第七話 ー二人だけー

Outside the rain begins

And it may never end

So cry no more

On the store a dream

Will takes us out to see

Nevermore Nevermore

ボズ・スキャッグス『we are all alone』より











 生きるのが辛いと感じたとき、喜原実優はよく実家から持ち出した机から一つの手紙を取り出す。

 上手ではないが読めないこともない文字で実優へ、から始まり、坂井信也、で終わるその手紙は、転勤で遠く離れてしまった実優の彼氏である坂井信也から送られたものだった。

 手書きのほうが思いが伝わる、と変に古風な考えを持つ彼から励まされるように実優は思えるのだ。        信也は定期的にラインで実優の体調や様子を気に掛けるメッセージを送ってくれていた。たまにしつこく感じるときもあったが、結局、実優は彼の不器用な優しさが好きだった。

 彼と人の世を添い遂げても構わないし、むしろそれが望みである。そう思える程、愛していたわけであったから、その一報を聞いたときの喪失感、絶望感は相当なものであった。しかし、ことあるごとに自分を元気づけてくれた彼が、実優の泣き顔を望むとは、到底思えない。悲しいけれども、天の世界に昇った彼のために、元気で、そして笑顔でいるべきだ。彼の親族や友人達との交流を経て、時間はかかったが、実優の中でそんな考えがまとまってきた。そのため、今も悲しみは癒えないが、深く絶望することはなくなった。自身が彼に望むように、彼もまた、朗らかな望みを自身に抱いていた。照れに邪魔され、愛している、という言葉も、キスもロクにできなかった。それでも、二人の間にはささやかな愛があった。

 「信也、今日も頑張ってくる……」

今は、もっと遠くなってしまった信也に届くように、実優は愛おしげに呟いた。





 昇って間もない太陽に照らされた実優の後ろ姿を坂井信也はじっと見つめていた。実優は自身の視線に気づくことなく歩み続けていた。そのことに少し虚しくなる自分を、信也は無理やり押し隠そうと思考した。

 やがて実優は歩みを止めた。交差点の前だった。

 スマホを取り出し、画面をいじり始めた実優の姿を背景に、信也は自分を実優はどう思っているのだろうと漠然とした疑問に苛まれた。今もまだ悲しいままなのだろうか、彼女の心に自分は未だに居るのだろうか、遠い存在として。

 答えが浮かばないまま実優に視線を戻した信也は車道を走るトラックに目を移した。だが、どうもそのトラックの様子がおかしいのだ。妙にゆらゆらとした軸のない走行は信也の脳内で『居眠り運転』というワードを想起させた。

 刹那、トラックのヘッドが実優の方向を向いたのだ。スピードが緩められることはない。実優はやっと気づいたようで、弾かれたように顔を上げた。

「危ないッ!」

実優の肩を掴んだ信也は勢いそのまま実優を自分の身体の方へと引っ張った。

 轟音。閉じた瞳を開けた信也は自身の胸元で衝撃に支配された実優を目にした。だが、すぐに飛び出し何処へと逃げ去っていった。

 数分の後、またも自分の存在に気づいてくれなかったことに、信也の心は痛みを覚えた。





 今日は喫茶たかいわでのバイトは休みだった。休日を利用した詩織はデパートのフリースペースにて小説の執筆を行っていた。ネクロ絡みの事件に巻き込まれるようになってから、詩織の中で少しずつ 少しずつ小説が形を帯びてきていた。小説のコンテストに作品を送る前にネクロに命を奪われないか、それだけが心配だった。

 そんな心配と共に、詩織の頭には神崎刃の顔が思い浮かんだ。詩織や匠海をネクロの危機から救ってきた青年。この数週間で、刃は不思議な存在として彼女の心に居座るようになっていた。

「神崎さん……小説とか読むのかな……」

そう小声で呟いた詩織は再び原稿用紙に目を向けた。主人公となる少女に襲いかかる魔物を持ち前の剣術で断ち切る戦士。その戦士に刃の姿を詩織は自然と重ねていた。

 スマホが鳴った。ラインがきたことを示していた。メッセージの送り主は『みーちゃん』。懐かしい顔が思い浮かんだ。急いでメッセージを確認する詩織。

『3時半くらいから会えない?』

そのメッセージに会えるよ!、と詩織は返答した。『じゃあ、いつものカフェ集合で!』

みーちゃんからのメッセージはすぐに帰ってきた。時間は二時四十八分。いつものカフェはここから近場だった。今から出発しても十分間に合う。

 原稿用紙を片付けた詩織は、久々に友人に会うという高揚感に心を跳ね上がらせていた。




 集合場所のカフェの前にはみーちゃんこと喜原実優が立ち、こちらに手を振っていた。久々の再開というのもあってか、詩織は喜々とした笑顔を見せ、成人女性にしてはやや小さい影に向かって駆け出した。

「詩織ちゃん!久しぶりだね!」

近づいてきた詩織に実優は満面の笑みを浮かべた。

「みーちゃんも元気そうで良かった!」

負けないくらいの笑顔を詩織は見せた。

 カフェに入った一行は適当にコーヒーを頼み、一旦のくつろぎを楽しんだ。仕事など近況を話し合っていた。

 コンクールに応募する小説は悪霊と闘う戦士の話にしよう、という趣旨の話をしたときだった。何処か深妙な表情を実優は見せ、話しだした。

「ちょっとさ、聞いてほしいことがあるんだけど……」

「ん?なに?」

努めて明るく問いた詩織だったが、実優の表情は変わらなかった。

「今日、交通事故に遭いそうになったんだけどさ……なんか、誰かに助けられたような気がしたんだよね。でも私以外に誰もいなかったの」

突然『交通事故』というワードが飛び出してきたわけだから、詩織は少しばかり動揺した。

「なにそれ……なんかちょっと怖い……」

そう応じた詩織は運ばれていたコーヒーに口をつけた。話はそれで終わらなかった。

「今日だけじゃないの。前から少しずつ誰かの視線を感じるようになったり、なんか不思議で……」

「で……!でも!みーちゃんのこと助けてくれたんでしょ。きっと守護霊!そんな感じのやつだよ!」

雰囲気が少しマイナスに偏った気がしたので詩織はやはり明るくそう答えた。守護霊の仕業ということに関しては、だいぶ当てずっぽうな推理だったが。

 だが、実優は手を鳴らし詩織の方を指さした。

「そう!確信はないけどなんとなく守護霊というか……信也が近くにいる気がするんだ」

信也。唐突に出た男の名前に詩織は驚愕を見せた。

「信也って誰?か……彼氏……?」

詩織の推察に実優は少し照れくさそうに答えた。

「正解。今まで言ってなくてごめんね」

 実優の謝罪は、唐突なカミングアウトから成る驚きに支配された詩織には届かなかった。学生時代、異性から注目の視線を浴びることもなく、恋愛に興味ないと言っていた実優に、彼氏がいたなんて……

 「まぁ、もう死んじゃったんだけどね……」

次に放たれた実優の一言によって、詩織は驚きから派生した興奮から解放されることとなった。

「え……?」

「交通事故で。だから、死んだ信也が私の守護霊になっているんじゃないかって……」

控えめな笑みの中にはいくばくかの悲しみも混ざっていた。

「だって、すごく優しくていい人で……王子様みたいだったから……」

 実優の回想が一通り終わった後、詩織は口を開いた。

「じゃあ、きっと信也さんが助けてくれてるんだと思う!そんないい人なんだから!」

詩織の笑みに実優は再開したときのような満面の笑みを浮かべた。

「うーん………、ほんとかなぁ?」

 論理的な根拠に欠けていたためか、詩織の力説を実優は信じ切っている様子ではなかった。だが、笑顔を見せてくれたのは、悪い気はしていなかったからやもしれない。

 「でもね、私、死んでも人の魂というか、人を思いやる気持ちって消えないって思ってるんだ。だから、そういうことが起きてもおかしくないかなぁ、なんて考えたりしちゃうんだよなぁ」

ふと、そんな言葉が詩織の口から溢れた。

「なんか……ロマンチックだね」

実優の感想に、お父さんの言葉の受け売りだけどね、と照れながら詩織は付け加えた。

「でも、人にそういう失くならないものがあるから、人は人を大切にできるんじゃないかなぁ………なんてね」

ちょっと変な言い回しだったか、と多少心配はあったが、それでも実優は笑顔を崩すことはなかった。

「……私、信也のお墓参り行ってみようかな。最近行けてなかったから」

そんな実優に、詩織は心地の良い安心感を抱いていた。

「いいんじゃないかな!信也さんも喜んでくれるよ!」

向き合う二人の笑顔は、あたたかな心の発露のようであった。





 「いらっしゃいませ……なんだお前か」

せっかくなので立ち寄った喫茶たかいわのドアを開けて詩織が初めて聞いた文句だった。

 そこには、喫茶たかいわのエプロンを下げた神崎刃が居座っていた。

「なんであなたがここに?!」

当然詩織は驚いたが、刃は意に介さなかった。そんでもっていつもの通り、高岩がキッチンから顔を出した。

「あぁ彼ね。生活費が足りてないみたいだからここで働かせることにしたんだ。ついでにここに住まわせるよ」

 高岩曰く、刃は颯爽とネクロと戦う裏で貧窮に悩まされており、この街に来てからは野宿で夜を過ごしていたらしい。更には財布もそこを付きかけで、ここ三日ほど何かしらの食べ物を食らっていなかったのだとか。そんな状況で命がけの戦いを繰り広げるのは流石に無理があるということで、上記の発言のようなことになったのだという。

 霊装武士という半ばファンタジーな職種を高岩が信じたのは、ネクロ被害者の匠海が説得してくれたのだろうということにして、霊装武士としての給料だけじゃやってけないのかとか、今までよく戦ってこれたなだとか、疑問は尽きなかった。

 「ちょっと。お客さんの前でそんな固い顔しない。口角を上げるのよ。ほら」

説明を聞き終わった後、将暉が刃に近づき、刃の唇の両端を無理やり上に挙げさせた。一応笑みは出来上がったが、刃はすぐに将暉の指を剥がした。

「変な真似をするな!」

刃の怒声に悪戯っぽい笑みを浮かべた将暉が言った。

「待てって。ここで働くのを提案したのは俺なんだぜ?生命線を繋いだ命の恩人に対してそれはないだろうよ」

「それが余計なんだ!第一!なんでお前が俺の生活事情を知ってる?!」

刃は牙を見せ吠えたが将暉は動じなかった。

「興味のあることはとことん調べなきゃ気が済まないたちなのよ。さぁ!接客接客ぅ!」

 将暉は詩織をもてなすように刃に催促した。刃は不服そうな表情を浮かべ席に座れ、と一言詩織に言い放った。





 詩織にお墓参りに行くと宣言してから数日が経過していた。仕事で時間が取れなかったのを悔やみながらも、実優は一人、信也が眠る集団墓地へと車を走らせていた。カーラジオからは、リクエストソングの名目でボズ・スキャッグスの『we are all alone』が流れ出していた。

 洋楽にはいかんせん疎い彼女であったが、この曲はよく知る曲であった。いや、よく知る、で形容できるものではなかった。それは、実優と信也の、ほんの少しだけ遅れた、青春の象徴であった。

 この曲は信也の、実優に対する気持ちをそのまま表した曲だ。二回目のドライブデート。せっかくだから家まで送っていくと、妙に信也が格好つけている中、たまたまカーラジオからこの曲が流れたとき、彼はそう照れながらも話してくれた。そんな信也の一言は、今でも実優の脳裏に強く焼き付き、冒頭の流れるようなピアノ・ソロと共に再生される。生きている彼の笑顔と共に。大層な出来事はなかった二人の時間が、ゆったりと盛り上がり、そして消えていく。それが愛おしく、懐かしく、悲しくて。視界があたたかく歪んだ。

 ありがとう。これといったこともなく、お墓参りを終えた時、信也の優しい声音が聞こえたような、そんな気がした。しかしながら、後ろを振り返っても、横を見ても、人っ子一人居らず、昼下がりの太陽に照らされた墓石のみがどこまでも広がっているだけだった。

 罰当たりな表現ではあるが、怪奇現象とも言えるそれを前にしても、不思議と実優は穏やかに満たされていた。そして、青空に溶けていったその言葉を、深くその心で抱きしめていた。










 つくづく時が過ぎるのはあっという間で、実優がお墓帰りの買い物を終える頃、外はすでに黒い闇に覆われていた。白い光が等間隔に並ぶ帰路を実優は進み続けていた。

 詩織との会話や、墓参りを通して実優は、これまでの視線や不可思議な交通事故回避の理由を確信できるようになっていた。その確信は、実優の中でぬくもりを帯びている。

 「やっぱり信也だったのかな……」

彼女の右斜め上のあたりに輝く星に焦点を定め、実優は呟いてみる。勿論、返答が帰ってくるはずはなく、当然なる静寂が淋しい帰路に横たわっているだけだった。

 だが、切なさは無かった。また信也と会える。そんな気が実優はしていた。その時は、信也にどんな事を話そう?信也の近況、自分のこと、今まで伝えきれなかった愛情。キスでもしてみようかな。

 流石にそんなには無理か。空想から実優が現実に帰ってきた頃だった。

 突然、黒い影が彼女の首に絡みついた。背後から伸びてきたものだ。余りにも瞬間的な出来事だった故に、彼女は窒息からなる痛みと共に、状況の異常さに気づいた。そんな事を考えている間にも、彼女の背中全体に、気持ちの悪い質量が襲いかかってくる。そして、耳元には必死さと興奮の混じった生暖かい吐息。

「……ぁ!やめてっ!」

 反射的に拒絶行動を取る実優。しかし、突然男に襲われた時の対処法なんて知らないわけだから、質量に対する肘を使った殴打なんざ虚しいほどに効かなかった。

「やめろ!暴れるなぁ……!」

 ザラザラとした声音に押さえつけられ、近場の暗い路地に連れて行かれる実優。見知らぬ恐怖。予測できない心情。信也、と心の中で彼女が叫んだのは言うまでもない。




 実優の叫び声が信也を呼び起こした。そこに、自身の墓石も、青空もなかった。

 直様周りを見渡す。そして、遠くに実優ともう一人、見知らぬ男が立っていた。実優を壁に押し付け男が実優の背中に覆いかぶさるといった形の体制だった。

 男の手は丁度、実優の胸を鷲掴みにしていた。羞恥と恐怖が入り乱れた表情を実優は浮かべている。やめて……やめて……と泣き叫ぶが、男は彼女の胸に対する淫乱な行為を止めることはなかった。

 男の右手が彼女のスカートの中にいやらしく入り込む。やめろ、実優が穢される。俺の、実優が。身体が熱くなる。炎で全身を炙られるようだ。だが、こみ上げる黒く、またしても熱い何かが彼から苦痛を取り除いてくれた。

 苦悶の表情。男の汚らしい興奮。許さない。許さない………

「やめろぉぉぉぉぉぉっ!」

 こみ上げる何かを吐き出すかのごとく叫んだ信也は男に向かって走り出した。その姿はみるみるうちに人ならざる姿へと変わっていった。その右手には鋭い両刃の剣が握られていた。

「うおぁぁぁぁぁぁぁっ!」

剣が男の脇腹に突き刺さった。まだ終わらない。倒れ込んだ男に対し何度も憎悪の鉄槌を下す。

 終わらない興奮。そして、信也は空いた男の腹に食らいついた。これは彼にとっては本能に従ったまでだった。

 すべてが終わった後、人間の姿に戻った信也は壁に背を押し付けた実優の姿を目に映した。その顔は小刻みに揺れており、涙を浮かべた瞳は焦点が定まっていないようだった。

 実優……、と口に出した刹那、彼女は遠くへ走り去っていった。その背中は闇に呑まれていく様に消えていった。










 深夜二時を回った頃であっても街灯の明かりは灯ったままで、さして不便ではなかった。そんな街灯の下に将暉は会うべき男の姿を見出した。

「暁の件は、うまく言ってるのかい?」

 男、左介は近づく将暉に問いかけた。

「とりあえず、俺の目につく所にキープしておいた。あの女と一緒にね」

将暉は脳内に詩織の顔を浮かべながら答えた。左介は満足そうに笑みを浮かべた。

「いいね。それなら霊術の実験も簡単に進められる」

「ネクロの血の浄化ね………」

 左介の霊術の実験という言葉に、将暉は思い出したかのようにそう呟いた。そのとおり、と左介は言った。

「あぁ。人間にネクロの血が流れている例は稀だけど、試しておいて損はないはずだ」

 左介は考察を話したあと、ポケットから小さめの正方形の紙を取り出した。折り紙の様にも見える。そして、左介は右手に持った短刀の刀身に紙を擦りつけた。

 霊短刀と呼ばれるその短刀は霊道士の基本装備である。刀身には霊力が込められており、霊道士の能力によって霊力を解放することで様々な芸当を行うことができる。

 紙は薄紫の光を帯びると瞬時に鶴の形に変化し、何処かへと飛んでいった。

「こいつが暁の居場所をお前に教えてくれるはずだ」

折り鶴が飛んでいった方向の空を見上げ左介は説明した。同じく空を見上げた将暉は世話になる、と一言呟き、左介の元を去った。

 去り際、将暉は左介の方を振り向き問いかけた。

「同族殺しは気が引けるか?」

少しの沈黙の後、左介は口を開いた。

「時が来たら、罪は償うつもりさ」

将暉は笑みを浮かべるだけだった。そして、今度こそ左介の元を離れた。





 「恨みはしっかりと晴らせよ。その方がこちらとしては得ができる」

左介の身体を冷たい夜風が吹き抜けた。彼の皮膚を泡立てるには足りなかったが。






 深夜二時四十五分を回った頃、詩織の携帯が彼女の鼓膜を震わせた。原稿用紙を前にして現実と夢を知らぬ間に行き来していた詩織は、直様現実に意識を戻されることとなった。

「こんな時間に……誰ぇ……?」

携帯を取る。画面には『みーちゃん』と書かれた白文字と彼女のアイコンが表示されていた。

 とりあえず電話越しにもしもし、話しかけた。

「信也が………信也が……おかしくなっちゃった……」

嗚咽混じりの実優の声に事の異様さを詩織は感じることとなった。

「何があったの?!」

「とにかく家に来て!怖いのぉ………!」

詩織の問いかけに答えることなく実優は変わらない調子で催促した。悪戯か何かの類ではないと思えた。実優そういうことを好む人物ではないからだ。

 ここから実優の家までだいぶ近場だった。いつものカフェよりも近いはずだ。詩織は直ぐに玄関のドアを開け身を外へ繰り出した。自宅マンションの近くの木の葉が冷たい風を受け、不気味なBGMを奏でているようだった。






 ネクロ討伐の任を受けた刃は深夜の車道をバイクで疾走していた。最初は自分ひとりかと思われていたが、やがてバックミラーはヘッドが白いバイクにまたがった人物を映した。細身のボディから、オフロードバイクだと思えた。

 突然だった。例のオフロードバイクがエンジン音を響かせ、速度を上げたのだ。当然車間距離は縮まる。オフロードバイクの前輪と刃のバイクの後輪が衝突するスレスレの場所で、オフロードバイクは反対側の車線へ移動。そして刃を追い越した。妙な蛇行走行で行く手を塞がれた後、オフロードバイクは速度を上げ、刃を引き離した。更に急な方向転換。真っ直ぐ刃の方向へと走り出した。

「奴……何が目的だ?」

ノウンの問いかけには応じず、刃は迫るオフロードバイクを見つめた。

 近づく距離。しかし正面衝突することはなかった。オフロードバイク特有のバイクジャンプで、刃の頭上を跳び、反対側へと着地したのだ。

 「貴様!なんの真似だ?!」

オフロードバイクが走行を止めたのを見て刃はヘルメットを外し、叫んだ。オフロードバイクのライダーもヘルメットを外した。

「せっかくだから遊ぼうぜ。神崎……」

ヘルメットの下には、鈴鹿将暉の顔があった。

「どうやらルール御無用のようだな」

ノウンが応じた。ルールとは恐らく、霊装武士同士の戦闘の禁止を指すのだろう。

「俺は貴様と遊んでいる暇はない。俺につきまとうな」

ノウンの後に刃は言い放った。そして、ヘルメットをかぶり終えた頃だった。

 オフロードバイクの将暉がバイクをこちらに向かい、走らせてきたのだ。

「分らず屋ッ!」

見かねた刃もまた、アクセルを捻る。

「あまり時間をかけるなよ!」

ノウンの忠告を聞き終えた刃は、冷たい風を浴びながら

「霊装!」

と叫んだ。フラッシュの後フレイムチェイサーにまたがった暁が現れた。

「そうだ。そういうのを待ってたんだよ………霊装!」

暁の姿に満足した将暉もまた叫んだ。そして、将暉は雅に、バイクは霊装馬進『ボルトチェイサー』には変化した。ヘッドライトの両横に一門ずつ、ガトリング砲が拵えられていた。

 ボルトチェイサーの銃撃。着弾し火花を上げる暁。だが、走行を止めることはない。フレイムチェイサーの刺突攻撃。位置は問題なし。しかし、バイクジャンプで回避されてしまう。ボルトチェイサー方向転換。後輪と地面が擦れて火花が舞う。

 再び銃撃。そして距離を詰める。姿勢を低くした暁は迫ってきた雅に蹴りを与えた。ハンドルを支えに飛び上がり、蹴りの後に素早く椅子に座る。高等アクションだ。

 足止めにはなったが、やがて暁と雅が並んだ。パンチの応酬。しかし、暁の伸ばした腕が雅に受け止められ、暁の動きが止められてしまった。

「こういう戦いも!悪くないだろ?」

その言葉とともに、雅は暁を投げ飛ばした。反対側の車線に投げ出される赤津。

 しかし、構うことなく雅が迫る。ガトリングを喰らいながらも構えをとった暁は、雅を引き付け跳び上がった。

「エイヤァァァァァァッ!」

炎を纏ったジャンプキック。雅の顔面にヒットし、雅をバイクから転がり落とした。

 立ち上がった雅と暁が対峙した。

「本気になっちゃって。そんなに詩織ちゃんが大切なの?」

雅は暁を見つめそう問いかけた。少しの静寂が空間に蓋をしたが、やがて暁は口を開いた。

「もう後悔したくない………。訳の分からない運命で苦しむ人間を、俺は救いたいんだ!」

あの日がフラッシュバックする。悲しげな、笑みを、浮かべた、少女。剣が、彼女の、身体を………

 だが、雅から帰ってきたのはため息だった。

「ほんとしらけるのよね。そういう事言われると」

ため息の後の一言に暁は怒りの念を感じることとなった。

「詩織ちゃんのことはお前に近づくための建前だ。あの子は後でちゃんと助けるよ。お前を殺したあとにね」

雅が跳躍した。暁の頭上を飛び越え、ボルトチェイサーに乗り込んだ雅はそのまま走り去っていった。






 家にたどり着くよりも前に、詩織は実優の姿を見ることとなった。目には涙を浮かべている。恐るべき何者から逃げてきた、といった体だった。

「詩織ちゃん………」

「とりあえず乗って!」

恐怖心に支配されている実優に詩織は自身の自転車の荷台に乗るよう言い放った。家の中でも苦しそうな信也のうめき声やポルターガイスト現象が起きたことを聞いた詩織は、何とか実優の家から離れようと模索していた。

 それが起きたのは、自転車を走らせてから数分後だった。実優が前方を指差し、あれ……、と蚊の鳴くような声で呟いたのだ。見ると、街頭による逆光で、全身が黒い人物のシルエットがあった。距離が遠いゆえに少し小さく見えるその人物は体つきから男性と考えられた。右手には検定のようなものが握られていた。

「信也だ………」

 実優が恐怖の声音を滲ませた直後、その信也は剣を横に振るった。寸暇も置かず、凄まじい風圧を二人は感じることとなった。

 自転車から吹き飛ばされ身体を起こそうとしたときには、信也はすぐ目の前まで迫っていた。

「信也!やめて!」

実優は必死の形相で叫ぶ。よくよく見ると、信也も苦しそうな表情だった。自身からこみ上げる何かを堪えるかの如く。

「実優………ぬァァァァァァッ!」

 やがて咆哮を上げた信也の姿はカメレオンを模した怪人に変身した。中世の騎士甲冑を思わせる意匠が各部に施されていた。

「アァッ………ヌガッ……ガァッ……」

悶ながらも、信也は実優の元へ迫る。肝心の実優は腰を抜かしてしまったようだった。

 信也が剣を振り下ろす、その時だった。

何者かが信也に衝突したことにより、信也が大きく後ろへふっ飛ばされたのだ。実優の上空には空飛ぶバイク。そのバイクから鎧戦士が飛び降りた。

「神崎さん!」

 もはや見慣れてしまった暁の鎧を視覚した詩織は叫んだ。暁は構わずにバックルから刀を取り出した。

 「奴はネクロ『ガメナト』。覚醒して間もないネクロだ。幸い、人間もあまり食べてないようなので、弱っている状態だ」

ノウンの解説の後に暁は刀を構えた。それはガメナイトも同じだった。

 暁とガメナイトが剣を交えた。飛び散る火花。袈裟懸けに切ろうとする暁の剣戟をガメナイトが自身の剣で防ぐ。ガメナイトの斬撃は姿勢を低くした暁によって回避される。一進一退の攻防。

「アァァッ!」

 うめき声の後、ガメナトが姿を消した。

「どこに行った?!」

暁がうろたえる。次の瞬間、暁の背中から火花が舞い落ちた。次々と火花を浴びる暁。

「奴、透明になっているのだ!気を付けろ、刃!」

ノウンが分析結果を言い放った。

 透明の相手の攻略。動きを止めるには……

火花が暁の右頬から放たれた。頬に剣が交わった証拠。この瞬間……!

「そこかっ!」

暁が頬から少し離れたところに拳をおいた。それは何かを掴んだようだった。そして、拳をこちらに引き寄せた暁は、空に向かって刀を振るった。バシュゥッ、という斬撃音の後、ガメナトの姿が現れた。暁が掴んだのは、ガメナトの剣だった。腹部に切り傷を戴き、もがき苦しんでいる。

「ハァッ!」

 間髪入れず暁の刺突攻撃がガメナトを襲う。刀を引き抜いた暁の背後で、ガメナトが叫び声と共に倒れ込んだ。

 トドメを刺そうと、暁が振り上げた刀はやめて、という悲鳴によってとどまることになった。その後に、一人の女性がガメナトの横に座り込んだ。

「何をしている?!奴から離れろ!」

暁の怒声にも女性は動じなかった。後ろに控えていた詩織が実優ちゃん………、呟いたことから、この女性は実優という名前であることが推察できた。

 「信也………ごめんね………私、あなたの優しさが、今わかったよ……」

涙に震え、実優はそう訴えた。俯いた彼女の瞳から雫が、ぽたりとこぼれ落ちた。そして、その涙が甲冑を溶かしていった。やがて、信也が甲冑の下から現れた。

「泣かないで………実優には………笑っててほしい……」

信也の手が実優の頬に触れ、その涙を拭った。そして、信也は微笑んだ。

「実優………ごめん……こんなことになっちゃって。でも、君の側に入れて、俺は幸せだったよ……」

「わたしも!………私も信也に会えて良かった!……だから死なないで!もっと………、私の側に居てよぉっ!」

愛する者から懇願されても、彼女は笑顔には決してなれなかった。しかし、止めどないその瞳から描かれた一筋の涙を眺めた信也、ガメナトは彼女から目を逸らしゆっくりと立ち上がると、暁に向き直った。

「頼む、俺を斬ってくれ……」

え……、と実優から声が漏れる。しかし、ガメナトは言葉を続けた。

「この姿でいると、どうしても人を襲いたい、食べたいという欲求から逃れられないんだ。そうしたら、実優を……他の人を傷つけてしまうかもしれない」

「そんな……信也……」

実優が俯いてしまう。決まりの悪そうにガメナトはその様子に目を落とした。だが、再び暁を見るなり、

「これ以上、俺は彼女を悲しませたくない。だから……頼む……」

沈黙が、鈍痛を伴う重石となって、辺りに広がっていく。誰も、何も喋れなかった。

 「………わかった」

その空気を破ったのは、他でもない暁だった。静かな響きを持った声だった。

 ゆっくりと刀を振り上げたのは、哀愁から来る躊躇いの為だったのだろうか。だが、それは直ぐに風を切る音と共に、ガメナトの身体を袈裟懸けに引き裂いた。

「信也!」

実優が絶叫する。その目線の先で、温かな光に包まれたガメナトの鎧然とした身体が煙となり、やがて信也の姿が現れた。

「大丈夫………君のそばに、いつも居るから……」

 それが遺言とも言える代物だった。大粒の涙を零す実優の前で、金色の煙となって、信也は闇夜の空へ、旅立っていった。






 再び、静かな風が場を駆け抜けるようになった。独り、嗚咽をこぼす実優の肩を抱く詩織に背を向けた刃は、そのまま歩き出した。冷たい風が頬を覆う。

「ネクロに成ってしまった時点で、元の霊体に戻る事は、不可能だ。だが、最後に人間の心を失わなかっただけでも、奴は幸せだったのかも知れない」

 詩織達の姿が見えなくなったあたりで、ノウンはそう漏らした。

「死んで人が幸せになるものかよ……」

刃の返答は、確かな無念の色が混ざっていた。

 闇夜は、あいも変わらない様子で、そこにあった。が、静かに頬を撫でる風の中に、微かながらも歌声が聴こえたのは、実優の嗚咽が少しばかり収まった時であった。

「we are all alone。1976年のボズ・スキャッグスの曲、か」

再びノウンが口を開く。どういう理由かは把握しかねているが、洋楽に精通しているノウンならではの文句だった。

「……信也が、………好きな曲だったんです…………」

嗚咽に紛れ、実優がそう口にしたのを、刃は確かに聞いた。罪悪感。頼まれたとはいえ、ネクロだったとはいえ、誰かの大事な人を斬ってしまった罪悪感。それをより強く実感した刃は、静かに奥歯を噛み締めた。自分が嘗て経験した悲しみに近いものを、他人に味あわせた罪は、彼の中で非常に大きなものだった。嘗ての悲しみを、語ることはできない。それだけ、掻き消しておきたい過去だったからである。

 誰も何も言えない空気を変えたのは、ノウンだった。

「この曲は遠く離れた恋人に対して、離れていても独りではない、我々は常に一緒だ、と言い聞かせる音楽だ。だが、そのシチュエーションは、死んで幽霊になった者が、死を悲しむ恋人に投げかけた曲、としても解釈できる」

徐ろに、実優が顔を上げる。その瞳は涙で揺らめいている。

「信也の魂は、最後の力を振り絞ってこの音楽を、彼が伝えたかったメッセージを届けている。その意味は考えるに値すると、私は思う」

 ノウンが話し終えたのを察し、刃は背を向け、その場を去った。彼女は、カックリ首を下ろすと肩を小刻みに震わせ、そんな彼女を詩織が抱きしめる。申し訳ないので長くは見れなかったが、ふと振り向いた刃の視線には、上述した光景が繰り広げられていた。

 見ず知らずの彼女が、どのような人生を歩むのか。当然ながら、刃には分からなかった。その瞳は俯き涙を流すのか、前を見つめ雫を拭うのか。知り得ない話であった。ただ、今日起きた一連の出来事を忘れることはないという、至極真っ当なことだけは、確信していた。

 風の冷たさに、気づいた。







外は雨が降り出した

しばらくは止みそうにない

それ以上泣かないで

夢が二人をきっと

広い海へ連れ出してくれる

永遠の世界へと







 詩織が、意外な出来事に遭遇することになったのは、例の事件から一ヶ月が経過した後だった。

 喫茶たかいわに向かう途中、自転車を走らせていた詩織は車道を挟んだ反対側の歩道にて、独り歩みを進めるスーツの女性の姿を見た。

「あっ………」

気づいたときには、彼女の手は自転車のブレーキを握りしめていた。鈍いゴムの擦れる音が一瞬響いた後、自転車は止まった。あいも変わらず、詩織は女性の後姿を追う。

 別に、声を聞いたわけでもないし、その顔を拝んだわけでもない。ただ、女性の小さな背中は、詩織に実優、という名前を確信させていた。

 あの夜、無理もないが、彼女は口を利かず、絶望に染まり、嘆きで丸くなった背中を、アパートの中に消した。刺激してしまっては可哀想だ、と連絡を取っていなかった詩織だが、実優が心配でない筈などない。あの日の闇夜がモヤとなって詩織自身の心にもかかっていた。

 しかし、思わぬタイミングで目撃した彼女の背中からは、あの日の悲壮を感じることは出来なかった。欲目で大仰に見えてしまった為かもしれないが、真っ直ぐ伸びた背中は、希望を目指し、喜びを背負っているようだった。そんな彼女を見て、あぁ、大丈夫なんだろうな、と彼女の心は自然と結論づけていた。昼下がりの太陽が、仕事着の彼女を白く輝かせている。その眩しさに負けないように、彼女は歩いていた。




 歩道に走る影が、小気味よく歩みを進めている。それに安堵しつつ、実優はその視線を前へ向けた。 悲しみ、悩んだ時間は膨大なものだったし、未だに心の何処かは、慟哭の坂を下っているようだった。

 しかし、いつまでも悲しみに昏れているわけにはいかなかった。光を見いだせないままだったら、それは、もう取り戻せないあの日を、尽くしてくれた、と言えば大仰になるが、信也がくれた思い出を裏切ってしまうような、そんな気がしていたのだ。

 君のそばに居る。信也の言葉が思い出される。その言葉さえあれば、彼女は進める気がした。思い出を忘れないのは、未練深い訳じゃあない。あの日の彼が与えてくれる勇気は、かけがえのないものだから。

 そんな感慨を抱きながら、青い空の下を歩んでいく。自分に光を差し伸べてくれた、あの曲を風に感じながら。 



 

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