9.涙とクラゲと出刃包丁
エレベーターのランプは二階で止まっている。
「……階段を使ったほうがいいか」
そうして足を踏み入れた階段に、人影はなかった。
しかし変異はここにも起きていて、壁全体がぬらぬらとした粘膜のような質感と化している。
七階、六階、五階――降りても降りても、奇妙な静けさがキーラを迎えた。
「……他の客はどうなったのやら」
呟きつつ、キーラは二階へと降り立った。
二階――比較的、リーズナブルなカフェテリアやレストランが集まった区画だ。
片側は全面が硝子張りで、そこから外の赤い光が差し込んでくる。
頭上では、電灯が不規則に瞬いている。店の外に置かれた椅子や植物は軒並み倒れ、得体の知れない液体が床をひたひたと濡らしている。
淡々とあたりを見回すキーラの前で、【赤褐色】の音がした。
乾いた血にも似たそれは、死にかけの人間が発する音――瀕死の喘鳴だった。
「い、て、ぇ……」
かすれた声に視線を向けると、そこには飴細工のように捩れた鉄柱があった。
そしてその影に男が立ち、右半身だけを覗かせている。
「なぁ……あたまが……いてぇんだ……ずっと……」
見覚えのある男だった。たしかラウンジで、延々頭痛薬を数えていた男だ。
「みずうみ、きてから……くすり、きかねぇ……」
「……なら、眠ったらどうだい?」
「ね、ねむる、ねむり、ねむ……ネムル……」
よろめくようにして、男は柱の陰から出た。
体の中央が、真っ二つに裂かれている。傷口には、白い錠剤がみっしりと詰まっていた。
「お、おれ、ねむれ、おれ、ねむれ……」
白目を剥いた男が両手を突き出しながら、迫ってくる。
ぼろぼろと錠剤が零れ落ちる。滴る血は左半身は赤く、右半身は黒い。
キーラは半歩引く。つまずき、バランスを崩した男の上体が床へと倒れ込んでいく。
「――そうだ、眠るといい」
その胸に、キーラは揃えた指先を突き出した。
湿った果実を潰すような音とともに、呆気なくキーラの手が男の胸部を貫通する。
おびただしい数の錠剤とともに、赤い血が噴き出した。
崩れ落ちる男の体を、キーラはゆっくりと床へと横たえさせる。
男の目が焦点を結ぶ。自分の胸から手を引き抜くキーラの姿を、彼はぼうっと見つめた。
「あ……ありが、と……」
それっきり、男は何も言わなくなった。
キーラは適当に手を拭くと、開かれたままだった男のまぶたを閉じてやった。
「……礼はいらないよ。私はただの殺人鬼だ」
視界の端で、なにかがちらついた。キーラはばっとその方向に視線を向ける。
「……クラゲ?」
ほのかに光るクラゲが、ふわふわと空中に漂っている。
ゆっくりと浮遊する姿は幻想的で、キーラは思わず状況も忘れて見入った。
敵意は感じない。クラゲはただ、浮かんでいるだけだ。
「不死の怪物、錠剤男、空飛ぶクラゲに……ホテルもおかしなことになっている。到底現実とは思えないな。これはいよいよ、私も頭がおかしくなったのか」
キーラは肩をすくめ、歩き出そうとした。
額にクラゲがぶつかった。
「おっと」
ひんやりとした触感に驚き、キーラは思わずあとずさる。
数匹のクラゲが、キーラの行こうとした先に漂っている。見ていると、クラゲはゆっくりと宙を滑り、ある一方向の廊下に流れていった。
そして、その先で停止する。キーラは額を撫でつつ、じっとクラゲを見つめる。
「これは……」
女の悲鳴が聞こえた。かなり近く――クラゲの漂う廊下からだった。
知っている声だ。キーラは考えるよりも早く、声の聞こえる方に向かって駆け出した。
「――先生! 先生!」
声は、狂ったように泣き叫ぶ。
場所は二階の奥――落ち着いた雰囲気のカフェテリアから響いていた。
『カフェ ロンドン・モーニング』――金文字で記されたガラス扉の向こうから、白い閃光が断続的に走っているのが見える。
ひび割れたガラス扉を蹴り飛ばし、キーラは店内へと飛び込んだ。
そうして眼に入ったのは、吹き飛ばされるナオミの姿だった。
鈍い音を立てて、ナオミの体は丸い木のテーブルを砕きながら落下する。半ばほどから千切れかけた首から流れる血が、たちまち周囲を赤く染め上げた。
「ナ、ナオミ、先生……」
悲痛な声に、キーラは視線をそちらに向ける。
オーレリアが、床に座り込んでいた。周囲には、あの青く光るクラゲが無数に飛んでいる。
そして彼女の前には、エプロンを纏った肉の塊があった。
白っぽい肉が動くたびにぶるぶると震え、汚れたエプロンが食い込んでいる。ナメクジに似た胴体からは細い腕が伸び、大振りな包丁を二丁握りしめていた。
光が揺れる。肉塊の怪物に向け、クラゲ達が突進する。
ぶよぶよとした体表に、クラゲ達は果敢に体当たりをしかけた。
しかし肉塊の怪物が鬱陶しそうに手を祓うと、それだけでパチパチと弾けて消える。
オーレリアは、動こうとしない。呆然とナオミを見ている。
全てのクラゲを掻き消して、肉塊の怪物が包丁を振り上げた。
キーラは口笛を吹いた。
途端、全ての視線が彼女に集中する。
オーレリアの潤んだ瞳が、キーラを映す。肉塊の怪物が、ゆっくりと振り返る。
「……やあ、店長」
潰れた豚に似た怪物の顔に向かって、落ち着き払ってキーラは話しかける。
「閉店の時間だ。とっとと死んでくれないか」
肉塊の怪物は金切り声を上げ、包丁を振りかざした。
ずるずると音を立て、想像以上の速度で肉塊の怪物が迫ってくる。振り払われた包丁をキーラはあっさりと回避すると、そのまま怪物の掌に蹴りを叩き込んだ。
骨の砕ける感触が靴底越しに伝わってくる。
悲鳴をあげ、肉塊の怪物が一本の包丁を取り落とした。
間髪いれずに叩き込まれる斬撃をすり抜け、キーラはすかさず落ちた包丁の柄を掴んだ。
鉈にも似たそれを、キーラは片手で軽々と振るう。
金属音とともに火花が飛び散り、肉塊の怪物の振り下ろした包丁がたやすく弾かれた。
「よいしょっと」
バランスを崩した怪物めがけ、キーラは包丁を振り上げた。
ざっくりと斬れた。たるんだ腹から首を裂かれ、下顎を砕かれた怪物が崩れ落ちる。
「だ、だ、だめ……!」
か細い声が聞こえた。
視線を向けると、床に座り込んだままオーレリアが激しく首を振っている。
「そ、それじゃ、ヴィジターは殺せないの……!」
「へぇ、こいつらヴィジターっていうのか」
淡々と答えつつ、キーラは包丁の切っ先を怪物に向ける。
肉の塊が、小刻みに痙攣している。出来損ないのババロアのようなその体が見る見るうちに再生していくのを見つめつつ、キーラは目を細めた。
「名前を知ってるということは、殺し方も知ってたりするの?」
「わ、わたしじゃ、た、倒せない……!」
「君はやらなくてもいい。私が殺すから」
怪物の手が、床から浮く。
それを踏み潰し、キーラは怪物の首を刎ね飛ばした。しかし、すぐにその断面からぶくぶくとピンクの泡が吹きだす。すでに再生が始まっているようだった。
「――それで? どうやったら殺せる?」
問いかけても、答えはない。オーレリアは青い顔で、がたがたと震えていた。
キーラは小さくため息を吐きつつ、片手の骨を鳴らした。
「まぁ、いい――ならば、少し時間をかけよう。さっきみたいに何回か潰せば……」
視界の端で青い光が走った。
見れば、あの空を飛ぶクラゲがすぐ傍で浮いている。
それはぼんやりと光りながら、滑るようにしてキーラの握る包丁へと近づいた。
そして包丁に貼り付き――吸い込まれていった。
途端、錆び付いた包丁の表面に青い光の紋様が無数に浮かび上がる。
「……美しい」
赤い錆の向こうで瞬く青い光に、キーラは思わずため息を漏らす。
「そ、それで……」
かすれた声に、キーラは視線をオーレリアに向ける。
オーレリアは哀れなほどに震えながら、何度も小さくうなずいてみせた。
「そ、それで……ころせ、ます……」
それでころせます――それで殺せます。
キーラは、笑った。
「……よろしい」
曝け出されたギザギザの歯に、オーレリアがひっと息を飲む。
肉塊の怪物が、わめき声とともに起き上がった。再生した頭部からよだれを散る。甲高い咆吼に、膨れた肉がゼリーのように震える。
怪物はそのまま腕を振るい、勢いに任せて包丁を
「実に、よろしい」
瞬間、怪物の体が大きく震えた。
黄ばんだ眼を動かし、割れた唇を戦慄かせながら、肉塊の怪物は己の胸元を見下ろす。
汚れたエプロンの中央を、青く光る刃が貫いていた。
振り向きすらせず、キーラは肉塊の怪物に己の包丁を突き立てていた。
「まったく以て、よろしい」
満足げな囁きとともに、青く光る包丁がずぶずぶと肉に沈んでいく。
肉塊の怪物は二度、三度と痙攣する。握っていた包丁が、音を立てて床へと落ちた。
「――さて、さて、さて」
歩き出すキーラの背後で、轟音とともに肉塊の怪物が床へと倒れ込む。生っ白い肉を伝って、蛍光色の血液がだくだくと床に溢れ出した。
「改めて、自己紹介といこうか」
軽く手を拭いつつ、キーラはオーレリアの前に膝をついた。
「私はキーラ・ウェルズ。しがない画家だ。――君の名前は?」
「わ、わたし……わたし、は……」
オーレリアは震えながら、落ち着きなく視線を彷徨わせた。
キーラ、怪物――そして、残骸に埋もれているナオミの死体を、オーレリアは見る。
途端、堰を切ったようにその瞳から涙が零れだした。
「オーレリア……ティアフォード……メイジ……魔法を、使うもの……」
しゃくりあげながら、オーレリアは名乗る。
そしてキーラが何かを言う前に、彼女はついに声を上げて泣き出してしまった。
「オーレリア……ッ、そうッ、そうッ、わたし……!」
泣き声の切れ目で、オーレリアは喘ぐようにして言葉を続けた。
「最弱の……魔女……!」
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