第5話 初恋

 中層入場資格を得てからしばらく歩き回り、少年は迷子になっていた。



『おいおいおいおい!覚えてないんだったらちゃんと言ってくれ!別に怒らないから!』


『はい、すみませんでした』



 市役所から随分と離れてしまい、もう戻り方もわからなくなってしまった。中層は高い建物が多く、そのほとんどが似たような見た目をしていて、モニターが付いているせいで常に景色が変化してしまうのだ。



「すみません、下層への行き方ってどう行けばいいかわかりますか?」


「下層への行き方?あー、ごめんね。おじさん行ったことないからわかんないわ。そこら辺の人に聞いてもわかんないんじゃない?市役所のほうに行ってみたら?」


「市役所もどっちだったかわからなくなってしまいまして…」


「市役所はあっちの道にぴゅーって行って、あそこで右にシュっと曲がってからほいほいっと曲がったらいけるよ」


「え、あ、はいわかりました。ありがとうございます」



 祇園精舎の鐘の声。擬音のオンパレードに困惑しつつもとにかく指さされた方向に向かって歩くことにする。



『下層への入り口わかんないなんてことあるのか?』


『ん?ああ。あるぞ。地元の人間は別に地理を理解しているわけじゃないからな。自分の用のないところをわざわざ覚える人は少ない。』


『そんなもんなのか。でもさ、俺たちってそんな短い距離しか動いてなかったっけ?」


『さあ?あの表現の仕方だからな……』


『さあ?とか言える立場じゃないんだよなぁ』


『すみませんでした』


『まったく……』



 少年の生活レベルは上がってきていた。中層入場資格試験を受けるということが換金屋の店主に知られたのだ。それから突然店主の対応が変わり、パンのみみではなくパン自体を1枚もらえるようになったのだ。


 そのせいで、少年の腹の虫が鳴った。



『お前も随分贅沢な体になったもんだな』


『うるせぇ』



 少年は現在成長期である。栄養が手に入るようになればいつでも成長するのだ。


 そんなとき、一人の女性が少年に話しかけた。



「僕、大丈夫?少しごはん分けてあげようか?」


「え?」



 20歳くらいの女性。黒い帽子をしていて、茶色の髪をポニーテールにしている。ワイシャツと、黒いチノパン。黒い腰エプロンを着ていた。



「あ、でもお金がなくて…」


「ああ、大丈夫大丈夫。売れ残りだから」



 売れ残りと聞いて、空を見上げると、もう日が沈んでいた。少年は少女に質問する。



『なぁ、これついて行っても大丈夫かな?』


『うん。大丈夫だ。早く行こう。連絡先聞きに行こうぜ』



 容量の得ない少女の返答を聞き流して、少年はついていくことに決めた。



「お願いします。」


「ははは、おっけー。じゃあついてきて」



 少年の中にはまだ疑念の気持ちが残っていた。下層では、食料をわざわざ分けてくれる人間なんていなかったから。


 それでも彼がついていくと決めたのは、中層という場所での治安の良さを見たから。そして、話しかけてきてくれた少女に余裕というものがあふれていたからだ。


 少し歩くと、パンがたくさん棚に乗っている店に入っていった。



「てんちょー!この子に売れ残り渡してあげていいですかー?」


「ん?」



 店長と呼ばれた男はしばらく少年を見ている。



「いいぞ」



 少し間があった後、了承が得られた。



「よかったねー?道に迷ってたの?」


「はい。実はそうでして」


「そっかー、どこ行きたかったの?」


「市役所に行きたかったんですけど…」


「あー、でも市役所はもうしまっちゃってるよ?」


「え…」


「はい、これ食べていいよ。でも市役所に行って何しようとしてたの?」


「実は帰り道がわからなくなってしまいまして…」


「帰り道?どこ行こうとしてたの?」


「…下層に」



 少年は言いにくそうに下層という単語を出した。中層入場資格試験の受付嬢の反応と、その時の少女との会話から、中層の人間からは下層の人間は軽蔑されていると判断したからだ。


 せっかくここまで優しくしてくれている女性に、突然対応を変えてほしくなかったのだ。



「あー、下層かー。それならこの店を出て右側に行って、そのまままっすぐ行ったら大通に出るから、そこから壁に向かってずっと進めば大きな門があるよ。その門の右側のほうに行けば戻れるんじゃないかな?」



 少年が杞憂していたような反応は全くせず、それどころか丁寧に道順を説明してくれた。



「あ、ありがとうございます…」



 少年は呆けた顔をしながらパンの入った袋を両手に抱える。



「あ、下層まで持ち帰るつもり?やめといたほうがいいんじゃない?ここで食べていきなよ」


「そ、そうさせていただきます」



 あせあせとしながら店の中にあるテーブルに着いた。


 女性店員も店の奥に引っ込んでいき、静かな店で一人パンを食べる。



『あの店員さんめちゃくちゃいい子じゃん。』


『そうだな』


『なんだぁ?もしかして惚れちまったのかぁ?』


『はぁ!?そんなんじゃねぇし!』


『びっくりするくらいわかりやすいなお前。でもな、あの子は俺のだ。』


『はぁ?』


『あの子はこの俺がもらう!』


『…まーた意味わかんねぇこと言ってるな』


『早くレベル上げしろ!俺も早く自分の体に戻って中層に来る!』


『はいはい。頑張りますよー』



 ゆっくりゆっくりパンを食べ、帰ることにする。



「ありがとうございましたー!」



 どこまで入っていいのかわからないので、店の奥に声を投げかけ、そのまま店を出た。


 少年はまた来ようと決心した。








 パン屋の看板娘から聞いたとおりに進むと、小さな出口が見つかった。なぜあの大きな門というのが使えないのか疑問に思っていたが、門を見て理解した。


 そこにあるのは歩道ではなく、溝。線路というものだった。脳内の少女曰く、リニアモーターカーというものが通るための線路だそうだ。



『今日はいろんなことがあって疲れた』


『そうだな~』


『次からは、わかんないんならわかんないって言ってくれ』


『わかったわかった。でもいい出会いもあったじゃねぇか』


『……もう寝る』


『はいはい、お休み』






 翌朝、少年が起きるとすぐに恵の雪崩に向かう。そこでいつものように食料をあさり、食事をとる。



『お、意外と舌肥えたりしてないのか?』


『ん?あぁ。うん。さすがに一回いいもの食べたってすぐ変わんないさ』



 どこか上の空な様子だが、行動自体は普段と全く変わらない。いつもの調子だが、少年は珍しく少女に提案した。



『そろそろさ、野良犬以外にもなんか倒しに行かないか?索敵のおかげである程度敵の位置とかもわかるんだろう?』


『ん?あぁ。だがお前、自分で自覚してねぇかもしれねぇからいうけどよぉ…』



 少し間が空き、いつもよりも低めの声で少女は言った。



『お前は無茶をしようとしている。あの女性のためにな』


「え?」


『常に冷静に、自分の状況を理解しろ』


『…わかった。でもなんで突然こんなことを?』


『人間ってのはな、どんなに賢い人でもバカになるタイミングってのがいくつかある。一つ目は、精神的に余裕がなくなったとき。二つ目は、大きな力を手に入れたとき。三つめは、恋をした時だ。

 つまり、お前は今とんでもなくバカになっているってことだ。だから、これからはできるだけ俺がしっかりしてやる。これからは絶対に、俺の言葉に耳を傾けろ』


『…わかった』



 少女は過去に何かあったのか、いつになく緊張感を持たせるような口調だった。


 心友しんゆうの少女の名前すら知らない少年は、何も質問することができなかった。

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