第三話 彼は何も訊かずにカードを開く

 ばっ。と。

 その場で彼女は席を立った。

 横一直線に結んだ唇に現れているのは羞恥か怒りかわからない、だが微かに震えていて。

 逆に碧は首を捻って目を伏せる。小さな鑑定テーブルの向こうから声が響いた。

「……ふっざけ、ないでよ……」

 さすがにそれは聞き捨てならないセリフだ。

 少しずれたメガネの上から碧が上目で見返して。

「——何かふざけたこと、したっけ?」

「ナニこれ? どういうこと?」

「座ったら?」「は?」

 とっ、とっ、と。

 碧がテーブルを人差し指で叩いて。

「立ってたら人目につくから座った方がいい」

 言われた八津坂が後ろを見れば、確かに通りが目に入る。

 顔を戻せば碧が見ている。だがその視線は。

 昼間の彼とは別人で。

 乱暴な音を立てて席に座りなおした八津坂が、ぐっと前に寄って睨み返す。


「……学校と全然違うじゃん」「そう?」

「なに? バイト?」

 仕舞いかけのデッキを両手で、ちゃっちゃっと切り始めた碧が答える。

「バイトじゃない。個人事業主。箱台払って鑑定してる」

「そんな事やっていいわけ?」

「コンドーさんには許可とってるよ」

 彼の言葉にサングラスで薄く隠れた八津坂の瞳が丸くなった。

 生徒指導の近藤は比較的緩いタカコーの中でもその厳格さは生徒たちに一目置かれている強面こわもての教師だからだ。

「嘘でしょ?」

「嘘なもんか。開業届の写しも提出してる。君らが知らないだけでタカコーには僕みたいな個人事業の生徒は数人いるんだ。そういうことは県内じゃ一番タカコーは理解がある。だから進学先に選んだんだし」

 デッキをカットする手が止まった。

「僕は何も、ふざけてはいないよ」

 ぐっと詰まった八津坂が。だが口角をあげて。

「MIDORI先生って、なによこれ」

「鑑定のニックネーム」

「なんで私の名前、勝手に」「おい」

 小柄で、無口で、おとなしいはずの碧が。

「いいかげんにしろよ? あんたと一緒のクラスになる前から、僕はずっとこの名前、使ってるんだ。で、どうすんの?」

 淡々と、でもわずかに怒気を含んだ碧の声に、唇を噛んだ八津坂はただ睨み返すだけで何も言わない。


 しばし黙って。

「……どうするって、なによ」

「いや。鑑定」

「は? バカにしないでよ、それこそどうかしてる。なんでクラスメイトにさ。私がそんな話、しなきゃいけないわけ?」

「なにか話せって言ったっけ?」

 初めて碧が少し笑った。逆に彼女は、かちんときて。

「話、聞かなくて何を占うのよ?」

「カードの方から喋らせる」

「え?」

「それを聞いてから、観るかどうか決めていい」

 八津坂は。彼の言っている意味がわからない。

 でも——

「好きにすれば」「了解」


 改めて碧がデッキを切り始めた。

 ぶすっと足を組んでその様子を訝しげに睨む八津坂は、でもだんだんとその指先に視線が囚われていく。

 薄暗い部屋にしゃっしゃっとカードを切る音だけが規則的に響いて。

 やがて止まった。

 碧が上から六枚抜いて脇にやり、そこから三枚。

 右下。左下。そして上。時計周りに三角に置いて。


「これは君自身のカード」

 右下をめくる。いつの間にか八津坂は身を乗り出して見ている。

  金貨クイーン 逆位置

 椅子に座って膝上に金貨を乗せた女性のカードが逆さまだ。


「こっちは君を取り巻く環境」

 左下。

  剣の7

 七つの剣から五本を男が盗んで逃げている。


「そして総括と未来」

 上のカード。

  棒の10

 今度は十本の棒を男が背負って歩いていた。


 三つのカードがおもてになって。

 テーブルにじっと目をやる碧がおもむろに顔を上げたので、八津坂はどきりとして、でもそこに続けて彼が言う。

「騙されてるよ」

 彼女は完全に言葉を失ってしまった。

 碧は続ける。


「〝不要な犠牲を払い過ぎている

  お前は虚しく騙されて

  背負わされた重荷を

  いつまでも下ろすことはないだろう〟」


 全身にうっすらと鳥肌が立って。

 八津坂はまるで放心したように、ただその胸を上下させて。静まった占いの館は彼女の息遣いが聞こえるほどだ。

 ぎいっとチェアの背もたれに体重をかけた碧は何も言わずに彼女を見ている。

 だが相変わらず声を発しないので、ぼちぼちと。

「カードの声が見当違いなら帰ってもいいよ、見料けんりょうはいらない……八津坂さん?」

 彼女の息遣いは。

「……ううっ」

 泣いていたからだ。

 肩の震えが大きくなってサングラスの隙間からぱたっとこぼれた涙の玉がテーブルに落ちて跡をつけた。

 少し耳の後ろを掻いた碧がごそごそ脇の棚から取り出したティッシュボックスをテーブルに乗せて、ずいと対面に突き出した。



 聞いてしまえば呆れた話だ。

 父親が逃げたらしい。


 元々八津坂碧は父、母との三人で古ぼけたアパートで慎ましく暮らしていた。

 父親は地方公務員の安定はしていたが一向に実入りの少ない仕事に飽きて一念発起、事業を起こすが失敗。

 だがそこで食いつぶしたのは家の貯金で済んでいたので、素寒貧なりに心を入れ替えてどこへなりと勤めればよかったのだが。

「……操作も詳しくもないのにカードでデスクトップのパソコンとか買ってきて」

 八津坂の言葉に、無性に嫌な予感がする。

「なんだっけ……えふえっくす?」

「ああ……そうなんだ」

 碧がぐったりとした顔で頷く。

 当時は慣れない為替に手を出して損切りもせずに占いの店に飛び込んでくる客を何度か対応したからだ。でもそうすると。

「貯金は、使い切ったんだよね」

「うん。だから借りたの」

「無職なのに?」「うん」

 もうだめだ。だめなパターンだ。

 これ以上父親に関しては話を聞く必要はないと思った碧が話を飛ばす。

「でも連帯保証人とかじゃないんでしょ? お父さん家にいないんだよ……ね」

 ちょっと話しながら、碧の胸がちくりと痛んだ。

 彼もまた幼い頃から母親と二人暮らしだったからだ。


「家にいないから、毎晩『帰ってきましたかねー』って。どんどんドア叩いて。お母さんも参っちゃって。結局堪えきれずに玄関開けちゃって」

「だめだよ。止めないと」

「止めたけど。怖い人が二人入ってきて、免許証と、職場を調べられて。もういい加減お父さん見つけるかなんとかしないと次は職場に行きますよ、って。その時にあたしもタカコーの生徒ってバレて」

 碧の目が鋭くなる。

「それで?」

「しばらくしてから帰ったら家の前で捕まって」

「は?」「ちがうのっ」

 慌てて八津坂が両手を振って否定した。 

「ファミレスで話しただけ。その時に……誘われて」

「何に?」「動画に出ないかって」

 完全に呆れ顔の碧に向かって必死に八津坂が話す。

「そんなエロいのとかじゃないくって、本当に、その、なんて言うんだっけ、イメージビデオ? 女子高生が出てるだけでガンガン稼げるからって。それでお父さんの借金も返せばいいじゃんって」


「……いくらなの? 借金」

「100万くらい」

 ふうっと。

 ため息をついた碧に反応して。

 また肩を震わせ始めた八津坂が涙声になる。

「だって、すぐかえせるって、いったんだもん」

 ぐすぐす泣く八津坂の前にもう一度、碧がティッシュボックスを勧めてやれば数枚抜き取った彼女がびいいっと鼻をかんで。

「あたしみたいなんじゃ……稼げないのかなあ」

 その時、奥の勝手口が「がしゃん」と音を立てた。

 二人がはっとする。

 テーブルの置き時計は。二十時半を過ぎている。

 きっとアテロナさんだ。慌てて碧が言う。

「さっき言った通り。僕にする? 別の占い師さんにする? 別の人がいいなら引き継いでもいい」

「せ、関野くんに、するなら?」

「鑑定預かりで。明日また来て。ていうか学校で」

「う、うん」「じゃ帰って」

 そそくさと席を後にしようとする八津坂の背中に、一言だけ。

「そんな動画には絶対出させないから」

「え?」「なんでもない。また明日」

 小走りで帰っていった彼女とほぼ入れ替わりで、奥の入り口にかかったタペストリーを潜って出てきたのはドレッドヘアーの年配の女性だ。

「あら? まだ残ってたのアオイちゃんごめんねえ。ひょっとして初見?」

「え、ええ。終わりました。もう上がります」

 


 更衣室に戻った碧は、すぐに着替えるのでなくロッカーから取り出したスマホを開いて母親にさくっと『ちょっと遅くなる』とだけ送る。

 続けて連絡先を開ければずらっと頭から並んでいるのは殆ど苗字だけの相手だ。

 時折同じ名字がある場合は〝川田K〟〝川田Y〟と名前のイニシャルだけが書いてある。

 何を隠しているのかと言うと性別だ。

 碧の連絡先に登録されているのは鑑定の常連で、その九割以上が女性なのだ。

 中には明らかにニックネームらしき名前も混じっている。

 そこから一つ。『渡辺』という相手の数字に電話をかけた。

 数回の呼び出し音の後。

『おおう、碧目あおめちゃん久しぶり』

 だが、この番号は男性の声だ。

「今はMIDORIです」

碧目あおめってのがカッコいいじゃん、なんで辞めちゃったのさ』

「まあ、それはまた。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」

 碧が言葉を濁して本題に入った。


『——今どき日掛で追い込みかよ』

 電話の向こうで男が笑う。

「警察もやかましいんでしょ?」

『そりゃ時代が違うわな。多分おっかねえのも見てくれだけだろーその連中も。言葉も丁寧なはずだぜ。どっちかってえと情に訴えてくるんだ〝私らも困ってるんですよ〟とかさ』

「連帯保証人にもなってないって」

『ないないそんなの。消息伺いだよ。嫁さんの職場に内容証明とか送りつける腹なんじゃねーの。今はもう口が裂けても〝奥さんが代わりに払ってよ〟とか言わないぜ、言質げんち取られるからな』

「じゃあその動画ってのは?」


『純粋に〝困ってるなら力を貸すよ?〟って建てつけで巻き込むんだよ。その子だって借金建て替える謂れなんかないんだからさ。だから別口で金を貸すんだ』

「え? 彼女に?」

『後から請求起こすんだよ。機材代。照明代。業務用なら100万はすぐ越えるぜ。スタジオ代に演出費、小道具代、撮影費、編集費、動画アップの代行料。まとめて管理費で10%でも乗っけるんじゃねーの。当然その子は金持ってねえから借用書書かせて売り上げから天引きだ』

「……ひどくない?」

『ビジネスだよビジネス。でも今どきそんな動画でさあ、払いきれるほどの上りが出るわきゃねえわな。で、次に行くんだよ〝露出高くしないとこれ以上は稼げないね〟ってさ。からめ捕りだねえ。きついことは言わないんだ、でも本人に〝もっと頑張らなきゃ〟って罪悪感植えつけてさ。そうなったらもう、逃げられないねえ』

 聞いてた碧の眉間がだんだん険しくなる。

『水着か下着か知らねえけどね』

「あ、あ。そうなんだ?」

 眉間のシワが消えた。いやいや。ぶんぶんと頭を振って。

「ダメでしょそんなのっ。高校生だよ?」


『なんだよなあ。成人ならともかく子供相手にそんなこたやらねえよ。それになんだって? 上がり込んだんだって家に? 夜中に?』

「そう言ってました」

『ちょっと暴走してんなあ』

 碧が肩でスマホを挟んで、ポーチから改めてデッキを出す。箱を開けて中身をざっと事務机に広げた。

「——そういうとこの、心当たり聞きたくて」


『ああ……あれだ、名前。言わなくていいんだよな?』

「ナベさんも付き合いがあるでしょ?」

 電話の向こうの声は笑ったようだ。

『じゃあ、心当たりは三つある。A、B、Cだ』

「了解」


 碧が混ぜたデッキから。

 伏せたカードを三枚。机に並べたのだ。

「A、B、C。思い浮かべた順番、変えないでよ」

『はっは、懐かしいじゃんこういうのも』

 電話の向こうは楽しげだ。

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