たもとのみずおと。
彼の車に乗せてもらって荒神橋のあたりで降ろしてもらい、私は橋の欄干に背を持たれてため息をついた。
結局、車内で私は口を開くこともなく、後部座席に座ったまま外を見ていた。窓の外を流れていく景色は深夜にもかかわず色鮮やかだ。そして、そんな私に無理に話しかけることもなく運転席の彼は寡黙にハンドルを握ってここまで連れてきてくれた。
「送っていただいてありがとうございました」
「いえいえ、では、気をつけて」
そう言って私はそのまま降りて歩き出し、彼の車はその場を去っていった。
ああ、やっぱりそう言う目的だったのか・・・。あのマスターもそんな感じには見えなかったんだけどな。
そんなことを考えながら信号近くの欄干に持たれて10分ほどが経過していた。しかし、さすが京都というべきだろう、人通りはこの時間になっても少なくなることはなく、若者達が素敵な笑顔を浮かべて話に花を咲かせて通り過ぎていく。
そんな明るい環境が場違いのように思えて、私は川岸まで逃げるように降りた。人影は少なく、対岸にも数人のカップル以外は見当たらない。 光から落ち、薄暗がりの広がる川岸は文字通り私にぴったりだ。橋を見上げれば通り過ぎていく人々が光り輝くような人々に見えて、私はまるで奈落にいるようだった。
「ここじゃ無理よね・・・」
そう言って川岸に腰掛けると、耳元を風が吹き抜けていく。ヒュォォと音を立てる冬の風は凛としていながら物悲しい音だ。
「少し寒いかな」
口元から白い息を吐きながら、私は両肩を抱きしめる。この世界に1人になってしまったような感覚に囚われて、思わず涙が頬を伝う。
目の前に映る自分の黒い影は縮こまった小動物のようだった。
「馬鹿だな、私」
私はぼそりと呟いて、涙もそのままにその影をじっと見た。しばらく見ていると不意に荷物を持った人影が立った。
「風邪ひきますよ?」
「え?」
誘われたあのバリトンボイスだった。振り返ると大きめの紙袋を抱えた彼が微笑んでそこに立っていた。
「ほら、これをどうぞ。あ、これもどうぞ」
そう言って彼は紙袋と上着のポケットからハンカチを差し出してくる。その微笑みや仕草はとても自然で、遠慮するだとか、断るだとか、そんな感情を私から取り払ってしまった。
素直に受け取って、ハンカチで涙を拭うと柑橘の薄い香りがする。
紙袋の中には白色の女物のコートが綺麗に折り畳まれて入っていた。取り出すと淡い香木の香りがする、どうやらお香が焚きしめられているようで、このなんとも言い表すことのできない気持ちがふっと緩んだ。
「知り合いの服屋が近くにありましてね、そこのなんですよ」
香の香りに誰かのかと心配したのか、彼は言い訳でもするかのように言った。紙袋には ブティック三輪山 と達筆な毛筆が刷られていた。
「さぁ、早く羽織って、風邪を引いてもつまらないですからね」
生地のしっかりした白のコートに袖を通して着ると、その幅や丈はまるで私にあつらえたとでも思えるほどにぴたりと合った。ボタンを止めても全くと言っていいほど苦しさはなく、全身が優しく包まれているかのようだ。
「アイツの見立ても、なかなかなんだなぁ」
そんな姿の私を見て彼はとても満足そうにそう言って感心していた。
「戻ってきたんですか?」
「ええ」
それ以上は何も言わない。なぜだか安心できる微笑みがあるだけだ。
「さて、少し川沿いを歩きませんか?」
返事ができない。軽く頷いて、私は彼の隣に少し感覚を開けて歩き始める。お互いに無言で歩いていると、川の水音が耳に入ってきた。いや、ようやく聴こえてきたと言った方がいいのかもしれない。
「水音が今日もいいなぁ」
「え?」
立ち止まった彼が鴨川へと顔を向けた。私も同じように顔を向ける。黒い水面を見せながら流れによってできた水流が、街の明かりをところどころで反射してキラリ、キラリと星の日明かりのようだった。
「水音は好きですか?」
「水音ですか?」
「ええ、せせらぎでなく水音です」
「えっと・・・。」
旅行や普段の生活で水音は聞こえてはいたけれど気にしたことはない。幼い頃なら聞いていた気はするが、それ以降は生活音の一部だった。
「あはは、それは勿体無いですね。少し寒いですけど、聞いて行ってみませんか?」
そう言って彼は私の手を引くと近くの階段を降りていく。
「ここには飛び石がありましてね。大丈夫、そんなに歩幅はいりませんから」
階段の先に対岸まで間隔を開けて川を横切るように並んでいた。ああ、撮影の時にも使った場所だと思い出しながら、彼に手を引かれてちょうど川中のあたりまで進むと彼が立ち止まった。
「この辺りかな。ゆっくりと耳を澄ませてください」
そう言って彼は目を閉じた。私も何が何かわからないままに目を閉じることにする。
聞こえてきたのは、街の音、車の音、人の話し声、川の音、普段から聞き慣れているはずの生活音なのに、不思議と音が大きく聞こえてくる。
「すぐには聞こえませんよ、ゆっくり聞くことです」
しばらくそうしていると、水音は突然に聞こえてきた。
川の音に混じりながらも、水の落ちる音、水が泡立つ音、水の叩く音、それらが私へと聞こえて、いや、響いてくる。
柔らかな音、激しい音、緩やかな音・・・。
やがて、その音は耳元に集うと頭の中で一筋のミュージックとなって流れ始めてゆく。
水音がこんなにも豊かだとは思わなかった。
私は路上ミュージシャンの歌に足を止めて聞き入った時のように、その場から動けなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます