第三話 虫

 七月六日、和真はじっと天井を眺めていた。天井の片隅にあった黒い染みは消えていた。代わりに、大きな大きな毛虫がそこにいた。黒い体に、それを覆う毛針。


 毛虫ってこんなに大きくなるんだなと和真は関心半分、嫌悪感半分で思っていた。


 和真は陵辱心に突き動かされた。玄関の地面に置かれたままになっているモップを手に取ると、毛虫を天井に押し付け潰した。柄を小刻みに動かし、グニグニとした感触を楽しむ。緩む口元。


「……あ、しまった」


 和真は汚れる事を考えていなかった。その汚れを落とすのも自分だと気がついた。モップを下ろしてみると、黒い染みがモップに張り付いていた。


 前回と同じような汚れ。そういえば、この前と同じ場所ではなかったか? 和真は天井を見上げた。同じ場所に同じ黒い染みが広がっていて、それが見下ろしているような感覚を覚えた。


 和真はため息をついてモップを土間に戻し、鞄を片手に玄関を出た。


 家の中はクーラーというものが存在しないが、不思議とひんやりとしていて涼しかった。


 うだるような暑さが額に玉の汗を浮かべさせる。一歩外に出た和真は、もう家に帰りたくなった。


 和真は正面の坂道を歩いた。右手に土手が広がっていて、そこからはなでらかに坂道が降っていく。その先には、大きな湖がある。この湖には昔、龍が住んでいたと言われていた。そんな逸話を和真は思い出しながら、鼻歌を口ずさみ、バス停留所まで歩いた。


 いつも誰もいない停留所。そこからバスに乗り込み、職場へと向かった。


 和真は早朝の挨拶もそこそこに自分のデスクに座った。鞄をデスクの脇に置いて、部下が用意してくれたコーヒーを一口啜った。この時間が一番の至福のひとときだった。


「佐藤くん、ちょっと来てくれるかな」


 これが無ければ。


 佐藤は二十キロの重りでも背負ってるかのようにゆっくりと腰を上げた。


「部長、おはようございます」


 和真はこれ以上ないぐらい丁寧なお辞儀をした。普段ならやらないが。


「うん。そこに座ってくれるか?」


 部長の吉田は苦虫を噛み潰したような顔で和真の足元を見ている。


 ああ、やばい。


 和真は勘づいた。案の定こってり叱られた和真は自分のデスクに戻った。


 すっかり冷めてしまったコーヒーを啜りながら、叱られる原因を作った部下、高橋一真。自分とおなじ名前の読みを持つのも気に入らないが、仕事で失敗したのはコイツなのに、なんで俺が怒られなきゃならない?


 〈不機嫌な足元クソジジイ〉め。


 和真はギロっと高橋のデスクの方を見た。デスクの下に隠したスマホの画面を見ながらほくそ笑んでいる。和真はため息をついた。今度は絶対に庇ってやらない。そう心に決めた。


 ヘトヘトになった身体で坂道を登り、玄関を開けると和真は驚いた。


 兄の明徳が珍しい事に……本当に珍しい、奇跡と言った方がいいぐらいだ。


 家の中を片付け、モップがけまでしていた。


「何してんの?」


「なにって、掃除に決まってるだろう? 馬鹿なやつだな」


「そのモップ、黒い染みがついてなかった? 洗ってから使ってる?」


「はぁ?」


 明徳が持ち上げたモップには今朝の黒い染みが全くついていなかった。


 不思議な感覚を覚え、和真は頭を捻った。きっと疲れているのだろうと自分に言い聞かせる。


 掃除を再開した明徳には張り付いているような、いつもの不機嫌そうな顔はなく笑顔すら浮かんでいた。


 なにかいい事があったんだろう。そう思うと、理不尽な気がしてきた。


 いつものように、兄弟は寝る前にゲームをした。恐竜を狩るゲームだ。これは二人でハマっているゲームだった。飽き性な兄も、こればかりはずっとプレイしている。その日は兄だけ欲しいものが手に入っていった。


 和真はゲームの電源を切りながら思った。確率は同じ一パーセントのはずなのに、なんであいつだけドロップアイテムが手に入るんだ?


 和真はその夜は夜中の二時まで寝付けなかった。

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