8.幻覚の園へ落ちる

 き、ぃ、ぃ、ぃ――相も変わらず嫌な音が響いている。


 キーラは眉を寄せつつ、冷蔵庫から52ヘルツを取り出した。

 プシュッと小気味の良い音を響かせながら蓋を開け、渇いた喉を炭酸で潤す。

 そして、スマートフォンを耳に当てる。


「――シドニー。君、死なない人間って見たことあるか?」

『僕はない。でも、そういう奴が紛れてるって噂は何度か聞いたことがあるよ』

「へぇ、噂か」

『うん、噂だ。なんでもさぁ、時々どうやっても起き上がってきちゃう奴がいるんだって』


 斬っても、撃っても、殴っても、無駄。

 火も、毒も、電流も、無意味――そんな生物が、時々人に紛れ込んでいるという。


「殺人鬼としては面倒くさいことこのうえないな……」

『まったくだ。正直与太話として聞き流してたから、詳しくは知らないや』

「……確かに、にわかには信じがたい」


 キーラは嘆息し、再び52ヘルツを飲んだ。

 柑橘の甘み、キナの苦み、海塩の香り――それらを一気に流し込んで、床を見る。


「でも……たった今、出くわした」

『へぇー。そりゃおもしろい。――で? それ、どうしたの?』

「殺したよ。当然」


 キーラの無機質な瞳には、奇妙な肉塊が映っていた。

 床に倒れたそれはあちこちが断たれ、剥がされ――ただの蛍光色の物体と化している。


「三十分くらいかけて処置したら、途中で急に動かなくなった」

『うへぇ、三十分!』


 シドニーの悲鳴がきぃんと響く。キーラは反射的にスマートフォンから一瞬耳を離した。

 レティシアにも聞こえたのか、『何? 何の話?』と小さな声が聞こえた。


『忙しい現代の殺人鬼にとっては面倒な標的だ。絶対に関わりたくない。……というかさ。別に不死でもなんでもなくて、単に君の殺しが下手だったんじゃないのぉ?』

「……下手? シドニー、一体何を言っているんだ?」


 群青の瞳が針のように細められた。鋭利な歯が、感情のない声を紡ぐ。


「私は殺戮で、殺戮は私だ」


 一瞬、沈黙があった。やがて、押し殺した笑い声が電話の向こうで響き出す。


『こっわぁ……久々にちょっとゾクッとした』

「あまり人を煽るんじゃないよ。――問題は、こいつが何かってことだ」


 キーラは床にしゃがみ込み、蛍光色の塊をしげしげと眺める。

 人体の構造を熟知しているキーラにとって、侵入者の身体は異様なものにみえた。


「まず口がおかしい……肉食の虫みたいな形だ。それにこの血の色……まるで蛍光ペンのインクみたいだ。どうにも生物とは思えない色だよ」


 赤髪を指先でいじくりつつ、キーラは思案する。


「なにより気になるのは、この私があっさりと背後をとられたということだ」


 ドアも窓も施錠されていて、他に侵入できるような経路はない。

 なにより、キーラの感覚は鋭敏だ。優れた聴覚は、人間の可聴域外の音さえも聞き取る。

 そして――超人同士の殺し合いで培った第六感。


「途中まで完全に気配がなかった……こいつ、もしかしたら人間じゃないのかもしれない」

『あるいは、君の腕が鈍ったとかぁ?』

「……君さぁ」


 いちいち煽らないと喋れないのか。ため息を吐いた瞬間、奇妙な振動を感じた。


「っ……地震……?」


 スマートフォンを持ったまま、キーラはとっさに身構える。

 建物全体が大きく不規則に揺り動かされ、壁と柱が悲鳴のような軋みをあげる。


『え、おい! キーラ! どうしたんだ?』

「地震だよ。わからないのか」

『え、地震? 何を言ってるんだ? 全然揺れてなんか――!』


 不意に強い光が部屋に差し込み、キーラは顔をしかめた。

 赤い光が、窓の向こうで揺れている。炎とも夕日とも異なる光だ。それが視界に入った瞬間、キーラは何故か臓腑に触れられるような不快感を感じた。

 そして、先ほどの高音とは異なる不快な音が聞こえた。

 テープを早回ししているような声。黒板に爪を立てるような音――それら全てをない交ぜにしたような得体の知れない異音が、周囲を包み込む。

 パレットをぶちまけたような【色】が、視界を苛んでくる。

 脳髄さえ犯すような音と【色】に、さすがのキーラも頭を押さえた。


「一体、何が起きてる……?」

『――キーラ! 何があったの?』


 耳元でレティシアの鋭い声が飛ぶ。

 シドニーからスマートフォンを奪い取ったらしい。


『状況を説明して。私達の方はまったく揺れてないわ』

「それはおかしいな。こっちは今にも建物が――」


 片耳を押さえつつも、キーラはなんとかレティシアに答えようとする。

 しかし言い終わる前に、浮遊感を感じた。

 レッドサン・パレスホテル全体が、どこかに落下している気がした。

 キーラはとっさに近くの柱をつかんだ。けれども周囲を見てみると、部屋に置かれた家具などは揺れてはいるものの浮遊する気配はない。

 つまり、落下などはしていない。――なら、この浮遊感は一体何か。


「何だ……?」


 衝撃を感じた。同時に、奇妙な浮遊感が消える。

 とっさに体を低くしたものの、キーラはすぐに体勢を立て直した。

 揺れが止まっていた。

 スマートフォンからは、無機質な電子音だけが聞こえた。

『圏外』の文字が浮かぶそれをひとまずテーブルに置き、キーラは窓に近づいた。


「……これはこれは」


 風景が一変していた。

 変わらず湖があり、町並みがあり、駐車場があり――けれども、色彩が狂っている。

 明るい場所はマゼンタ、暗い場所はシアン。

 南国の夕空を思わせる赤紫の空には、薄青い雲が筋状に漂う。そして中央には、巨大な赤い天体が浮かんでいた。ゆらゆらと揺れるそれは、月か太陽かもわからない。

 その光の下で、サンセットレイクは血を湛えた湖のように赤く染め上げられている。


「……興味深い」


 キーラは無表情でうなずくと、カーテンを閉めた。

 そしてライダースジャケットを羽織ると、隅に置いていた荷物に手を伸ばす。

 メッセンジャーバッグを開け、中身を確認する。

 小さな懐中電灯、万能ナイフ、応急処置セット、ダクトテープ、ライター、スキットル。

 そして簡易な水彩画セットと、彫刻刀。

 およそどう見ても旅行用ではない物品達の中で、最後の二点だけが浮いている。

 キーラは、そこにさらに色鉛筆とスケッチブックを押し込んだ。

 メッセンジャーバッグを肩に担ぐと、キーラはふと置いていく荷物へと視線を向けた。

 大きなシートバッグと――黒いジュラルミンケース。

 ハンドルもフレームも黒一色のそれは、その薄さのわりに奇妙な存在感を放っていた。

 見るからに物々しいそれにキーラは手を伸ばしかけたものの、下ろした。


「……かさばるし、こいつはいいか」


 ジュラルミンケースに背を向けると、キーラは部屋を後にした。



「……妙に広くなったな」


 念のためドアに鍵を掛けつつ、キーラはあたりを見回す。

 黒い壁は、ところどころが変形している。歪み、捩れ、不格好に膨れた壁や柱のあちこちには、赤く濡れた奇妙な海綿のようなものが生えていた。

 ホテルは、不気味な静寂に包まれていた。

 耳を澄ませれば、得体の知れないざわめきがさざ波のようにかすかに聞こえる。しかし変異した壁が音までも吸い込んでいるのか、音の方向が掴めない。

 ひとまず、キーラはエレベーターホールを目指して廊下を進んだ。

 曲がり角を曲がった瞬間に、奇声が聞こえた。

 前触れもなく現われた異形の怪物が、丸太のような手を振るって襲いかかる。形こそ人間に似ていたものの肌は水死体のように白く、豚のような面をしていた。

 キーラは表情一つ変えずに頭を下げる。

 振り抜かれた怪物の鉤爪が、鈍い音とともに腕ごと曲がり角の壁面へとめり込んだ。

 わけのわからない喚き声を上げつつ、怪物は腕を引き抜こうとする。

 その頭部が、万力のような力で拘束された。


「よいしょ」


 軽い声とともに、キーラは怪物の頭部を壁に叩き付けた。

 脳髄が押し潰される。まるで花が咲くように、壁面に蛍光ピンクの血が飛び散った。


「……ふぅん。こいつもさっきのヤツの仲間か」


 蛍光塗料にも似た体液をしげしげと眺めたあと、キーラは何度か指を曲げ伸ばしする。

 しゅうしゅうと小さな音が響いた。

 白い骨が見る見るうちに伸び、広がる。内側で、泡立つようにして脳が再生していく。


「……なるほど。やっぱり殺すのにそこそこ手間がかかるね」


 冷静に分析しつつもキーラはあたりを見回す。

 すると、東洋風の大きな花瓶が眼に入った。緻密な筆致で花が描かれ、赤く彩られている。

 見た目にも高そうなそれを持ち上げ、キーラはじっくりと眺めた。


「……古九谷か。見事なものだな」


 恍惚するように、キーラはほうとため息を吐く。

 そして一つうなずくと、呻き声とともに起き上がる怪物の頭部にそれを振り下ろした。


「――君も堪能しろ」

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