乙女の群像劇は百合模様
藤宮カズキ
序章
蹈鞴(たたら)は母の秘密を知っていた。
夜、祖父と父が日通し叩き続けた鎚の音が絶え、窯の火も落とされた頃。母はこっそりと家を抜け出しひとり丘の上へと向かう。
夜風に髪をなびかせ、いつまでも枯れることのないトワノヨシノを縫うように歩むその手には、ひと振りの刀が握られている。
洗練された意匠が施された鞘は、幼い蹈鞴の身の丈と変わらぬ長さを誇り、その重さは蹈鞴一人では持ち上げられぬほどだ。そんな刀を腰に履き、普段家の中で見せる優しい笑みとは違う、凛々しさが覗く表情で母は夜道を歩む。
父も祖父もそんな母の姿は知らないはずだ。
夜、堪えきれなくなった尿意に布団を抜け出した蹈鞴だから知っているその姿。初めて見たときは、豹変と言っても差し支えないぐらい普段の母とは似ても似つかぬ雰囲気に、声を掛ける事など出来ずに見送るばかりだった。
そして、それは何度の夜を迎えた所で変わりはしなかった。
刀を手にした母は違う。それがどういった理由によるものなのか、何が母をそうさせるのか蹈鞴にはわからない。しかし、このままでは母が夜闇に紛れ、どこか遠い所に行ってしまう気がして、幼い蹈鞴は震える脚でこっそりと、その背中が目指す所を追いかけたのだ。
そして蹈鞴は、魂に焼き付く光景を目の当たりにした。
季節は《紅差し》。どこからか届いてくる無数の渡り紅葉がその身を夜風に任せ、舞い散るトワノヨシノの花弁と混ざり合う中、冷たく美しい月光に刃紋を晒しながら舞う母がいた。
描かれる太刀筋は、月明かりよりも冴え冴えとした銀閃で淡紅色の帳を裂き、かと思えば降り注ぐ紅葉の時を止めるかのように宙を一閃する。
細められた瞳で何を見ているのか、その足が踏みしめる土は蹈鞴が立っている場所と地続きになっているのか……。蹈鞴は息を呑まざるを得ない程に美しい光景を目の当たりにして、胸が苦しくなるのを感じた。
刀にこんな境地があるなんて、蹈鞴は知らなかった。
父と祖父が鉄を打ち、鍛え、刀を創り出していくのを何度も目にした。危ないからと、工房へ入れてもらえるのは決まって火が落とされた後だったけれど、何度も窓の外から覗いていたから、刀が本来持っている溶岩の如き熱さはよく知っていた。
しかし、これは何だ。今、蹈鞴が目にしているものは、そして母が手にしているものは、本当に蹈鞴の知る刀と同じものなのか。
あんなに冴え冴えと、それでいて蠱惑的で、どうしたところで目を離す事など出来ない冷たさを、刀は宿すものなのか。
蹈鞴はとてもではないが言葉では言い表せない心境で、ただ母の舞いに見蕩れる。
そしてそのうちに理解してしまった。
母は初めから、蹈鞴の知らぬ遠い場所に居所を持っていたのだと。そして今、その場所に居ることが出来ない息苦しさに喘いでいるのだと。
気が付けば蹈鞴は涙を流していた。
寂しいのか、苦しいのか、不安なのか。そんなものは蹈鞴にだってわからなかった。でも、ただひとつだけ抱く想いがあった。
美しい。
打ちひしがれてしまう程の美しさが、今母の手には握られている。
そしてその美しさが直感と予感を蹈鞴へと届けてくる。
ひとつは、母が居るべき場所は平穏な家の中なんかではないというもの。そしてもうひとつは、いつの日か母は、母が本来居るべき場所へと戻っていくというもの。
これから先、いつか母が去ってしまうその日までに、全ての涙を流し尽くしてしまいたいと蹈鞴はそう思った。
それから幾星霜。
いつまでも目に焼きついて離れない光景がある。
何度の夜を過ごそうとも、決して忘れえぬ情景がある。
そうしてあの日から繰り返し見た母の姿と、その手に握られた刀に憧憬を抱き、その果てに蹈鞴もまた、刀を手に舞いを重ねていた。
幼さを置き去りにした蹈鞴は、それでも母の姿に見蕩れたあの晩を夢に見る。
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