語り継がれるお話 5
赤川ココ
第1話
目元に、何かが染みて我に返った。
夢うつつで、ぼんやりとしていた目の前が、突然晴れる。
驚いた男の顔があった。
優しい顔立ちのその男が、手にしていた布を下ろし、見返してくる。
「……見えるか?」
探るように問い、すぐに首を振る。
「あー言葉が、分からないか。確か、あの辺りは……」
言い直そうとする男の前で、何とか首を動かした。
「……」
何故か目を見張った男が、一瞬目を泳がせて再び尋ねる。
「見える、か? どこか、痛い所は?」
その言葉は先程と違う国の言葉だったが、それに気づかずにゆっくりと首を振ると、男は微笑んで頷いた。
「良かった。ひどい目に合ったな。まだ細くて動きづらいだろうが、少しずつ焦らずに、元気になろうな」
頭を撫でて、衣服を羽織らせてくれる男を見ながら、思い出した。
どうやら、あの城から抜け出せたらしい。
正しく言うならば、男が助け出してくれた、と言う所のようだ。
「……」
あんな所にいた瀕死の子供を、何故助けようと考えたのだろう。
死から這い上がってきた少年の物語は、ここから再び動き出した。
本人の意思には、全く添わぬ形で。
父親が、部下を呼び出してくるように、ランへと告げた。
その部下の名を聞いて父の思惑を察し、やれやれと思いつつも、それに従う。
一族だけで成り立っていたこの群れも、今や随分膨れ上がり、ここにはいない者も含めると、一つの国を作れそうなくらいにまでなっている。
ひとまとめにしてしまっては、どこの国でも脅威になりそうだが、カスミと名乗るランの父親は、そんな面倒な事態を避けるため、膨れ上がった仲間は適度に減らし、適当な理由をつけて、各国に分散させていた。
東洋の小さな島国生まれのカスミは、どの国でも目立たぬ黒髪と、真面目な顔立ちでありながら、背丈はそれなりにある男だが、その性格は容姿と裏腹に首を傾げたくなるようなところがある。
今から始まるであろう喜劇も、その一端だ。
ランは溜息をつきながら真っ白な髪を振り、その喜劇の舞台に無理やり引き出される男がいるはずの、とある部屋の扉を叩いた。
返事が返り、すぐに開いた扉の内側から、同じくらいの背丈の男が顔を出した。
背丈は同じくらいで肌色も同じく東洋のものだが、ランの猛々しさのある顔立ちと違い、優しい顔立ちの男だ。
並ぶと、この男の方が女々しさを覚える容姿なのだが、そんな見た目に騙されてはいけない。
今や、剣を扱うランやジュラと並び、実力で認められつつある男だ。
「どうしました? ラン?」
少しだけ目を見張る男の背後で、妙に慌てて何かを隠す大きな老人の姿が見えた。
それを見て、ランは居心地悪い思いで謝る。
「あ、取り込み中だったか? 済まない」
「いえ……まだ、興に乗っていませんでしたから、お気になさらず」
背後で動揺する老人とは違い、男はにっこりと笑い、穏やかに返した。
「何か、急ぎの用ですか?」
「急ぎではないんだが……エン、親父が呼んでる。大事な話があるそうだ」
目を見張る男エンの後ろで、老人がはっとして顔を上げた。
緊張したその顔に目を向け、ランは小さく頷く。
「……」
「ジャック。お前も、呼ばれている」
ジャックと呼ばれた老人は、皺皺の顔を歪めながら頷き、話が見えないエンの傍に歩み寄った。
男を部屋から出しながら、真顔で呼びかける。
「エン」
「はい……?」
真剣な顔で呼びかけられて戸惑うエンに、ジャックは重々しく言った。
「お前にどんな肩書がつこうと、儂はお前の師匠じゃ。それだけは、覚えておくのだぞ」
忘れようがない。
そう言いたげな男を促し、三人揃って頭領の待つ部屋に向かった。
突然立ち上がったエンに、心の準備はしていたものの矢張り驚いてしまい、ランは少しだけ身を反らした。
長机の広い面に、エンと向かい合わせに座ったカスミと、幼馴染で従兄に当たるロンは、その剣幕にも動じていないが、エンの隣に座っていたジャックは、慌てて男を抑えようと手を伸ばす。
師匠に腕を攫まれても、今ではびくともしないエンは、立ったまま目の前に座る男を見下ろした。
「……随分永く、ここでお世話になっている筈ですが……これは、戯れが過ぎませんか?」
「永いと言っても、十年ほどだろう? いう程ではない」
真面目に返す男に、エンは久しぶりに、顔が取り繕えなくなっていた。
笑いが消えて引き攣るその顔を、ロンが人を食ったような笑顔で見ている。
「仕方があるまい。お前がどの位使えるようになるのか、拾った時には分からなかったからな。初めに宣言しておいて、後で使えないとなっては、片づけが面倒な事になるだろう?」
「初め? つまり、会った時から、分かっていたんですか。オレが……あなたの子供だと?」
長机を砕かんばかりの勢いで、拳を握り締めるエンに、カスミは真面目に頷いて続けた。
「というより、お前が売られたと聞いたから、あの商家を根絶やしにしたのだ」
相変わらず、人を怒らせることに関しては、天下一品だ。
中立の意味で、父親と腹違いの弟の間の、机の狭い面の席に座ったランは呆れながら、身を乗り出して父に掴みかかろうとする男を、抑えた。
「落ち着け。……親父も、怒らせる言い方は、するなよ」
「この程度で怒る方も、悪いだろう? こらえ性がない。まあ、その辺りはラン、お前が助けてやれ」
エンはカスミの実の子供という、衝撃な事実にだけ動揺しているが、事はそれだけではなかった。
カスミは、自分の後継者として、エンを持ち上げるつもりなのだ。
「……千歩譲って、あなたの子供と言うのは、受け止めるとしても……」
「十歩くらいで、譲って欲しいものだが」
絞り出す声に答える真面目な声は、完全に喧嘩を売っている。
それが分かっているエンは、自分を抑えながら必死に続けた。
「何故、ランではなく、オレがあなたの後を、継がないといけないんですか?」
「ランは、これでも女だぞ?」
「そうなんだよ。悪いな、エン。オレでは、男所帯をまとめ上げるのは、無理なんだ。ほら、力も弱いし」
久し振りに、殺意駄々洩れの目線が、ランを真っすぐ刺した。
「怖いなあ。そう言う目は、か弱い女には怖がられるぞ」
「……」
黙り込んだ男を見て、揶揄い過ぎたと我に返り、ランは腹違いの弟の顔を覗きこんだ。
「まあオレは、か弱くないけどさ、この大所帯をまとめるには、力が足りないんだよ。勿論お前ひとりでは大変だと思うから、ちゃんと手伝うから……」
「ランちゃんは、力でまとめることは出来ないけど、エンちゃんにはない人徳は持っている。だから、二人で力合わせて、この大所帯をまとめて欲しいのよ」
ロンが、笑顔でランに続ける。
ジャックに次ぐ大きさの男は、色白の西洋の老人と違い、色黒の東洋の男だ。
野性味のある美男子なのに、どこかの貴族の出なのかと思わせる、やんわりとした口調が定着している。
昔は不自然極まりなかったのだが、年月を重ねると周囲も本人も慣れてしまうものらしい。
言う事は全て言ったと、三人が黙り込んだ。
本人の意思は、一応聞く。
だが、今は色よい返事がなくても、徐々に仕事を回して、最終的には押し付ける算段だった。
エンは、黙り込んだまま顔を伏せ、力なく椅子に腰かけた。
心配そうに顔を覗きこむジャックを一瞥して、静かに顔を上げた男は、きっぱりとした返事を口にした。
「お断りします」
そうかと、予想通りの返事に頷くカスミに、エンは穏やかな笑顔を向けた。
そして、予想外の事を口にしたのだった。
「近い内に、この稼業から足を洗う心算でしたが、こういう仔細では、ここに止まるわけにはいかないですね。すぐに、ここから立ち退きます」
今度は、カスミが立ち上がった。
ランも驚いたが、その驚きよりも父が動揺した事の方に驚き、体を反らすことも出来ずに唖然としてしまったのだった。
その後、止める友人さえ振り切って、エンはこの隠れ家から立ち去ってしまった。
「……何故か、ジャックも止めなかった」
ジュラが、頭を掻きむしりながら嘆いた。
ランと同じような白髪だが、肌の色も透き通るように白く、赤い瞳を持つ東洋の男だ。
そのジュラと性別だけ違う、同じ色合いのジュリがおっとりと首を傾げた。
「エンが、まっとうに生きれるのか心配だけど……決意は、固かったのね」
「そうなんだよな……親父も、あいつが足を洗う覚悟をしてるなんて、思っていなかったらしい」
だからこそ、カスミはあそこまで驚いたのだろう。
余りに仰天していたので、どこかで天災でも起きるかと心配したが、すぐにいつもの父親に戻ってくれ、自分たちの周りで何かが起きる気配もないので、今のところは安堵していた。
が、疑問は残っていた。
「元々、足を洗う機会を伺っていた所に、旦那の思惑を知らされて、丁度いいと思い立ったってところが、一番あり得るな」
唸ってからジュラが言うと、妹も頷いた。
そこまでは考えられるが、その足を洗う理由に、心当たりがない。
三人が仲良く唸る様を、机の足元に座る猫は、静かに見上げていた。
長くやわらかな毛並みのその黒猫は、緑色の目を細めて口を開いた。
「出て行ったエンを、ロンが探り始めた」
さっき出て行ったから、追跡は難しくはないだろうと言う猫を、ランは見下ろした。
その目には、困惑がある。
「そこまでして、繋ぎ止めたいのか? 親父の事だから、まだ見つかっていない子供の、一人や二人いるんだろう?」
事実、カスミと自分の故郷の国に、腹違いの弟の子供らしい若者がいる。
今は亡き右腕の男との約束を守るため、手当たり次第ではないものの、女を引っ掛ける事は続けているはずだ。
「いても、まっとうな人間として生きて死ぬ子の方が、多いらしいわよ。ロンがそんな事を言っていたけど、違うの?」
「初耳だ」
一族の住まう地から抜けた事で、そういう事には係わらないと思っていたから、ランは自分の体の事もあまり分からない。
白髪になるに至った時に、少しだけ父親に聞いたが、それ以外は気にする話ではないと考えていた。
だが、自分に係る事態になるのなら、もう少し詳しく聞いておいたほうがいいかもしれない。
「その、足を洗う理由を突き止めたら、どうする気なんだろうな?」
「そりゃあ……」
考えながら、ジュラの不安の混じる疑問にあっさり答えかけて、ランは我に返った。
「……なあ、もしかしてあいつ、誰か想い人でもできて、その人のために足を洗った、何てことはないのか?」
「……」
黒猫が天井を仰ぎ、兄妹が揃って唸る。
「ありえるが、その気配が、一切なかったんだよ」
「ジャックも、この頃は少し落ち着きがなかったけど、色恋の浮き方じゃなかったわ」
あの老人が妙に浮ついた感じだったのは、ランも気づいていたが、それは年による何かの予兆と考え、深く気にしていなかった。
「頭が、可笑しくなりかけてるんだとばかり思ってたけど……それにしては、いつも通りだよな」
「怖いこと言うなよ。ジャックが呆けたら、いざって時に背中を預けられないだろう?」
六十近いジャックは、寿命持ちながら変わった技を持っている。
死んだ生き物を自在に動かすという、けったいな技なのだが、もし頭の具合がおかしくなっているのなら、動かしたその死体を味方に向けてしまう恐れが出て来る。
真顔で返すジュラに頷き、ランは慎重に言った。
「巧妙に隠していたのかもしれない。それこそ、オレたちに知られたくない者を」
揶揄われるとか、そう言う理由であろうが、あのロンが本格的に探り始めてしまっては、すぐに知られてしまうだろう。
連れ戻すのが目的なのなら、隠している者に害を及ぼしてでも、それを実行してしまうかもしれないのが、あの男だ。
揶揄い云々という、生易しい話ではなくなってしまう。
「……くそっ、水臭い。足を洗うのは残念だが、想い人が出来たってのなら、相談の一つもしてくれれば、こんなまずい事態にはならなかったのに」
ジュラは、悔しそうに唇をかんだ。
実年齢はエンより上だが、それでも友人だと思っていた。
だから、この後起こるであろう悲劇を経て、連れ戻されてしまう友人を思うと、苦い思いが沸き起こる。
「何とか、出し抜けないか?」
腹違いの姉であるランも、同じ気持ちだった。
苦い顔を隠さずに呟くと、ジュリが天井を仰いだ。
「ゼツがいれば、エンが立ち去る前にその想い人の有無が、分かっていたでしょうに。間が悪いわよね」
足を洗う事は止められないだろうが、逃げる切る手助けくらいは、出来たかも知れない。
生憎、鼻がいい狼の息子は、現在別行動中だった。
見上げる黒猫の前で、三人は揃って溜息を吐いた。
息を吐きつくしたランは、目を細めて見つめる黒猫に気付いた。
「何だよ」
「お前、色々と、抜け落ちている事がないか?」
「は? 生憎とまだ若いから、物忘れはないぞっ」
全く抵抗なく返事する女に、黒猫はわざとらしく溜息を吐いて見せた。
「……何で、オレが、ロンが探っていると、知っていると思ってるんだ?」
ゆっくりと尋ねる口調で言われ、ランは目を見張った。
期待するその目に少しだけ、優越感を覚えながら、黒猫は言った。
「エンが、ロンの追跡を撒いて、落ち着いた先を知っているから、だ」
「オキ、お前……」
思わず目を輝かせながら、黒猫の名を呼んだランは、精一杯の賛辞を口にした。
「伊達に、黒くないな」
「……色か?」
探索事が得手であることが有名だった一族の末裔のオキは、その精一杯の賛辞が気に食わず、不機嫌になってしまった。
一度は撒かれてしまったが、意外な所からエンの居場所が知れた。
「西洋の海に近い隠れ家に、今は落ち着いているみたいね」
そう報告したロンは、呆れたように首を振って続けた。
「ジャックちゃんが、やけに大人しいと思ったら、彼も手を組んでいるみたいよ」
エンを見失ってから数日、様子がおかしいジャックを見ていた。
するとある日、老人が出かけた先がその隠れ家で、今は使われていないその小屋で、エンは生活しているようだった。
「一人で、か?」
「ええ。そこでは、ね」
カスミの問いに、含みのある返しをしてから、男はゆっくりと言った。
「単にそこで、待ち合わせただけみたいよ。揃って別な場所に出かけて行ったわ」
念には念を入れ、本命の住処は隠されていた。
そこは、森が辺りを覆ううっそうとした土地で、精巧な罠をくぐり、二人が向かった先は小さな山小屋で、そこに、危惧していた人物がいた。
「……愛らしい、女の子だったわ」
「……ほう」
「エンちゃんだけじゃなく、ジャックちゃんも、どろどろにされてるみたいよ」
笑顔で告げる幼馴染に、カスミは大きく頷いて見せた。
「相当の、性悪女に捕まってしまったようだな」
「あれだけ罪人たる証があるのに、それでも二人の男を誑せるんですもの。相当だと思うわ」
「罪人? 目立つ印でもあったか?」
二人の男に気付かれぬよう、ある程度遠目だったにもかかわらず分かる印を、ロンは見つけていた。
頷いて、両手を上げて見せた。
「手が、二つともついてないのよ。根こそぎではないみたいなんだけど、あれでは、誰かの手を借りないと、生きるのは難しいわ」
「ほう。だから、足を洗って養う気でいたか」
「そうみたい」
そこまで聞いて、カスミは考えた。
人間の寿命は、大体五六十年。
その女を養う心算なら、死ぬ迄そうするつもりだろう。
看取った後に、戻って来るのを待つのも手だが……。
「戻って来た時の、エンの悲しみ具合で、仕事の押し付け具合も遅くなり兼ねんな」
「情の濃いあの子の事だから、一途に思いそうだものね」
「死に別れは、早い方がいいな」
ロンが一瞬、眉を寄せた。
すぐにいつもの顔に戻った男を見返し、カスミは真面目に頼んだ。
「お前なら、苦しませずに眠らせられるだろう? やってくれ」
「……仕方ないわね。高くつくわよ」
真面目な幼馴染に笑い返し、ロンはさっそく動き始めた。
とはいっても、すぐに相手をどうこうすることはしない。
まずは、エンとジャックがその小屋を訪ねる頻度と、罠の数と作りを調べ、念入りに準備をする。
焦って動いて、下手に苦しませても、こちらの後味が悪いだけだ。
その女の死を前に、二人の仲間が悲しむのは大目に見るし、汚れ役も引き受けるが、力のない者を手にかけるのだから、それと分からない方法を取りたい。
我儘な望みだが、それを実行するために考える事は、嫌いではなかった。
父親の目をかいくぐり上手く逃げおおせた後、エンが一日二日、バタバタとしたのは致し方ない事だった。
足を洗うという考えはあったが、準備が全く進んでいなかった時に、その機会が巡ってしまったため、父親側がじっくりと腰を据えてこちらの居場所を把握する前に、急いで準備を整えて、身を隠すしかなかったのだ。
その一日二日の忙しさを過ぎれば、後は忍耐の問題だ。
過ぎるくらいに慎重に、協力者との連絡も行い、隠したい者を徹底的に隠した。
しかし、とオキは思う。
外側には異常なほどに気を張り、未だこの場所を知られていないのだが、その一日二日のバタバタの間に入り込んだ者に気付いていなのは、どうなのだろうか。
詰めが甘いと、断じるのは可哀そうだ。
寧ろ、あの追っ手を撒けたことには、賛辞の一つも送ってやろう。
オキが、自分の意志を持って動く猫だと知られていなかったのが、エンにとっては誤算だっただけで、むしろ自分がカスミの命で動いているのではない事を、幸運と思って欲しいと思う。
外にこの山小屋で隠されている者を知られないよう、エンは気を張って人に紛れながら、短い時だけここに来る。
もし罠をかいくぐった誰かに見つけられても、ただ世話しているだけと、見せられる形を取っている。
だから、オキがその相手をじっくりと観察し、徐々にその正体に気付きかけているのを、知られる事はなかった。
山小屋に隠された者は、細く小さな西洋の人間だった。
大きな者が多いあの集団を見ているから、余計に細く小さく見えるのだが、その容姿は整った顔立ちで、黒々とした瞳が色白の肌の中で妙に映えて見えた。
エンが来ない間は、頻繁に外に姿を見せるのだが、その頭には手作りらしい布製の帽子を深くかぶり、その間から黒髪が肩で揺れている。
西洋の顔立ちで、肌色白く瞳と髪色は黒いという容姿だ。
ランたちは想い人が出来たのだと考えていたが、遠目で見守っているだけの今は、それを決めつけられない。
だが、エンの好みを考えるとあり得るかと、そう思っていた。
あの人物は、見た限りは女ではない。
年頃の娘にしては、真っすぐな体過ぎる。
オキの知る娘たちは年頃になると、大小の違いはあれど胸も膨らみ、体つきも柔らかくなった。
男勝りのランですら、元の姿だと女と見える体つきになっている。
それと見比べると、明らかにその人物は体つきが固い。
まあ、男だからエンの想い人じゃないとは、言い切れないのだが。
ジャックとの師弟以上の間柄は、近い仲間内では知られた話だ。
真剣に愛した者が、美しい男であったとしても、カスミもランも驚かないだろう。
「……」
いつものように小屋から出て来たその小さな男は、いつものように森の方へと歩き出した。
今の時期、この地は夏の終わりでまだ暖かいのだが、肌を隠す裾も袖も長い衣服だ。
袖から手が見えないのは、袖が長いからではない。
布地越しの肉付き具合から察するに、肘と手首の半分ほどの所から先が、両方ともないようだった。
それが、元からなのか何かしらあって、切り落とされたのかは分からない。
だが、信じられない事に今迄見ていた限りでは、動きに障りがあるように、見受けられなかった。
森の中を、いつものように歩きまわりながら、何かを探している。
初めの頃は、何をしているのかと思ったが、どうやら食べる物の採集を兼ねた、周囲の探検をしているようだ。
見守っている間に何度か、周りを見て回っている最中に、草や木の実を無造作に口に入れているのを、見かけていたからだ。
その途中、エンが仕掛けた罠を動かしてしまい、何度かそれを避ける動きをするのが、常だった。
毒のある実や草もあるはずなのだが、見ている限りではそれを口にしたことはない。
悪運は強いようだと思いつつも、声を掛けずに見守っていたオキは、その小さな男がある木を見上げているのに、気づいた。
同じように見上げてみると、その木には小さな赤い実がついていて、それを小さな野鳥が数羽、仲良く啄んでいる。
見上げたまま目を細め、思案しているようだ。
鳥が啄んでいるのだからと、毒がないとは限らないと、承知しているのだろう。
下の方に実が落ちていないのも見て、覚悟を決めたように木の一番下にある枝に手をかけた。
うまい事腕の関節を枝に巻き、全身を使ってよじ登り始める。
機敏にとはいかないものの、そう時をかけずに実のある場所まで登ると、用心しながら紅い小さな塊に腕を伸ばした。
もう少しで届くかに見えた腕先を、男は突然ひっこめた。
赤い実のすぐ傍に、鋭い矢が突き刺さる。
危ないと息をつく間もなく、無数の矢がその木を針山にしていく。
いくら何でも、容赦がなさすぎる罠の張り方だった。
思わず唖然としたオキの前で、男がぼとりと地面に落ちた。
帽子を抑えながら身を起こすと、僅かに顔を顰めて右腕を見る。
細い腕を、一本の矢が串刺しにしていた。
流石に目を見張り、次いで唇をかみしめると、男は一目散に小屋へと走り去った。
どうする気だと、オキもその後を追い小屋の中に入ると、小さな背中が竈の前にあるのが見えた。
何故、竈?
不思議に思ったのは、少しの間だった。
男が左腕と足で、器用に火吹きを挟んで竈の中を漁り、中から赤くなった火種を取り出した時、何をするつもりなのか分かったのだ。
「こらっ、まてっ」
唖然とするより先に、声が出ていた。
左腕の袖を捲り、その生身の肌に火種を焼き付けようとしていた男が、びくりとして振り返る。
「何をやってるんだっ。焼くより先に、出来る事があるだろうがっっ」
言葉は分からないだろうが、厳しく鳴いているように聞こえる筈と、オキは鋭い声で喚きながら、身軽に男の前に立った。
「……猫?」
呟く声に構わず右腕の傷を見て、目を見張った。
色が、濃すぎる。
軽く匂いを嗅いでみて、男が慌てた理由に気付いた。
「……厄介な血だな」
ぽつりと言ってから、刺さった矢を咥える。
息を呑む男の腕を抑えながら一気に引き抜き、傷口からあふれ出した毒々しい血を、そのまま舐めとった。
「あ、こらっ……」
焦った声は無視して傷口も丁寧に癒すと、オキは息をついて顔を上げた。
目を丸くしたままの、黒い瞳が見返している。
完全に姿を見せてしまった上に、とんでもない大技を見せてしまったが、唖然としている間に姿を消してしまえば大丈夫だろう、そう思ったのだが……。
「ん……?」
思わず、男の顔を見上げたまま、凝視し固まってしまった。
男の方も、黒猫の目を覗きこみ、固まっている。
「だ、大丈夫、なのか?」
感情が伺えない声で言う男の目は、僅かに揺れている。
真っすぐに問いかけられて、オキは仰天した。
が、今感じた事が間違いでなければ、分かっていて尋ねていると言えた。
慎重に、猫が口を開く。
「大丈夫なのかとは、血を舐め取った事か?」
男は、無言で首を頷かせたが、黒々とした目は心配で揺れていた。
「毒の類には、慣れている。そういう一族の出でな」
「……一族?」
聞き返されたが、深く話す気はない。
昔なくなった一族の事を話すより、今は知らなければならない事があった。
「お前、何故ここにいる?」
見据えて短く問うと、戸惑った男は眉を寄せた。
「何故、と言われても……。気づいたら、ここにいた。ここが何処かも、まだ教えてもらっていない」
「……そうか。名前を、訊いてもいいか? オレは、オキと言う」
思い出したように短く名乗り、その名を聞き出すと、すぐに立ち去った。
ランにこの男の事を詳しく話した後、過去の出来事を探り直してもらわなければならない。
どこかで、事実が取り違えられたという生きた証が、ここにいた。
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