カーミンロート

無辺春夜

 

 中学の時、ある男子生徒が泥を飲んだ。

 飲まされたと言った方がいいかもしれない。

あれは世に言ういじめだった。私たちの中では違ったけれど。泥水をバケツに汲んだのは私だった。私はそれを彼が飲むものだとは知らなかった、ただとある生徒達に泥を汲んでくるように頼まれてそのまま従った。そして、彼が飲まされている時、ただボォっとそれを見ていた。もしかすると好奇心があったのかもしれない。私は非情だから。ボォっと見ていた私に彼は目を合わせた。ほんの一瞬だったけれど、あの瞳の恐ろしさがずっとトラウマなのだ。


 あれからもう10年も経つ。今はもう私も、きっと彼も27歳だ。家に帰ると彼の恨むような、助けを求めるような、悲痛な叫びを含んだ瞳が脳裏に浮かぶ。ただ、ただ、暗い闇みたいな私の人生であの瞳が強烈な光となっていて、私はどんどん暗い方へ逃げてきた。それは物理的にも心情的にも。今だってそう、家に帰ればそのまま電気をつけずにこうやってトラウマを思い出している。

 パチッという音がして玄関の電気がつく。少ししてリビングも呼応するように点灯した。

「帰ってきてたの。」

「うん。」

「元気がなさそうだね。」

ソファに座っている私の前で同居人はエコバックから牛乳を取り出している。

「最近、またトラウマに悩まされて。」

動きを止めてこちらに目を向ける同居人。

「辛い?」

「辛い、けど絶対に向こうのほうが辛い。」

「僕たちの辛さを受け止めるのは僕たちだけなんだ、辛さをちゃんと認めなきゃ。僕たち優しい加害者だからね。」

 優しい加害者、と言うのは彼がよく使う言葉だ。己の罪に耐えきれなくなった加害者のことをそう呼んでいる。エゴと自虐とが混じったこの言葉で彼は自分をカテゴライズしている。彼も加害者なのだ。

 彼は昔、交通事故に出くわした。幸い彼は無事だったが、彼は怪奇にもその現場風景に魅了された。当時記者をしていた彼はその現場を写真に収めて、コンクールに出してしまった。死人と危篤者の混じった悲惨な状態の写真はコンクールでは賞を取ったが人道的にはかなり非難された。

 優しい加害者同士で共に暮らすのは楽だ。どちらも許されないことをしでかした。しでかした側なのになぜか十分に傷ついている。けれど、世間は私たちが傷つくことは許さない。だからこうやって解る者同士で傷を舐め合っている。

 ある日、彼は私にこう言った。

「君は、僕が撮った写真の少女に似てる。あの子は母を事故で亡くして、生きる希望をなくした顔をしてた。君も生きる希望をなくしてる顔をしてる。」

どう返せば良いかわからなかったから、私はこう返した。

「貴方は彼には似てない。彼はシューマンが好きだった。」

「へぇ、シューマンか。」

「シューマンを聴く青年が、耐え難いいじめを受けたらどうなるのか見てみたかった自分がいたのかもしれない。」

「君は、愚かだよ。僕も愚かだ。馬鹿みたいに素直に、明日僕たちまたそれで傷つくんだろう?」

「今日の発言で明日傷つかない人なんていないもの。」


 金曜の午後、体調が悪くて会社を早退した。早退して、帰宅してから気づいたけれど大層暇だ。休んだって精神が良くなるわけじゃない、ただやることがないだけ。偏頭痛のせいで精神もいつもより悪くなっている。

 テレビを点けた。煩い音が私の偏頭痛を苦しめる。何か良いプログラムはないのかとチャンネルを右往左往していたところ、オーケストラが目の前に映った。丁度今、シューマンの交響曲第3番が演奏され始めたところのようだった。シューマンなんか聴きたくなかった。でも、何かしていないとそのまま消えてしまいそうな午後だったから大人しくそのチャンネルに留まった。

 第4楽章に入った時だった。脳に閃光が走ったように見えていなかった思い出がありありと急に思い出されたのだ。


 違う、泥を飲んだのは彼じゃない。私だ。 

 泥を入れたのは私じゃなくて彼だったんだ。シューマンを好んでいたのはほかならない、この私だった。全て思い出してしまった。あの時死にたくなった私は、ずっと脳内で彼を身代わりにして、ずっと脳内で彼を殺してきたんだ。

 シューマンを聴いて今私は全てを思い出してしまった。


 死のうかな。悪夢は死より酷いから。悪夢を見る運命ならまた一度眠るしかない。どうせ昔は眠っていたのだから。


 私は台所のシンクに水を溜めて両手首を包丁で切った。痛みよりも辛かった。自分が惨めだった。意識が遠のいてきた時に遠くからドアが開く音がした。酸素の少ない機能不全の脳でやってきた人を見た。

 彼であった。私に飲ませるとも知らず泥を汲んだ彼が立っていた。現実か幻かを疑う賢さも今の私にはなかった。私はきっと刺したんだと思う。記憶はないけれどうっすら開いた視界の中で人が倒れている。同じことだ、今まで私は彼を脳内で殺していた。

「君は、これで幸せなの?」

彼の声ではなかった。

「誰?」

「一緒に住んでるじゃないか。」

倒れた人を認識することは難しかったが、その声から同居人であるとわかった。私は幻想から間違えて彼を殺してしまったんだ。

「今、誰かが僕をカメラで撮ってくれたなら、罪滅ぼしになるだろうか。」

彼は皮肉みたいに言った。私はそれが痛みだと知っていた。

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カーミンロート 無辺春夜 @zazaza524

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