第十三話 食べられる虫と見えない母親
和真は六歳の頃、やせ細っていていつも飢えていた。毎日のように着ていて、汚れて黄色くなってきているシャツと短パンが、地べたに座ったことで砂にまみれている。
和真はその日は公園にいた。草むらの中に手を突っ込んでバッタを捕まえた。バッタの足をちぎっては青いバケツに入れ、続いて脚を全て失った胴体が入れられる。これで十匹目。和真は次を探そうと、草むらの中を覗きながらそっと歩く。しばらく採集をして、公園の水を腹一杯になるまで啜って待った。
しばらくすると十二歳の明徳がまだ土に覆われたままの大根を抱えて走ってきた。
「いくぞ! 走れ!」
明徳の向こうに大人が走って追いかけて来ているのが見える。
「うん!」
和真は青いバケツを抱えて兄の後を追いかけた。
後ろを振り返ると、追いかけてきていた大人は、疲れたのか諦めたように座り込んだ。
兄弟は坂道を駆け上がり、中曽根荘に帰って行った。
玄関の土間で、大根を抱えた明徳は押し黙ったまま上目遣いで辺りを伺っている。和真は恐る恐る言った。
「ただいまぁ……」
返事はない。
玄関にはゴミ袋が六つ積まれていた。その横には酒の瓶が五本。白いワンピースを着た母親は、左側から現れて亡霊のように廊下を歩いて横切って行った。
「お母さん、ただいまぁ。お腹空いたよぉ」
母親である恵美はやせ細った身体でテーブルに座り、化粧をしながら写っていないテレビと鏡の自分を交互に見ていた。
「お母さん……?」
何れも反応はなく、和真は自分が透明人間か幽霊にでもなった気がした。寂しくなり、和真は泣きそうになった。
明徳は弟の手を引き、台所へと進んだ。台所からフライパンにサラダ油をひいて、和真が捕まえてきたバッタを醤油とでこんがりと炒めた。次に、水を張った鍋が湯立ち始めると、味噌を溶かし入れた。大根を無骨に切って入れた。グツグツと音を立て、ふんわりと味噌が香り、和真のお腹が盛大に鳴った。明徳と和真は笑った。
その背後で玄関のドアが勢いよく閉まる。
兄弟はビクッと体を震わせた。母親が夜の仕事に出かけ、兄弟はようやく食事にありついた。
次の日の晩、兄弟は毛虫を捕まえた。桜の木に群生しているのかと思われるほど大量にへばりついているのが見て取れる。
中曽根荘の脇に一本だけ生えているこの桜の木は、大家である中曽根のおじさんの祖父が植えたんだと昔聞いたことがある。
同時に、昔の戦争が終わってからは特に食べ物がなかったんだと聞いた。八月になると桜の木につく毛虫は美味で、その頃の毛虫やバッタは貴重な食料となっていて中曽根の大家もそれを食べたことがあるらしい。見た目とは裏腹に、ほのかに桜の香りがするらしい。
明徳はその話しを思い出しながら、桜の木に登って、無骨な枝の下でバケツを掲げている和真が見ていた。
枝の下の和真と頭上の枝とを交互に見る。
明徳の中に日頃の不満が見え隠れしていた。信頼しきっている弟の目が疎ましく思えていた。
明徳は頭上の枝に手をかけると、猿のようにぶら下がり、鉄棒でもするかのように一気に揺すった。
揺すり起こされた毛虫は群れをなして和真に降り注いだ。
律儀に掲げ続けていたバケツに毛虫が入っていくが、逸れた毛虫が和真の腕や手にしがみつく。
身を守ろうとした毛虫はその毛針で和真の腕を刺して攻撃する。
枝から降りて太い幹に降りた明徳は、眼下で泣き叫ぶ和真に気まずさを覚えた。
桜の木から降りた明徳は、和真ではなくバケツに歩み寄った。
「おお~! すごいぞ! 和真も来てみろよ! 今日はご馳走かもな!」
和真はすっかり怖くなった足元に点在する毛虫を避けながらバケツに近付いた。
バケツの中に黒く蠢くそれらを見て、和真は身震いした。刺された腕もズキズキと痛む。
「兄ちゃん、痛いよぉ」
「……薬箱の中の薬でも塗っておけよ。それより、残りの毛虫捕まえるの手伝ってくれ」
和真は言われた通りに靴で蹴ってバケツの周りに集めていく。
明徳は仕方ないなとため息をもらして中曽根荘の裏手にある倉庫から火バサミを拝借してきてバケツに入れていく。和真はムスッと口を尖らせて言った。
「そんなものがあるなら、最初から持って来ててよぉ」
明徳は、今、思い出したんだと言わんばかりに肩を竦めて見せた。
兄弟達は玄関の土間で立ち止まった。明徳は以前と同様、辺りを伺っているかのようにじっとしていた。和真は代わりに言った。
「ただいまぁ……」
なんの反応もないのを見届け、明徳はそっと家の中を見て回った。
「いないぞ? どこかに出かけたかもな。今のうちにこれ調理しようぜ」
言って、明徳はバケツを持ち上げてニヤッと笑った。釣られて和真もニヤリと笑った。
台所のガスコンロが火をあげるのを見届け、明徳は火バサミで摘みあげた毛虫を炙る。
毛虫の毛針が赤く燃えるとグネグネと苦しそうに悶えていた。和真は少し怖くなって明徳の後ろにくっついて見ていた。
桜チップを焦がした時のような香ばしい匂いが広がる。
明徳は鼻元に持ってくると、クンクンと嗅いだ。
「匂いは問題ないな……あとは味だな……」
明徳はまな板の上に動かなくなったかりんとうのような毛虫を置いて真っ二つにした。次に箸を取り出して和真に差し出した。和真は受け取らず、背中に潜るように隠れた。
明徳は半分になった毛虫を摘むと口に放り込んでみた。舌触りが気持ち悪いと感じて顔を顰める。意を決したように全身で噛むように手足も震わせて毛虫を噛んだ。
「……うっ……」
和真は顔を覗かせて兄を見守る。
「……うんまぁ」
明徳が言うと和真の腹がぐうっと鳴った。二人は笑った。明徳が差し出した箸を受け取り和真は同じように口に入れて震えながら食べた。
腕の痛みはいつの間にか治まっていて、和真は美味しいねと言った。
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