で繋がっている。だが、そこにはなにもない、ただカラッポの空間があるだけだ。繋がり、連続性、そんなものははなからなかった。誰かがあけた空白を埋めるように別の場所に移動して、自分のいた場所は、他の誰かが埋める。椅子取りゲームに似た馬鹿げた遊びを永遠のごとく続けている人間に意味や価値などあるわけがない。中年女が無意味で無価値だったように、女も無意味で無価値だと知った。あるいは、ずっと前から知っていた。女にとっては、どちらでも構わなかった。

「娑婆に出たら、まずなにをする?」

 少女が問うた。真剣に訊いているのでもないらしい。

「戻る方法を考えるかな」

 もうすぐであることを、少女だけが知っていた。

「戻る方法?」

「うん。私に、戻る方法」

「……ふーん」

 私語は許されていないが、運動場にいる間だけ機会があった。女は刑務作業で上級位のため、ヒエラルキーによるしがらみからは比較的自由だった。話したくない人間と無理に話す必要がないため、無駄なエネルギーを消費せず過ごせる。話しかけられても、嫌な人間とは話さない。

 少女はまだ十五、六に見える。少年犯罪で刑務所に入ることはないため、実際は十くらい上だろう。無邪気に駆ける肉体の若々しさが少し羨ましかった。だが、嫉妬心以上に、単純に魅了された。美しさ、という形容が正確なのかは女にはわからなかったが、少女を見ていると静かな喜びを感じた。恋や愛とも違った。

「で、私に戻ったら、どうするの?」

 ゆるく走っている途中だった。一周二百メートルのトラックのロープが切れていることに気がついた。金属製の杭で留められているため、厳密に管理されている。逆棘があり、素手では抜けないはずだった。毎回運動時間ののち、一個ずつ管理表にその有無を記入していく。紛失がわかれば即座に檻房と身体の徹底的な検査が行われる。とはいえ、過去に例はなかった。

がない」

「え、なに?」

 前を走る少女は振り返ると、溌剌とした声で叫んだ。少女は女と同じように、殺人を犯したそうだ。娑婆の空気に毒された少女は、生のもたらす喜びを謳歌していた。

 走る。叫ぶ。汗を流す。生きる。ただ生きる。

 娑婆。

 女はそこに自由などないと知っている。求めているのは、喜びだけだ。快楽とも興奮とも違う静謐な喜び。目の前の少女のような迸るような生命力をそばで感じているだけで、胸の奥でじわじわと小さな泡が弾ける気がした。胸の奥。身体の内側。そこにしか女にとっての喜びは存在しない。外界が務所だろうが娑婆だろうが関係ない。

 じゅわじゅわじゅわじゅわ、とソーダの泡がグラスの縁で弾けるみたいにふわっと甘い香りが広がった。少女から発せられている。同じ石鹸を使っているはずなのに。おかしい。娑婆にはこんな匂いがあふれていた、ありふれていた。だからどこか、なつかしいのかもしれない。

 空は青い。冴え渡っている、どこまでも続いている、繋がっているのになぜか空虚な外の世界。私はここで私になれる、そう思ったとたん、不思議と娑婆も悪くはないと思った。刑期はもう終わる。恐れていた終わりも、悪くないと納得しかけていた。

「だから、がないって言ったの」

「そっか。そりゃ良かった」

 満面の笑みを湛えて、あーっと叫んだ。刑務官の視線が集まった。またか、という半ば呆れたような視線が散っていった。少女が突飛な行動を取ることを、なんとはなしに刑務官たちも許容していた。秩序が最も重んじられる刑務所内で、唯一許されたほんの刹那の穏やかな時間。女と同じように、刑務官も少女の無垢な笑顔に魅了されていたのかもしれない。

 少女は女に近づいた。高い日差しが少女の額を流れる汗に反射していた。夏よりも太陽が近く感じられるのは、目の前の少女のせいだ。女は少女と同じように笑みを浮かべていた。穏やかな笑み。諦念を得たかのように安らかに、空のように透き通っていて、雲ひとつない、濁りのない心をようやく得た気がした。穢れが雪がれた。風が吹いた。汗も憂さも倦怠もすべて吹き流すくらい強い風が吹いた。女は少女と同じようにあーっと声をあげた。少女は一瞬、ビクッと驚いたようだったが、ハハッと声をあげた。さらに一歩、女に近づいた。手に鋭い金属片を握りしめて。その笑みの清らかさに、女は最期にもう一度だけ、空を仰いであーっと声を張り上げた。

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