五線譜のないミュージック
鈴ノ木 鈴ノ子
偶然の出会い。
新幹線が大津駅を過ぎたあたりで、私、園田和子は降りる駅を決めた。新大阪までの切符はそこが目的地などではなく、ただ単にこの新幹線の終点であったからだった。最終列車に逃げ込むように、私はがらんとした自由席の片隅にその身を置いた。
井戸川梨香子、と聞けば、誰かが思い出すこともあるもしれない。16年前、私はアイドル歌手であり、つい最近まで夫だった矢川隆二と結婚して引退した。その結婚も最初の3年は幸せであったけど、その後のアイツの浮気を機に関係は急速に冷えて、35歳の誕生日のその日にケーキと共に離婚届けを突きつけられた。まぁ、3年以降はほとんど別居状態で、最近、週刊誌にアイツと若いタレントの記事が掲載された際に、取材に答えたことが気に障ったらようだ。
郵送されてきた届けを受け取って以来、アイツが触ったもの全てに嫌悪感が湧いてきて、数ヶ月に及ぶ離婚調停の手続きが終わると、財布だけを持って引き払った元自宅から飛び出したのだ。
極端なことを言えば、触られたこの体でさえ、汚くて気持ち悪いものと思えて、そこからまるで雪崩のようにやけっぱちの自死の念がこんこんと湧いてくる。
新幹線特有のメロディが流れ、もうすぐ京都駅であることを告げる。このメロディーで上京したことを思い出して懐かしさに浸っていると、車窓からの景色が真っ白い蛍光灯の灯るホームへと変わり、静かに車両は停車した。
ホームへと降りると、京都銘菓の八橋の大きな看板が『おいでやす』と出迎えてくれる。平日の最終ともあってだろうか、ホームは閑散としており、数人の乗降客と清掃員だけだった。
「どうせなら最後に一杯のんで行こ・・・。」
ぐちゃぐちゃの頭の中から、最後に一杯の酒を飲んで、そのまま鴨川にでも飛び込もうと安易に考えて決めた。3月の初旬の夜川ならその冷たさでも死ねるだろう。
改札を抜けて近くのビルに入ると、ちょうど目についた【JAZZ BAR 輪廻】の扉を開けた。服装としてはドレスコードにギリギリ合格点、といった感じであるので、迷惑をかけることはないだろう。
広い店内は閑散としていて、中央の舞台で若い歌い手が美しい声で哀愁漂うシャンソンを奏でている。
「いらっしゃいませ。」
白髪をオールバックで固め、フォーマルの出立ちの初老のバーテンダーがカウンターへと誘なう。他の従業員よりも幾分か年齢が上であったので、和子は彼が店のマスターであると踏んだ。
「遅くにごめんなさい。一杯だけ頼めますか?」
美しく磨かれた一枚板のカウンター、シックな中にもエレガントさを秘めたような、そんな素敵な椅子に腰をかけると、遅がけに来たことと、一杯だけということを詫びた。
「お心遣い誠にありがとうございます。大丈夫でございます。何に致しましょうか?」
「ブラックマティーニをお願いします」
「かしこまりました」
素早くされど魅せる手つきとはまさにこの事を言うのだろうと言うような手捌きで、カクテルを仕上げるマスターを見ながら、ふと同じカウンターの端に座る1人の男性を見つけた。どことなく、初恋だった男性に面影が似ていて、今のように穢れる前の素敵な思い出が浮かんで涙が一雫、頬を伝って流れ落ちた。
「お待たせいたしました。ブラックマティーニにでございます。お楽しみください」
黒色で満たされたマティーニグラス、その縁に黄色でみずみずしい果肉のレモンが、アクセントで添えられていた。
「ありがとう。いただきます」
ショートカクテルなのでカクテルバランスが壊れないうちに飲むのが美味しいことを和子は知っているので、適度に量を調節をしながら口へと運び、最後の一口は少し長めに余韻を楽しんでからグラスを置いた。
「美味しい・・・。とても美味しいお酒でした」
今まで飲んできた中で一番と断言できるほどの洗練された味わいで、マスターの確かな経験に裏打ちされた素晴らしいものであることは確かだった。
「お褒め頂きありがとうございます。気に入って頂けて幸いです」
空のグラスを眺めてぼんやりとしながらマスターの言葉を聞き、美しいシャンソンに暫く聴き入る。忘れ去られた女性の思いを歌い上げた歌詞は聞き慣れた名曲であり、自分自身と重ね合わせて、歌詞と思考が入り乱れて軽くノックバックを起こすかのようだった。しばらく、入り乱れた状態で何もできずにいると、歌が途切れたあたりで私はようやく意識を取り戻し、直ぐにでもこの店から飛び出してしまいたいという欲求が込み上げてきて、急かすようにマスターへと声をかける。
「マスター、申し訳ないのだけど、タクシーをお願いできますか?契約先で大丈夫です。」
「かしこまりました。どちらまででよろしいですか?」
「少し川辺を歩きたいので、荒神橋のあたりまでお願いします」
現役であった頃に撮影で訪れたことのある橋名を思い出して伝えると、聞いていたマスターがほんの少しだけ怪訝な表情を見せた。
「よろしければ、私がお連れしましょうか?」
バリトンボイスの素敵な声に驚いて振り向くと、そこには先ほどカウンターの端にいた男が柔かな笑みで立っていた。
「三剣さま?」
マスターが奇跡的なものを見るかのような表情をして静かながらに驚いた声を上げる。
「どうです?飛び込むよりはマシな場所にもお連れできますよ?」
耳元でそれを囁かれたときに覚悟を決めねばと悟った。彼は私がなにをしたいか、わかった上で声をかけてきたのだろう。
「ああ、三剣様は今回は貴船にお泊まりになられてるんでしたね」
マスターが何かに納得したように言った。
「でも、飲まれているでしょう?」
この誘いは断らねばと、先ほどまで彼のいたカウンターにグラスが置かれていたので、私は飲酒で断る口実を作ろうとする。
「いえ、私は下戸なんですよ」
そう言いながら頭ををかいた彼の姿に思わずマスターが笑いを漏らした。
「お客様、三剣様でしたら信頼のおける方でございますよ。おっしゃられるように、アルコールは嗜まれませんし、当店とは三剣様の親の代からのお付き合いでございます。向かう方向と帰る方向が同じなのですから、ついでにと言うのも一興でございましょう」
軽く両掌を合わせ叩いたマスターが柔かな表情で彼と行くことを勧めてくる。もしかして、彼もまたこれから私が何をしようとしているのかを分かって言っているのだろうかと疑ってしまいたくなるほどのタイミングだった。
「じゃぁ、お願いしようかしら」
こう言われてしまっては無下にすることもできず、ましてや、私の起こすであろう行動を知ってしまった彼をそのままにもして置けない、覚悟を決めて私はその誘いに乗った。店内にはシャンソンが再び歌われ始める、その曲は男女の出会いを歌った歌詞であったことは、あとあと分かった。
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