眠りの向こう

 朝起きて思うことがある。カーテンを引いて日差しを部屋に迎い入れる度に、自分が自分である根拠を失いからだが軽くなって雲になるような感覚を一瞬だけ感じて、すとんと落ちる。女はその度に思う。自分が自分であるのは何故なのだろう、と。

 顔を洗って、簡単な食事を済ませて、化粧をして髪を梳かして服を着替えて家を出た。駅までの短い道の間にも、いつも見る同じ顔がある。自分以外が自分以外としてそこにいることに不思議は感じない。圧倒的な奇妙さを持って、平坦な道に唐突にあらわれる出っ張りのような違和感となってぶつかってくるのは常に自分という存在だけだった。自分。自分。自分。

「私は誰だろう」

 女はなんとなく、私を示す唯一のものとしての名前を思い浮かべてみた。特別に珍しい苗字ではない。名前だって有名人からもらったものだから、同世代に同じ人も多い。それでも「私」というものと完全一致で対になるものと言えば、名前くらいのものしかない。その肝心の名前が、私という存在をある一点にとどめてくれるはずなのに、私を指し示す意外に名前には意味がない。

 意味がない。つまりは。

 ——私の存在そのものが完全に無意味なのかしら。

 と、女は思ったりもする。

 夢のなかで犬を抱いた。今まで一度も犬を飼ったことはなかった女は、ふわふわとした柔らかい感触を確かめるように、何度もその背中を撫でた。犬も嫌がりはしなかった。いつのまにか女は犬になって何度もその背中を撫でられていた。撫でているのもやはり自分だった。夢の中で自分は誰かになって、誰かが自分のままで、自他の境界線が崩れてしまうのが夢なのだと知った。夢は曖昧な「私」を見事に溶かしてくれるのか、あるいはそこに「私以外」が存在しないだけなのか、あるいは夢ではなくてもこの世界に「私以外」なんてものはいないのか。と思ってみるととても孤独だ。

 犬がいた。現実にも犬はいる。駅までの短い道で犬を見たことは何度もあった。だが、奇妙な夢のあとに犬を見るのは新鮮な感覚だ。リードに繋がれた犬は、飼い主に引っ張られるのではなく、飼い主を引っ張っていることが多い。爪が少し長いのか、歩くたびにしゃりしゃりとアスファルトと爪が擦れる音がする。犬を飼ったことのない女には、それが当たり前のことなのか、爪が伸びすぎなのかがわからない。白い毛が全身を覆い、顔にだけわずかに茶色が混ざっている。小さなからだ。犬種には疎いため、その名前を言い当てられない。犬種。犬種。名前。名前。その犬には、その犬だけを指し示す名前があるはずだ。リードを持つ男は犬には目もくれず、視線は手元のディスプレイに釘付けだった。犬よりも愛おしい何かがそこに映されているのだろうか。女には、男の態度が何を示しているのか、理解しかねた。

 改札を抜けて、ホームへの階段を下った。三十分発の電車を待つため、十五分前に家を出て、十分前には並んで待つ。待つ間に女は本を読む。本も夢と同じだ、と女は思う。文字をただ追うだけなのに気がつけば地面がポンと底抜けになってどこか別の世界と挿げ替えられている。奇妙だった。世界に入り込んだ自分はもはや、自分ではない。別の誰かになって経験している。なのにその感覚は、読後も自分の全身を、その中心を深く貫いている。確かに自分がした経験なのだ。首を刎ねられた無邪気な妃も、胸を鋭い刃で突き刺された英雄も、革命の勇士となって巨悪に立ち向かった奴隷も、どれも「私」だった。犬を撫でて犬になった夢を同じ。やはり、現実とは違う地平にそれはあるのだろうか。

 電車が低い唸り声をあげて、ホームに滑り込んできた。朝の陰鬱な空気が一層と重たくなるのがわかる。会社に行きたくない、と思ったことは女はあまりない。体調が悪い時は無理をせずに休んだ。そうすることが、仕事に対する誠実さだと思った。それ以外は出社してやるべきことをやって時間内に最大の成果を上げることしか考えなかった。周囲の人間の口から吐瀉物のように流れ出す愚痴の意味を解するのが難しく、いつだってうまく同調できなかったが、反論することのない女は案外、周囲にとっては都合の良い聞き役でもある。誰もが女に向けて吐き出し、吐き出しては胸をすっきりさせ、後腐れなくその場を立ち去った。女は孤独であることに抵抗しようとは思わなかった。女は何度も他人の生を生きた。本を読むこと、夢を見ること、電車にゆられながら微睡を泳ぐこと。そこでいつだって他人になれた。だが、肝心の「私」が私である理由をいつまでも見つけられずにいた。

 電車の扉が開いた。女は最前列で乗り込み、端の座席を確保した。始発駅なので待たずとも必ず座れるのだが、女は毎日同じ席に座らなければ気持ちが悪いのだった。車内の顔ぶれも大きくは変わらない。夏休みに入ったため、学生の姿は少ないが、九月になればまた、同じ顔ぶれが戻ってくることだろう。時間はゆっくり進む。バッグから本を取り出した。地図の本。地図の歴史は古く、パブロフ図と呼ばれるチェコ共和国パブロフ市近郊の地図が最古のものと信じられているが、異論もあり、それは地図ではないと主張するものもいるため、読むもの次第で、それが地図か否かが決まる。女は本から視線をあげて、電車内の路線図を見た。あれも地図だろうか。等間隔に並べられた駅は、実際とは大きく異なる。だが、電車内で見るには、あの地図ことが正確にも思える。駅と、それを繋ぐ鉄道と、そこを走る電車の関係性においては、それこそが地図なのだ。太古の地図には、路線図に似た原理がある。地図は言葉だ。いまだに解明されない言語があるのと同じように、地図として読まれない絵があってもいいのだ。私に読むことができない言葉で書かれた文章は、私にとっては意味をなさない。私に読むことのできない地図を、私には使えない。世界は変化し続けている。言葉は変化し続けている。そこにあったものが今ここにあるとは限らない。そのときに使われていたものが今も使われているとは限らない。女は思う。どうせ自分もいつかは消える存在で、この世界にほんの微かな爪痕すら残さずに、完全な無意味に返るのだろうと。

 イヤホン越しに聞こえる車内アナウンスで、女はなんとなく自分の居場所を確認した。数駅進めば立つ人に囲まれて、ほとんどなにも見えなくなる。見えるのは人々の腹部か、目の前の本の図版と文字だけ。無数の人間が「私」と同じように「私」の境界線を見出せずに、自他の差異以外に意味を呼べそうなものも知らずに、のうのうと暮らしている世界の奇妙さに、ほとんど思いを寄せることもなく生きているのだろう。狂っているのは私か、世界か、と女はときどき問うてみる。こういう馬鹿げた問いは、幾度も本の中で繰り返されてきたが、解答は一度だって出されたことはなかった。一番つまらない答えは、意味などない、というものか、あるいは、人生は喜びに満ちている、というものだ。そのつまらない二つこそが案外、真実なのかもしれない。で、真実とは?と女の頭の中は永遠にくだらない問いで埋め尽くされる。意味。定義。概念。真偽。善悪、美醜。どれも単純な価値判断に過ぎない気がしてくるが、普遍性を認めず個人の性向に委ねてしまえば私たちは他者と共に生きることなど不可能になってくる。

 ——だから私はひとりなのか。

 と、女は得心した。地図の上に描かれた川は、何度もその流れる形を変えた。川は常に同じ名前で呼ばれていたが、一度だって同じ姿であったことはなかった。それなのにその川が、同じ川だと主張するのを躊躇う者は一人だっていない。ここにはある種の一貫性と共通理解がある。女が「私」であり続ける理由と、その川がその川であり続ける理由は同じなのかもしれない。

 女は本を閉じ、膝に乗せた。眠くなってきたのだ。思考は何故か回転速度を増したところで、急速に反対方向へと加速する。ぐるりと一回転した電気信号はにわかにオフに切り替わり、女を誘う。眠りこそが安住の地なのだろうか。女は暗闇の中を手探りで犬を探した。柔らかくて、手触りがよくて、少し獣のにおいがして、興奮気味に、からだにまとわりつくように走り回っている小型犬を探した。届いた、と思った瞬間にはもう、女は眠りに落ちていた。

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