10.クラゲにじゃれつくシャチ
キーラはしばらく、佇んでいた。
やがて彼女はほうと息を吐くと、振り返った。
無言で歩き出すキーラの背後で、武者の上半身が落ちる。バテンカイトスは一撃で左肩の眼球を斬り潰し、そのまま右の脇腹にかけてを切り裂いていた。
蛍光色の血だまりを踏み、キーラはずんずんとオーレリアへと近づく。
「えっ、あ、あ……な、何?」
声もなく接近してくるキーラに、オーレリアは縮み上がった。
「何? 何なの……ご、ごめ、ごめんなさい……本当にごめんなさい……」
わけもわからず、謝罪を繰り返しながらオーレリアはじりじりと後退する。
キーラは彼女の胸ぐらを掴み、そのまま軽々と持ち上げた。
「ひぃ、ご、ごめんなさ……!」
左の瞼のあたりにキスをした。
「へっ?」
軽く噛んだ。
「ぎゃっ」
「――教えてくれ。私に何をして欲しい?」
真っ赤な顔で目元の辺りを押さえるオーレリアを床に降ろし、キーラはたずねた。
群青の瞳は、先ほどとは異なる昂揚感に輝いている。
「君の活躍は実に見事だった。そして、私は思った以上に君のことを気に入っている」
「えっ、えっ」
「君には与えられてばっかりだ。だから、君の願いを叶えてやりたい」
キーラはすっかり興奮した様子で、オーレリアへとにじり寄る。
オーレリアはじりじりと後退し、ついに自販機のところまで追い詰められてしまった。
「――さぁ、なんでも言ってごらん」
ぶるぶると震えるオーレリアを見下ろし、キーラは自販機に手をついた。
見上げるオーレリアは落ち着きなく視線を彷徨わせ、そうして床へと視線を落とす。
「ね、願い、なんて……いきなり、言われても……」
「私は基本的に殲滅担当だったから、君の嫌いな奴を一族まるごと殺せる。――あ、あといろんな所にそこそこ貸しを作ってるから、いろいろとできるよ」
「い、い、いらない……怖い……」
「そうか。でも、私の絵は君の好むようなものではないし……どうしたものかな」
無表情ながらも困った様子のキーラを見上げ、オーレリアは躊躇いがちに口を開く。
「……な、なら、ごはん……」
「ん?」
「ご、ごはん……あたたかくて、おいしいごはんを、また作って欲しいわ……」
キーラはゆっくりとまばたきをすると、無表情で首を傾げた。
「それだけでいいの?」
「じゅ、十分よ……それだけでいいの……」
「ふぅん……まぁ、いいよ。それくらいならお安い御用だ」
キーラはしきりに首を傾げながらも、床に落ちていたジュラルミンケースを拾い上げた。
中に入っていたホルダーにバテンカイトスを納め、腰に提げる。
「でも、こんな場所ではもうロクなものは作れないな……ともかく、上に行ってみるか」
「え、ええ……そうしましょう……」
オーレリアを引き連れて、キーラは非常階段へと進む。
懐中電灯で照らしてみたところ、特に異変はない。敵の姿はなく、そのまま登れそうだった。
クラゲがふわふわと漂い、闇をほのかに和らげる。
ぼんやりと照らされた段に足を掛けたところで、キーラはふと首を傾げた。
「……そういえば、オーレリア。八階に行くまで、誰にも襲われなかったのかい?」
「それが……襲っては、こなかったけど……」
「何かいたの?」
「八階はカラスだらけだったの。それで……あの人がいたわ。二階で、襲ってきた……」
「……あの童子が?」
途中に、八階への扉がある。
オーレリアが慌てて出ていったせいか、開け放たれていた。
キーラはそこから八階を覗きこみ、眉をひそめた。
「……今は何もいないね」
「えっ……?」
オーレリアが眼を見開き、キーラに続いて八階を見る。
廊下は異様な風貌に変わり果てているものの、七階と違って傾斜はしていない。
生物の気配は――ない。
「さ、さっきまではカラスだらけだったわ! 部屋の前に、一羽ずつカラスが……」
「……童子はどこにいたの?」
「あの突き当たりのところ……わたしのことを見たけど、何もしてこなかったの」
「何もしてこなかった……?」
キーラは首をひねりつつ、慎重に八階へと足を踏み出した。
客室の扉が整然と並んでいる。耳を澄ませても、感じるのはあの白い亀裂だけ。
き、ぃ、ぃ、ぃ――キーラは目を細め、唇に触れた。
「……まったく奇妙な奴だな。それに、あんな【色】を私は視たことがない」
あらゆる【色】が混じり合った末の【黒】――。
今は、あの【黒】はどこにもない。八階の廊下は、どこまでも不気味に静まりかえっている。
キーラは首を振り、非常階段へと戻ろうとした。
歩きながら、スマートフォンを取り出して時間を確認する。
「二十時半か。そういえば、さっきは向こうと時間はズレていないようだったけど……ん?」
「ど、どうしたの……?」
非常階段の前で立ち止まるキーラに、オーレリアは不安げな表情でたずねた。
キーラはスマートフォンを見つめ、無表情のまま首をかしげる。
そして踵を返すと、そのまま元来た道を戻り出した。
「ちょ、ちょっと! ちょっと待って!」
悲鳴じみた声を上げ、オーレリアが非常階段から飛び出してくる。
クラゲ達とともにばたばたと追いかけてくる彼女には目を向けず、キーラはずんずんと八階を進む。群青の瞳は、ずっとスマートフォンを見つめていた。
「ね、ねえ、歩きながらスマホを使うのは危ないのよ……怪我しちゃう……」
「この階、少しだけ電波が通じる」
追いすがりつつもこわごわ話しかけてくるオーレリアに、キーラは短く言った。
画面のアンテナは、一本と『圏外』の狭間で点滅している。
「えっ、そ、そうなの? 二階でも通じたわよね」
「ああ。それ以外の階でも小まめに確認したけど、二階以外だと圏外だった」
砕けた陶器の欠片と蛍光色の血を踏みつつ、廊下を曲がる。ヴィジターの死骸を見て青ざめるオーレリアの肩に手を置きながら、キーラは目を細めた。
「二階と八階……電波が強くなる場所に、なにか共通点があるのか?」
進めば進むほど、アンテナが二本に増える回数が増えてきた。電波が非常に不安定ではあるが、強度自体は強くなってきているように思える。
「このまま進めば私達が泊まってる部屋だが――」
その時、スマートフォンの画面が切り替わった。
同時に無機質な電子音とバイブレーションの振動音とが無人の廊下に響き渡る。
「ひぎっ……!」
「落ち着いて。ただの着信だよ」
飛び上がるオーレリアを押さえつつ、キーラは映像通話を開いた。
『……ダメ元でかけてみるものね』
画面に映ったのは、疲れ切ったレティシアの顔だった。
『まさか繋がるとは思わなかったわ。――で? 首尾はどう?』
「まぁまぁ。そっちは?」
『こっちはちょっと……というかだいぶ面倒だわ』
エメラルドグリーンの瞳を伏せ、レティシアは重いため息を吐いた。どうやら歩きながら通話しているようで、画面が上下にぶれている。
画面は全体的に薄暗いが、どうやら屋外であることはかろうじてわかった。
「君はいつでもなんでも面倒がっているじゃないか」
『今回は格別よ』
レティシアはまたため息を吐くと、スマートフォンのカメラを切り替えた。
画面に、暗いアスファルトの道が映し出された。
『――今ね、シドニーと一緒にホテルに向かってるのよ』
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