儚い星食
劣白
彼女は昏かった
雲の隙間から綺麗な三日月が顔を出し、真っ白な雪が都会の街へ落ちる。
コンクリート、傘、服、または花といった植物にしんしんと降り積もるが、直ぐに水になって流れてしまう。此処は東北ではなく関西の大阪だ。日本の首都である東京には劣るが、それなりに発展している地域だろう。真冬と言っても雪だるまが作れるほどの積雪は異常気象でない限りあり得ず、精々道路の端に少しだけ積もるのが関の山なのだ。
しかし、雪が積もらないとしても十二月という最後の月なので、それはそれで寒い。凍死するほどではないが、きちんと防寒していないと身体が震えて満足に外を歩けないだろう。
「あーくっそさみぃな……」
それを痛感していた俺は自販機で買ったばかりの温かいコーヒーを両手で包んで、暖を取りながら公園のベンチに座っていた。
本当ならばコートを着込み、マフラーや手袋を付けるべきなのだろうが、予想以上に気温が低かった。まさか雪が降る程とは思いもしなかったのだ。
「きちんと天気予報を見るべきだったか……」
深い溜息は白くなり、空気に溶け込む。後悔しても遅いだろう。幸いにもベンチの上には簡易的な屋根があるので、雪を防げるだけマシだと思うべきだ。
気を取り直し、俺は本来の目的を遂行するために持ってきていたハードケースからギターを取り出した。
ギターと言っても、エレキギターなるものではなく、ただのアコースティックギターだ。余計な装飾がなく、茶色の木目がしっかりとした質素な見た目。大して高級な物でもない、十万円ほどで買える中級者モデルというもの。
ギター、いや楽器全般で言える事だが下を見れば一万円の物があり、上を見れば百万越えの物がある。素材や作りの違いが音の良し悪しに影響され、当然一万の物よりは二、三十万する楽器の方が良い。そして、プロのギタリストの殆どは二十万以上のギターを扱う。つまり、二十万未満のギターはプロにはそぐわないという事なのだろう。
そうだ。俺はプロではない。普段はコンビニでバイトし、暇なときはこうして公園へ訪れては作詞作曲、ギターを練習しているただの売れないシンガーソングライターなのだ。
ファンなどは殆どおらず、偶に地元の駅前で弾き語りをしているが、良くて数人が立ち止まってくれる程度で、大半の客は迷惑を含んだ冷たい瞳を向けてくる。
「うーん……何がいけないんだろうなぁ……俺の作詞作曲のセンスか? それとも歌唱力なのか?」
俺の疑問に、誰も答えてくれない。呟きは虚空へと溶けていき、ただ心の中には孤独が渦巻く。
バイト帰りなので時刻は二十二時だ。公園で遊ぶであろう活発な子供たちは家で寝ている、または夜更かしに向けてゲーム機を手にしている頃だろう。
兎に角、一人弱音を吐き、そのまま手を動かしてギターを奏でる。真冬の気温に素肌が晒され、手の感覚はもはや無いが、それでも気を紛らわせるように左手でネックを持ち、右手で持ったピックで弦を弾いた。
弾き語りなのでコード進行の他に歌詞があり、当然歌うのだが公園といっても周りは住宅街。あまり大きな声にならないように慎重に声帯を震わせる。
凍てつくような夜中の公園。辺りに人の気配は無く、異世界のような不気味な雰囲気に浸りながら、ひたすらに練習を続ける。胸の中にある不安や孤独は消え、現れたのは好きな事に没頭している幸福感。脳内で自分が音楽で成功する所を妄想し、思わず笑みを浮かべ、それでも弾き語っていた。
「ん? なんだ?」
刹那、安らぎの時間を邪魔するかのように、公園へ誰かが駆け込んできた。
まさか、近所の人が騒音だと訴えに来たのだろうか? 最悪の事態を想定し、弾き語りを止めた。
公園へと来た人物は女性。恐らく、歳は俺と同じくらいで二十代前半だろう。背中まで伸びた、艶のある髪が三つ編みにされており、あまり日に当っていないのか肌は白く、きめ細かい。黒縁の眼鏡をかけた彼女は、俺の中の大和撫子というイメージにぴったりだった。
俺は静かに美人さんを観察する。てっきり騒音を注意しにきたのかと思ったが、そうではないようで、ただ公園に遊びに来た様子でもない。この世の全てに絶望したかのような靉靆とした表情が特徴的で、引き込まれるかのような気味の悪さに息を呑んだ。
「あの……どうかしましたか?」
何か事件性を感じ取り、俺はギターを仕舞ってから恐る恐る彼女に話しかけた。
そして、気がついた。彼女が背負っているのはリュックではなく、ギグバックと言われるギターを仕舞うケースだと……
どうして、こんな時間に、そんな表情で、公園へ急いで駆け込んだのか? 訳が分からない。あまりの出来事に思考が鈍るのを感じ、その間に彼女は徐にギグバックからアコースティックギターを取り出した。
そのギターは素晴らしかった。木目が浮かぶ漆黒のボディに走る、真っ白なバインディング。サウンドホールを沿うように並べられた星の装飾。指板は艶のない黒色で、きっと黒檀が使用されているのだろう。ヘッドにはあまり馴染みのないロゴが輝いており、明らかに高級品だった。
「こんなものがあるから……夢をッ! 私はッ!」
「え? ちょ、勿体ないぞ!」
彼女は芸術品のように美しいギターを地面に叩き付けようとしたので、咄嗟にキャッチする。胸でボール受けるように、ギターを受け止めたが強引だっただろう。小さな傷が付いたかもしれず、不安に駆られつつも彼女を睨みつけた。
興奮しているのか息が荒い彼女と視線が合い、少しの静寂が訪れる。
彼女はベンチに置かれた俺のギターを見て、再び俺を見据えると口を開いた。
「なによ、その目は……どうやら貴方はギタリストらしいけど、私とは関係ないでしょ?」
「そ、そうかもしれないが……いくらなんでもこれは勿体ないんじゃないか? 事情は知らないが物は大事にするべきだろう?」
ギターを愛する者として、ギターに乱暴を振るう行為を看過できない。だから、ギターを優しく撫でて彼女を責める。
すると彼女は唇をぎゅっと結ぶと夜空を仰ぎ、腕を組んだ。どうやら考え事をしているようで、数秒後には決まったのか頷いた。
「……そうね。なら適当な店で売るわ。他の人が大切にしてくれるでしょうし、それならいいでしょう?」
「あ……う、そうだな……」
使わないから売る。妥当な判断だろう。このギターならば数十万円で売れる筈だ。
彼女は俺の手からギターを奪い取る。そして、ギグバックに仕舞って背負う。
気に食わない。心の底から気に食わず、軽く歯軋りをしてしまう。彼女がこのギターに未練があるように見え、それは思い込みかもしれないのに胸が騒がしい。不服から彼女を直視出来ず、視線を落としてしまった。
ふと聞こえるのはリズムよく土を蹴る音。
不思議に思って顔を上げると彼女は颯爽と後にしようとしていた。
「待ってくれッ!」
自分でも驚くほど必死な声が出て、無意識のうちに彼女を引き留めようと手を伸ばしていた。
彼女は振り返り、首を傾げた。その表情は相変わらず死んでいる。瞳には光がなく、まるで底なし沼のような濁った瞳で、俺を見つめている。
「あ、その……」
絶望そのものを体現しているかのような彼女に辟易としてしまった。
正直、初対面の人に自分の気持ちを伝えるのは好ましくないだろう。それが相手の意見に沿うものだったら良いが、反対だった場合は余計なお世話だと邪険に扱われるのが殆どだ。
だから躊躇ってしまった。でも、それをしなかったら俺は一生後悔する事になると確信した。
自分の気持ちを伝えるのは背筋が凍るほど怖い。身体が強張るのを感じ、深呼吸をして、両手を握って拳を作り、覚悟を決めて言った。
「本当に、それでいいのか?」
「何が言いたいの?」
「このギター、お前のなんだろ? 随分高級な物だし、プロのギタリストを目指していたんじゃないのか? 大事な物なんじゃないのか?」
「…………」
彼女は終始無言で、表情を一切変えない。しかし、この場を去らないという事は良くも悪くも心に響いているのだろう。
無言は肯定だと受け取った俺は畳み掛ける。
「何があったかは知らない。だけど同じギタリストとして夢は諦めて欲しくない。俺の夢は素敵な曲を作って、人々を笑顔にすることだけど、お前はどうなんだ? 簡単に諦めるほどちっぽけな野望なのか?」
「そうよ。くだらない夢なんて金にもならない……貴方が何を言おうと私には響かないから諦めなさい」
きっぱりと言った彼女には夢という言葉は似合わない。しかし、やはりどこか未練があるように見えるのは俺の思い込みだろうか? 絶望に満ちた表情に、少しだけ夢の欠片が残っているように思えるのだ。
同じギタリストとして、再び夢を目指すように彼女の闘志を燃え上がらせたい。自分に正直になって欲しい。それが俺の願いなのだが、生憎彼女の事は詳しくない。たった今、公園で会ったばかりであり、時間で言えば五分も経っていなかった。
そんな中、彼女を奮い立たせるような気の利いた言葉を思いつくくらい俺は優れた人間ではない。否定され、再び彼女の心の船尾に手を伸ばすほど勇気を持った人間でもない。第一、聡明ならば夢を抱いたその時から計画を立て、今頃沢山のファンに囲まれているだろう。
「それじゃあ帰るわね――そのギターは貴方にあげる」
「へ?」
「さよなら」
背負っていたギグバックを地面へ落とし、彼女は踵を返した。
呆気に取られてしまい、我に返った頃には彼女の姿は曲がり角で消えていた。今から追いかけようにも荷物を置いていけないので、諦めるしかないだろう。やるせない気持ちから虚脱感を覚える。
彼女が残していった物、いや捨てていった物はギグバックとギター。流石に彼女の未練、所謂曰くつきを使おうとは思わず、だからといって売る訳にもいかないだろう。
兎に角、彼女を説得できなかった落ち込みから、もう弾き語りするような気分ではなくなった。だから荷物を纏めているのだが、ギグバックとハードケース、財布といった物が入った鞄を持って帰るのはいくら大人といっても体力的にきつい。全部で十キロ近くはありそうだ。
幸いにも、自宅は公園から一キロくらいにあるおんぼろなアパートなのが救いだ。
「あ、コーヒー冷めてる……」
後で飲もうと思っていた缶コーヒーは凍てついた外気によって、温もりを失っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます