第29話 銀色の悪魔②

 いつしか、風は止んでいた。

 木々は沈黙し、森の動物達も危険を感じ取り、すでにこの場にはいない。

 わずかなざわめき一つもない、無音となった屋外錬技場。

 そんな静寂に包まれた世界で――。


 御門翔子は一人、現実を受け止めきれず呆然としていた。


(……な、何なのですか……これは……)


 目を見開き、事態を振り返る。あの瞬間、彼女の目の前で神楽崎は変貌した。身体のサイズはそのままに、頭部だけが六~七倍近く膨れ上がったのだ。

 そして呆然と立ち尽くす鷹宮を、地面ごとその巨大な口で一呑みにしたのである。


(……うそ、うそです……まさか、あ、あれは……)


 ――ゴキンッ。

 突如、響いた異音に、翔子は肩を震わせた。

 ――バキンッ、ゴキリ、メキ、グシャグシャ、パキリ……。

 翔子の歯がカチカチと鳴り始める。もはや確認するまでもなかった。


 神楽崎の正体は――《妖蛇》。人類の敵。人喰いの化け物だ。

 あの化け物はたった今、さっきまで『友達』と呼んでいた人間を捕食したのだ。


 そして、


 ――バキパキ、グチャグシャリ、ゴキン、ベキベキ……。

 先程から続くこのおぞましい音は――咀嚼音。鷹宮を咀嚼する音だ・・・・・・・・・

 翔子は悲鳴を上げそうになる心をグッと抑えた。今は恐怖に震える暇も、彼の死を悼む余裕もない。彼女はどうにか腕を動かして十字槍の柄を掴んだ。身体の痺れはそこそこ回復していた。恐らく後二~三分もあれば完全に動けるようになるだろう。


 しかし、その二~三分が問題なのだ。あの化け物はすぐにでも――。




「ぷわあァ――うめえェええッ! くうぅッ! やっぱ人間の味は格別だなッ!」




 その歓喜のこもった絶叫に、翔子は凍りついた。


(そ、そんな、まだ身体が……)


 絶望と緊張が混同した瞳を、化け物に向ける。

 化け物は元の神楽崎の姿に戻っていた。――いや、少しだけ違う。姿形は人間だが双眸は紅玉のまま、そして額からは二本の宝石のような角を生やしていた。


(――宝石角……やはり《妖蛇》ですか……)


 憎悪を宿した瞳で睨みつける翔子。

 すると、その《妖蛇》は首に手を当てコキリと鳴らし、


「う~ん。またせたね。主菜メインディッシュ――もとい御門さん」


 神楽崎の口調で、笑顔で、翔子にゆっくりと近付いてくる。

 翔子は反射的に間合いを取ろうとするが、身体が鈍い反応しかしてくれない。


「ははっ、無理無理。だって鷹宮君の《黄金符》をまともに食らったんだよ? まだ三分ぐらいは動けないんじゃないかな?」


「……あなたは一体何者なのですか? どうやってこの学園に……」


「ん? おやおや時間稼ぎの会話かな? う~ん。いいよ、付き合ってあげる。二分ぐらいならね。クカカカッ」


「……………」


 翔子の思惑はあっさりと看破されてしまった。恐ろしく知能が高い。これだけの知能を有しているということは最低でも第五階位アバタイト。下手すれば第六階位オーソクレースかもしれない。


 どちらにしても、単独で挑んでいい相手ではないが……。


(それでもやるしかありません。どうにか回復の時間を稼ぎ、修司さんの仇を――)


 と、翔子が密かに決意を固めていると、


「うん! それじゃあ、まずは自己紹介からするね!」


 陽気な声で《妖蛇》はそう告げ、姫君にかしずく騎士のように名乗りを上げる。




「お初にお目にかかります姫。我が名はザガ。第八階位トパーズの《妖蛇バジリスク》――ザガと申します」




 一拍の間が空いた。


「――――――――――え」


 翔子は愕然とした表情で、目の前の怪物を凝視する。

 今、この《妖蛇》――ザガは何と言った……?


 第五階位アバタイトでもなく、第六階位オーソクレースでもなく――第八階位トパーズ……?


 ようやく言葉の意味が脳へと浸透し、翔子の顔から血の気が引く。


「……う、そ……まさか……三王位なの……?」


「YES! その通りィ! まっ、三王位の中でもまだ成り立ての下っ端だけどね」


 クカカッと笑い声を上げるザガ。

 十段階ある《妖蛇》の位の中でも別格の階位がある。それが上位の三階位――三王位だ。


 すなわち、第八階位トパーズ第九階位コランダム、そして第十階位ダイヤモンドの三つである。


 通常妖蛇第七階位クオーツまでは戦闘力に差はあっても、ほぼ例外なく鬼の姿をとる。

 しかし三王位だけは違った。

 確認した者は少ないが、その姿は千差万別で人とはかけ離れた不気味なものらしい。戦闘力は勿論、姿形においてまで規格外なのが三王位なのだ。


「な、何故、三王位などがこの学園にいるのです!? 一体どうやってッ!?」


 完全に取り乱した声で翔子が叫ぶ。

 三王位の出現は尋常なことではない。最下級の第八階位でさえ、超一流の《追跡者》を十数人単位で招集しなければならない非常事態である。翔子が動揺するのも当然だ。


 しかし、ザガはそんな少女を前に、キョトンとした表情を浮かべて、


「へ? いや、そんなのお金で裏口入学したに決まってるじゃないか」


 あっさりとそんなことを宣う。翔子は絶句した。


「クカカッ、お金の力って偉大だねっ。入学用にこの『すがた』を用意したり、獣衣っぽい擬態の練習とかはしてたけど、まさか普通に一般入試があるとは思わなかったよ。本気で結構焦ってさ。お金で解決できた時はホッとしたものさ」


「……そ、そんな人間じみた手段で……」


 翔子は困惑した声で呟く。

 まさか、妖蛇が裏口入学などを考えるとは……。


「まあ、ボクはこう見えても、かれこれ三百年ぐらいは生きていてね。長く人間社会にいる《妖蛇》ほど人間っぽくなるものなんだよ」


 そう言って、しみじみと腕を組むザガを、翔子は睨みつけた。

 この化け物と会話をするは忌々しいが、今は少しでも時間と情報が欲しかった。


「……あなたの目的は一体何なのですか? 敵地とも言える《追跡者》育成機関であるこの学園にわざわざ潜入してきた目的は……」 


 すると、ザガは「おおっ、聞く? それを聞いちゃう?」と身を乗り出すほど喰いついてきた。ここまで乗り気なのはずっと語りたかったのだろう。


「クカカッ! それはね!」


 そしてザガは興奮気味な口調で自分の目的を告げた。


「ズバリ《救世七宝セブンス・アークス》の一つ、神刀 《真月フルムーン》の奪取だよ!」


 翔子は「……え」と呟き、大きく目を瞠る。これもまた想定外の言葉だった。

 なにせ《救世七宝》は人のための神器。《妖蛇》にとっては全く意味のない武器だ。


「……な、何故、《妖蛇》が神刀を……」


 当然の如く湧きあがってきた疑問を翔子は口にする。と、


「いやぁ、姐さん――《四凶トップ・フォー》のお一人に頼まれちゃってさ。《救世七宝》って凄くおっかない物らしいんだ。正確には奪取して破壊することが目的なんだよ」


 片手で頭をかきながら、ザガはそう語る。

 その返答に翔子はただ愕然とした。

 まさか神刀を『餌』にしたことで、こんな怪物まで呼び寄せることになろうとは。

 しかも、そのせいで鷹宮は――……。


 ズキン、と心が強く疼く。

 ――そうだった。この化け物にあの少年は……。


(…………修司さん)


 立ち直ろうと決意していた少年。きっと、友人になれると思った人物。

 そして、こんな自分のことを「好きだ」と言ってくれた人だった。

 翔子は一度歯を軋ませてから、怪物に問い続ける。


「……あなたは《妖蛇》ですが修司さんの為に体まで張りました。なのに――」


 そこで言葉が止まる。

 数瞬の間を空けて、翔子は血が微かに滲むほど強く唇をかみしめた。

 あの時、この化け物は暴走する鷹宮を身の危険を顧みず止めようとしていた。

 少なくとも翔子の目にはそう見えた。


 正体を知った今でも、そこには種族を越えるような友情があったように思える。

 それが何故――。


「あなたはどうして……」


 あの少年はもういない。

 翔子は目尻に涙さえ溜めて、あの少年を殺した理由を『神楽崎』に尋ねた。


「どうして修司さんを殺したのです! 『神楽崎』さん! あなたは彼に対して何も感じていないのですか! 修司さんに何の想いもなかったのですか!」


 すると、少女の剣幕にザガは「……え?」と面を食らったような表情を見せた。

 どうやら少し困惑しているようだ。

 ザガはポリポリと指先で頬をかいた後、あごに手をやって深く考え込み、


「……う~ん。なんかいきなり高尚なことを聞いてきたね。『想い』かぁ、そうだなあ。まあ、美味しそうだなぐらいは思ったかな? 実際に美味しかったし。ところで、ボクが体を張ったって何かしたっけ? あっ、もしかしてさっきの寸止めのこと?」


 そこで、怪物は苦笑を浮かべた。


「いやけど、あれって本当に言葉通りの意味だよ? あの程度の斬撃なら当たってもちょっと痛いぐらいだし。別に避けなくてもいいかな、って思ったんだ」


「……なん、ですって……」


 そのあまりの言い草に、翔子は愕然とする。

 結局のところ、この化け物は鷹宮に対して一片の友情も抱いていなかったのだ。

 ただの餌。ただのおもちゃ。

 それがザガの抱いていた想いだったのである。


「………あなたは」


 美麗な顔を憎悪と怒りで歪めて、翔子はザガを睨みつける。

 すると、ザガは人並みに気まずさでも感じたのか、パタパタと手を振り、


「いやいや、そんなおっかない顔で睨まないでよ御門さん。ボクだって『友達』として鷹宮君には相当気を遣ったんだよ? 恋の相談に乗ってあげたり、倒れて動けなかった彼の耳元にエールを送ってあげたりしてね。後は……そうそう! 思い詰めていた鷹宮君のために《霊葬法》のことをそれとなく教えてあげたりしてさ」


「――ッ!」


 翔子は息を呑む。まさか、その件にまで関わっているのか。


「で、では、あなたが修司さんに《霊葬法》を……」


「うん。そうだよ。面白いぐらい簡単に喰いついてくれたよ」


 当時のことを思い出したのか、ザガはくつくつと笑みを零し、


「まあ、その時は『神楽崎』ではなかったんだけどね。後は――そうだね。例えば、さっきはこんなこともしたかな」


 そう呟くと、唐突にザガの頭部がボコボコと躍動し始めた。頭の上部だけが大きく膨れ上がり、何やら形を変えていく。あまりの不気味さに翔子が言葉を失っていると、


「つ、月森さん!?」思わず目を瞠った。


 膨れ上がった頭部の側面に、月森竜也の顔。そして、そのすぐ上には隣のクラスの生徒である香山猛の顔が浮かび上がってきたのだ。

 いきなり浮かび上がった死面デスマスク。何故ザガがこんな擬態をするのか。

 最悪の想像が脳裏をよぎり、翔子の顔から血の気が引く。


「ま、まさか、月森さんと香山さんまで……」


「クカカッ、大丈夫だよ。こいつらは殺してないから。狭い学園内だとそこまで無茶も出来ないしね。何よりこんなおっさんぽい奴ら、流石に食指も動かないよ」


 ザガは異形の頭部のまま、苦笑いをして見せる。


「こいつらの姿は時々拝借してたんだ。こいつらって二人揃って『ぼっち』でさ。結構利用しやすかったんだよね。『月森』の姿で鷹宮君に《霊葬法》のアドバイスをしたり、『香山』の姿を使って今回の件を君に依頼したりとかね」


 と語りつつ、ザガは頭部を元に戻した。


「ともあれ、こんな感じでボクはボクで結構苦労していたのさ」


 そう嘯く怪物は、口元を押さえてクカカッと笑っていた。

 本当に悪ふざけが大好きなのだろう。心の底から楽しんでいる声だった。

 ギシリ、と歯を軋ませて。

 翔子は静かにザガを睨みつけた。


 ――どうして、こんな化け物に鷹宮が殺されなければならなかったのか。

 非情な現実に怒りを抱きつつ、彼女は唇を強くかみしめる。


「……あなたという化け物は……」


 そして全身に力を込めて、十字槍を杖に震える身体をどうにか立ち上がらせた。

 普通ならば、まだ立つことなど叶わないはずのダメージではあったが、それでも翔子は激しい怒りの力だけで全身を奮い立たせた。

 しかし、そんな彼女の怒りも化け物はどこ吹く風だ。


「おおっと、なになに? 御門さん、もうそこまで動けるの? ヤバいヤバい。そろそろ二分ぐらい経っちゃうのか。それじゃあ、いよいよ主菜といきますかね」


 ザガはそう呟くと、無造作に間合いを詰めてくる。

 翔子は未だ狙いが定まらない十字槍を構える――が、その穂先はザガの左手に掴まれ、あっさりと十字槍は奪われてしまった。

 そして、ふらつき倒れそうになる翔子を、


「――ぐ、う……ッ」


 ザガは右手で彼女の髪を乱暴に掴んで持ち上げた。

 髪を引っ張られる形で無理やり立たされている状態だ。翔子の顔が苦痛で歪む。


「クカカカカッ、いやぁ良い顔するねぇ……御門さん」


 ザガはゆっくりと翔子の顔に自分の顔を近付ける。その口は再び耳元まで裂けていた。

 翔子の瑠璃色の瞳が痛みと恐怖で見開かれる。


「クカカッ、あのね御門さん。実はね、ボクは女の子が大好物なんだ。男はちょっと固いからさっきみたいに丸呑みして味わうんだけど、女の子の方はねえ……」


 吐息がかかるほどの距離まで顔を近付け、


「何度も何度も齧りついて、じっくりと味わうんだ。女の子の悲鳴を伴奏にね」


 その言葉に、翔子の顔が青ざめる。

 嫌でも自分の凄惨な未来を想像して、カチカチと歯が鳴りだした。

 今まさに、非情な現実が彼女にも振りかかろうとしていた。


「……やだぁ……いやあッ!」


 か弱い力しか入らない両手で必死にザガの胸板を押し返そうとするが、それは逆に怪物の嗜虐心を煽るだけの結果になった。ザガは紅い双眸を細めてニタリと笑い、


「クカカッ! んじゃあ、まずは左肩からいってみようかッ!」


 熱い吐息を吹きかけて宣告する。

 翔子が「……ひっ」と呻き、瑠璃色の瞳からボロボロと涙が零れ落ちた。

 やめてやめて嫌だ嫌だ嫌だこないで嫌だ嫌だ怖い怖い助けて誰か助けて――。

 どれほど優れていても、やはり彼女もまだ十代の少女であった。そこにはもう《瑠璃光姫》と呼ばれた《追跡者》はおらず、ただただ死に怯える一人の少女がいた。

 精神が乱れ、白銀の獣衣もほどけてしまう。零れ落ちる涙が止まることはない。

 そして溢れ出す恐怖の感情から、彼女は渾身の声で叫んだ――。


「いやァ、いやああああああああァァ――!! 助けてェ! 助けて悠樹さんッ!!」



「――うん。今助けるからもう泣かないで」



 唐突にそんな声が聞こえた。

 幻聴かと思い、翔子が涙で溢れた瞳をパチパチと瞬かせていたら、左肩が手で掴まれるのを感じた。驚いて横を見てみると、そこには――。


「……ううぅ……悠樹さぁん……」


 たった今、翔子が助けを求めた少年の横顔があった。

 彼――四遠悠樹は、翔子を安心させるように一瞬だけ微笑むと、


「話は後だよ。それより――お前」


 悠樹はすっと双眸を細めた。


「いつまでこの子の髪を掴んでいる気なんだ?」


 低い声でそう呟く。そして翔子同様、突然の状況に唖然としていたザガの胸板めがけて長剣の刺突を繰り出した!  ザガは咄嗟に翔子の髪を離し右手でガードするが、それでも数メートル以上吹き飛ばされることになった。

 その隙に悠樹は翔子を両腕で横に抱きかかえ、大きく間合いを取る。


「……大丈夫? 御門さん?」


「……ヒック……わ、私は、大丈夫、です。……ううゥ、悠樹さぁん……」


 未だ拭えない恐怖から翔子の胸はきゅうと鳴る。そして愛しい少年に無性に甘えたくなり、彼の首に両腕を回そうとする――が、


「……やれやれ、これはまた随分と不細工な面をしとるのう小娘」


 不意に聞こえてきたその声に、ピタリと手が止める。

 今や聞き慣れてしまった恋敵の声。翔子は視線を声の方に向けた。そこには予想した通りの少女――鳳由良が立っていた。


「……ぐすっ……鳳さん。あなたもいたのですか……」


「ふん。かなり怖い目にあってまで駆けつけた者に対し、あんまりな台詞じゃの」


 と、悪態をつく由良だったが、


「……じゃが、今はそれさえもどうでもよいか」


 そう呟き、沈痛な面持ちを浮かべて数メートル先を睨みつけた。

 彼女の視線の先にいるのは少年の姿を残す怪物だった。すると、由良の視線に気付いたのか、怪物はパタパタと親しげに手を振ってきた。由良の表情がますます険しくなる。


「……あれは」


 そして感情を押し殺した声で、由良はぼそりと呟いた。


「……あれは、本物の・・・神楽崎なのか?」


「……はい」


 由良の独白に、躊躇う口調で答えたのは翔子だった。


「……あれは神楽崎……その正体は――第八階位の《妖蛇》です」


「………そうか」


 翔子が語る事実に、流石に由良も渋面を浮かべた。


 ――第八階位級であることは想定していた。

 だが、その正体まで見抜くことなど出来なかった。

 よもや、あの優しい級友のあんな姿を見ることになろうとは……。

 胸の奥が強く痛む。しかし、ここは気持ちを切り替えなければならない。

 たとえ正体がなんであれ、あの怪物は三王位の一角なのだから。

 正面きって戦うのはまずい。翔子だけでも・・・・・・救出できた以上、ここは撤退すべきだった。

 由良は険しい表情を浮かべると、悠樹に視線を向けて告げる。


「……悠樹よ。相手が悪すぎる。ここは――」


 しかし、彼女の言葉は、「待って由良」という悠樹の声で遮られた。

 悠樹は続けて言う。


「状況が厳しいのは分かるよ。けどその前に、奴に確認しておきたい事があるんだ」


 と、そこで抱きかかえていた翔子を地面にそっと下ろす。それから少年は一人ザガの前へと歩を進める。一瞬、由良は悠樹を止めようかと考えたが――やめた。

 一見すると穏やかそうにも見える悠樹だが、内心では怒り狂っているのは明白だ。ここは見守った方がいいだろう。

 が、それに対し、ザガの方は実にご機嫌だった。


「やあ! 四遠君。もう酷いじゃないか。いきなり突きを食らわすなんてさ」


「…………」


 悠樹は無言のまま、ザガから四メートルほど離れた間合いで足を止めた。


「おやおやぁ」


 化け物はへらへら笑いながら告げてくる。


「クカカッ! 何だい四遠君? ボクに聞きたい事って? ボクの名前? ボクの目的かな? クカカッ、今ボク凄く気分がいいんだ。何でも答えてあげるよ! クカカカッ!」


 だが、それに対する悠樹の方は、完全に無表情だ。


「今さらお前の素姓なんて心底どうでもいいよ。それよりも聞きたい事がある」


 悠樹は静かな声で問う。


「ここにはもう一人、人間がいたはずだ。彼は――鷹宮君はどこに行った」


 背後で息を呑む気配を感じた。恐らく翔子だろう。すでに悠樹、そして由良も鷹宮がどこへ行ったのか、どうなって・・・・・しまったのか・・・・・・、察しがついていた。

 それでも聞かなくてはと思ったのだ。鷹宮を『友達』と呼んでいたこの怪物の口から。

 しかし、そんな淡い想いなど、化け物が汲むはずもなく――。


「ん? んん? ああ、鷹宮君ね。うん。鷹宮君かぁ」


 かつての鷹宮の『友達』はあごに指先を当てると、ニタアと笑った。

 そして右手でポンポンッと自分の腹を軽快に叩き、


「クカカッ! 彼ならここ・・にいるよ! ここ・・に逝っちゃいました!」


 憐れむ様子さえ見せず、心から楽しげにそう宣った。

 悠樹は長剣の柄をギシリと強く握りしめる。


(……鷹宮君……)


 ただ、静かに唇をかむ。

 この場所に着いた時点で予想はしていた。

 内心では覚悟もしていた。だが、それでも胸に突き刺さる。


 友達になれると思っていた、あの少年は――。

 もうすでに、死んでしまっている。


 あの少年の人生は、ここで終わってしまったのだ。


(どうして僕は……いつも、いつもッ!)


 苛立ちで、ギシリと歯が鳴った。

 もっと自分の直感を信じるべきだった。

 校舎を出た時点で由良を抱き上げ、全力疾走すべきだった。

 無論こんな後悔は単なる可能性の話にすぎない。結局のところ、どう足掻いても間に合わなかったかもしれない。状況を鑑みると、その可能性は極めて高かった。


 だがしかし。

 それこそ可能性だけで語るのならば――。


 間に合っていた・・・・・・・可能性だって・・・・・・決してゼロ・・・・・ではなかったのだ・・・・・・・・


(なんで、僕はッ!)


 自分の愚鈍さと目の前の怪物に、ただただ怒りが湧いてくる。

 心の奥底から、ドス黒い殺意が溢れ出てくる。

 それは、到底抑えきれるような感情ではなかった。


 ――こいつだけは絶対に……ッ!


「……ごめん、由良」


 悠樹は怒気を宿した声で、相棒の少女へと告げる。


「逃げるべきだと思う。けど、僕はこいつを許せない。こいつを全力で・・・殺したい」


 それに対して、由良は一度小さく息をついた。

 ……やれやれ、やはりそう来たか。

 由良は瞬時に考える。この状況、冷静に考えるならば撤退すべきだ。しかし悠樹の気持ちもよく分かる。悠樹よりも鷹宮を知っているからこそ、痛いぐらいに共感できた。


 由良はさらに数瞬だけ沈黙する。

 そして――。


「……弔い合戦に水を差すのは野暮と言うものか」


 覚悟を決めた白い髪の少女は、ザガと翔子をそれぞれ一瞥した。


「よかろう。小娘への説明は妾がしておこう。そなたは存分に力を振るうがよい」


 と、神妙な声で返す。二人の様子に翔子は困惑の表情を浮かべた。


(……全力? 説明? 一体何のことです?)


 言葉の意味が分からない。いや、それ以前に今の会話の流れは明らかに宣戦布告だ。

 

 まさか、この二人は第八階位相手に一戦交えるつもりなのだろうか……?

 翔子を含めても、たった三人しかいないというのに。


 鷹宮の仇を討ちたいかと問われれば、翔子も迷うことなく同意する。

 だが、実質問題として三人では厳しすぎるのが現実だ。三王位は決して楽観視してもよい相手ではない。ここは逃げに徹して態勢を立て直すのが最善手だろう。

 しかし、悠樹の背から湧きたつ殺気は、その最善手を是とはしていなかった。


(まさか悠樹さん、玉砕も覚悟して……)


 そんな不安がよぎる。が、翔子はすぐに首を横に振った。「そんなはずはない」と思ったのではない。「彼がそれを望むなら全力で協力しよう」と思ったのだ。

 翔子は身体の調子を確かめてみた。掌を開いて閉じる。四肢にも力が入る。ほぼ麻痺は回復していた。これなら自分も充分戦えるだろう。この戦いに参戦できる。


 すでに翔子は二度も悠樹に命を救われている。

 ならば、この命は彼のために使うのが、恩義というものだ。


 そう決意した翔子は、悠樹の後ろ姿に視線を戻して――。


(――――え)


 その異常な光景に唖然とした。

 悠樹は右手の長剣を横へ薙ぐように構えていた。その立ち姿に違和感はない。

 問題なのは、彼の右腕を覆う獣衣だ。


(え、えっ? ど、どうして獣衣が銀霊布に戻って……?)


 悠樹の獣衣は何故か銀霊布へと戻っていた。次いで銀霊布は困惑する翔子の前で渦巻くように巨大な円を描き、一瞬で悠樹の全身を包み込んでしまった。

 いきなりのことに翔子は驚愕する。


「ッ!?  悠樹さん!? まさか銀霊布が暴走を!?」


 そう叫び、慌てて悠樹の元に駆け寄ろうとする彼女を、由良が肩を掴んで止めた。


「これ、待たんか小娘。心配などいらん。あれは銀霊布が暴走している訳ではない。あれは悠樹の獣衣――完全なる獣衣を編んでおるじゃ」


「――え? か、完全なる獣衣って……?」


「すぐに分かる。ほれ、言っとる傍から、完全顕現が完了したようじゃぞ」


 前を向く由良につられ、翔子も悠樹の方に視線を向けた。

 そして――息を呑む。

 何故ならば、その場所にいたのが、彼女の知る少年ではなかったからだ。

 雄羊のようにねじれた長くて太い二本の角に、翡翠色の鋭い双眸。全身は宝石のように輝く紫色の竜鱗で覆われており、分厚い胸板の前には交差する巨大な銀の鎖。腹筋は八つに割れている。両腕の筋肉は鋼のようであり、丸太よりも太い。

 その異様な姿は、とても人間には見えなかった。

 ――ズズンッ、と。

 太くて重い竜尾を、大地に叩きつける紫色の巨獣。

 まさに、地獄の王が如き巨大な竜人が、そこに顕現していた。

 そして口元を押さえ声も出せない翔子に対し、由良が淡々と告げるのだった。


「とくと見るがよい小娘よ。あれこそが悠樹の真の獣衣バドレス。当代は無論、恐らくは史上においても最強であろう《追跡者チェイサー》――《魔皇デモノ・ドラゴン》と呼ばれし者の御姿ぞ」

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