赤く染まる世界
好翁
赤く染まる世界
ガキの頃は足の速いヤツが王様だ。
おかげでいつも駆けっこがビリっケツだった俺は何をするにも自信が持てずにいた。
だが、胸で燻り続けた鬱屈に火がついて、突然身体を鍛え始めてボクサーになり、そのままボディガードの真似事を生業にするようになったのだから人生はわからない。
ボディガードといっても荒事になることは滅多にない。荒事にならないように立っているのが俺の仕事だ。
その日もボスとガルシアとの手打ちの席に立ち会うのが仕事だった。アニキと2人でボスの後に立ち、ガルシアと2人の手下に睨みをきかせるだけの容易い仕事だ。
ウェイターが新しい料理を運んで来て、ボスがこちらをチラリと見た。新しい料理が来たら下っ端の自分が毒見をすることになっている。退屈な仕事だが、この役目はなかなかの役得だ。できたての、料理が一番美味い状態を少しだけ味わうことができる。舌が肥えてしまうのだけが難点ではあるが。
軽く会釈をしてボスの前に置かれた鍋のフタを開ける。
突き刺すような香りが鼻を刺す。マグマのように沸き立つ赤い液体が、湯気の向こうにスローモーションで見えた。
キムチチゲ。
唐辛子とキムチをふんだんに使った、辛味の強い韓国の鍋料理だ。
地獄だ。天国にあった俺の心は一瞬にして灼熱地獄に引きずりこまれた。
俺はこの世に唯一食べられないものがある。辛い料理だ。それが甘口のカレーであっても劇薬に等しい。キムチ、ましてや煮えたぎるのキムチチゲなどもっての外だ。
だがここで毒見をやめるわけにはいかない。各々の役目に完璧を求めるのがボスだ。毒見を辞退したり、アニキに代わってもらったりするわけにはいかない。
覚悟を決めてスプーンを手に取る。ボスの味覚にあわせて大量に盛りあげられた唐辛子粉を避け、比較的大きな豆腐をくり抜いた。白い断面が極力スープに触れないよう、慎重にスプーンを操る。
最後に辛い物を食べてずいぶん経つ。歳をとって味覚も変わった。キムチチゲの一口程度なら食べられるはずだと、覚悟を決め、祈りながら豆腐の欠片を口に放り込むと咀嚼もそこそこに呑みこんだ。
「おい!」
アニキが俺を見て顔色を変えた。
額から滝のように落ちた汗が絨毯に吸い込まれるのが見える。顔から血の気が引いていく。呼吸は荒くなり、手は痙攣してスプーンを落とし、目は血走って視線が定まらない。街中でこんな男がいれば救急車を呼ばれるのは確実だ。
慌てるな。毒ではないと伝えなければ問題無い。これは、ただ、辛いだけなんだ。
ゆっくりと息を吸って言葉を紡ごうとした瞬間、過去の記憶がフラッシュバックした。
あの時も同じだった。給食のカレーを食べて泣いている俺を、困惑と侮蔑の眼差しで見るクラスメートたち。あの時、弁解しようとした俺は、無理に、言葉を絞り出そうとして、俺は、俺は。
言葉より早く食道を熱いものが駆け上がり、真っ白な絨毯を斑に染めた。少年だったあの日と同じように。
床に倒れ伏し、朦朧とした意識と耳鳴りの中、怒号と乾いた銃声が聞こえた。
待ってくれ!毒なんかじゃない!俺が、俺が辛いものがダメなだけなんだ!やめてくれ!
あえぐたびに舌が焼けて言葉が出ない。手は震え、頭に霞がかかる。頬を濡らす涙は自らの不甲斐なさに対する絶望か、想定外の辛さのせいか。
俺が立ち上がれるようになった頃には、高価な調度品のあった部屋にその面影は無く、料理と、血と、男たちが絨毯の色もわからぬほどにぶちまけられていた。
地獄の中に立っているのは俺と、自慢のカシミアのスーツを真っ赤に染めたボスだけだった。
毒殺されたはずの俺を不思議そうに見るボスの前で、俺は銃の弾丸を確認して弾倉を戻すと、ボスに向けて引金を引いた。
仕方ない。こんな馬鹿げた話をボスに納得させる頭は俺には無い。
交渉は決裂した。互いに無事ではすまず、俺だけ生き残ってしまった。組織の人間にはそう伝えよう。
後始末がすんだら、帰りに子供用のカレーを買って帰ろう。俺は屈辱を糧に強くなれる男だ。
それにしても、たった一杯の鍋料理がここまで運命を狂わせるとは。人生はわからない。
赤く染まる世界 好翁 @yosiow
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