幾千幾億と繰り返される二人の恋
ゆきんこ
第1話 出会い
草をかき分けてもいだ紫色の実をカンナは口に入れる。歯が合わさる前に溢れ出した果汁の酸っぱさに思わず眉を寄せてしまうのも無理はない。その後を追いかけるように広がっていくねっとりとした甘味に顔が綻んだ。
次に見つけたその紫色の実は籠へ放る。甘味の残った口の中に次の実が欲しい欲求を押さえ、またすぐにもいだ実を籠へ放った。
はらりはらりと舞う黒い影が視界を過ぎり……
「大丈夫か?」
目の前に突然降って湧いたように目の前に現れた人に目を丸くし咄嗟に頷き返した。
「今、黒死蝶がキミに止まりそうだったから」
「黒死蝶? そんな……」
魔女の化身とされる不吉な黒い蝶の不気味さにカンナは口元を押さえる。遠目から見ればただの黒い蝶に過ぎないが、黒い鱗分を撒きながら舞い飛ぶ黒死蝶は気味が悪く不吉だ。なにか害があるのかないのか、わからないことにも嫌悪感が押し寄せる。そんな蝶が自分に止まるなんて、考えただけでもおぞましい。
追い払ってくれた礼を言おうと、顔を隠すように伸ばしている前髪越しに視線を向けた。同じ歳くらいの若者が、今にも息づかいが聞こえてきそうなほど側にいるという事実に、慌てて視線を下げた。
家族以外の異性とそこまで近く体を寄せたことなどないし、顔を隠すようになってからは自ら他人に近づくことも滅多にない。
瞬時に見えた格好は神官だろうか。カンナの暮らす村に朽ちかけた古い神社はあっても、宮司はいない。見慣れない若者に、神官の格好。ほんのたまに村に訪れる巡礼の旅をする神官だろう。
「神官様、ありがと……ああ! 大変……」
「え? な、何?」
急に声を上げたカンナに若者は肩をビクリと震わせ、カンナの視線の先を見やる。
籠の中にある紫色の実が彼の手の下で潰れ、その果汁が袖口を汚していた。
「……あ、ごめん」
「シミになったら大変。早く落とさなきゃ」
カンナは帯にからげていた手ぬぐいで籠の中にある若者の手についた果汁を拭う。
「旅をしているんだ。こんな汚れくらいどうってこともないし」
「旅をされているなら尚のことじゃないですか」
不思議そうに首を傾げた若者にカンナは微笑む。
「だって、旅の宿を貸す相手の身なりが汚かったら嫌ですよ。同じように宿を必要とされている方がいたら、身なりを整えられている方にお貸ししたいと思いますよ」
カンナの手ぬぐいにまだらに紫色の果汁が広がる。
「さっ、早く落とさなきゃ」
カンナは若者の手を引き立ち上がるが、彼は困ったような申し訳なさそうな顔を向けていた。
「ありがとう。だけど、俺の着物の汚れなんかよりも、折角の紫苺を……」
カンナは籠に目を落とし、すぐに微笑む。
「紫苺はまた集めればいいんです」
「そんな訳には! キミが一生懸命採ったものじゃないか」
「紫苺は後でも収穫出来ますし、それよりも早く落とさないと紫苺のシミは厄介なんですから」
「いや、でも」
「すぐそこに池もあります。さあ!」
カンナの力くらいで彼をどうこうできることもない。それでも手を強く引く。なされるまま手を引かれる彼は始終困った顔をしながらもカンナに身を任せるように立ち上がる。
それだけのことにもカンナは少し嬉しく思う。嬉しいというのも語弊があるが、身を任せてくれた、小さな信頼を得られたような本当に小さい喜びに、着物を汚してしまった罪悪感が拭われるようだった。
紫苺狩りに夢中にならず周囲を気にしていれば、彼の手をわずらわせず、着物を汚してしまうこともなかったのにと、申し訳なさにカンナの視線は下を彷徨っていた。手を引かれ着いてくる彼には、余計なお節介かもしれないと、過ぎった思いを払拭するように息を呑む。
葉も色づきはじめ秋めいてきたといっても、まだ肌寒いというには暑い。それなのに若者の首にはしっかりと首巻きが巻かれている。暑そうだと、思ってしまうくらいにしっかりとだ。暑くはないのかと聞こうにも、人には言えない事情は誰にだってあると、カンナは目深に被っている頭巾をさらに深く引く。長い前髪に目深に被った頭巾で前が見えているのだろうかと、心配になるくらいであるが、気にすることもなく歩いている。
はらりと揺れる前髪を押さえ頭巾を軽く直す。これが見つかれば、神職であろうこの若者はカンナに対してきっと……怖い思いを断ち切るように一度だけぎゅっと強く瞬きをした。
池に浮かぶ落ち葉を拾うために手を浸すと、その心地好い冷たさが優しい。小さな池は水底が見えるくらい澄んでいる。
まだ青い葉も黄色く色付き始めた葉も一緒に池の外に出す。全部を掬い捨てるまでいかなくても、着物を濯ぐのに邪魔になる分は十分に避けられた。
「さあ。脱いでください」
にこりと微笑んでも目深に被った頭巾に長過ぎる前髪でカンナの顔は見えていない。その事に彼女は気が付いていない。
「いいよ。自分で出来るし、それに……」
若者の言い淀む理由にカンナは思い至らず、顔を背け首巻きを引き上げるように手直しする彼をじっと見つめていた。
「シミになっては……」
「キミは……神官見習いといっても俺は男なんだぞ?」
彼の小さな呟きにカンナの目は丸く飛び出しそうなほど見開かれた。
自分が若者に対して言った言葉がどれだけふしだらで恥ずかしいものだろうか。頬が火照っていくと同時に冷や汗に体が冷えていく。と、同時にこんな痣のある自分に誰が、とも思う。
「あっ、そんなつもりはなくて、……その、あの……」
狼狽するカンナに若者はいたずら気に笑み笑みを浮かべて、羽織紐を解く。
「あ、あの……わたし」
カンナはこれから彼が何をしようとしているのか、困惑し後退る。顔から血の気が引いてく。震え出す手を押さえようとぎゅっと握りしめた。
「はい。洗ってくれるのだろう?」
若者がばつの悪そうに羽織をカンナに差し出した。
「ごめん。からかいすぎた。キミのその優しさは危ないよ。そんな人間もいるのだから、さ?」
強張っていた体から力が抜けていくようにカンナは息を吐いた。今にも溢れそうだった涙は安堵の溜息と一緒に引いていく。自分自身がそんな目に遭うことはないと、どこか楽天的に考えていた。むしろ確信に近い。どこか遠くにいる隣人の話、他人事だとさえ思っていたのだ。
今、若者から警告を与えられてはじめて、その危険を知った。実際になにもなかったが、身をもって知った恐怖はもう、体験したくない。
「本当に……神官様がそんな方なのかと、もう!」
カンナは乱暴に若者から羽織を受け取る。ひったくるような感じになってしまったのは。カンナなりの意趣返しだ。
「!? 痛っ……」
そのせいか、若者が腕を痛そうに押え、踞る。
カンナのせいで怪我をした。怪我をさせてしまったと、血の気が引く。そんなつもりはなくても、相手を傷つけてしまった恐怖と罪悪感に、体が震える。慌てて若者の痛がる腕を自分に引き寄せた。腕に巻かれた包帯に血が滲んでいる。カンナのせいで負った怪我でなくても、痛がらせてしまった。申し訳がなくやるせない。
「痛っ! なにをする、んだ……?」
カンナは若者を怖がらせないように微笑む。前髪から僅かに覗く口元が優しげだ。
「大丈夫です。恐くないから」
若者の腕が僅かに発光しているように見えた。これが、昼間でなく、夜であればもっとしっかりと光が見えたのだろう。その光は小さな赤い蝶の群れだ。その蝶は次第に赤から紫に、紫から青へ変わっていく。なんとも不思議な光景だ。カンナも何度となく見ているはずの光景だが、不思議すぎて説明ができない。毎度の事ながら白昼夢を見ているような幻想的な眺めだ。
青くなった蝶は役目を終えたかのようにその姿は薄くなり、消えていった。今までそこに蝶がいた形跡は一切ない。
「ほら、恐くなかったでしょう?」
手を離された若者は今何を見たのだろうかと、幻を見てしまったと不可解な顔をしている。カンナだって不思議だと思うのだから、若者がそんな顔になってしまうのは仕方がない。
だが、カンナには一抹の不安があった。この力を怪我をした野生動物に使った事は何度かあるが、家族以外の他人に使ったのははじめてだ。不思議な力を使って村の人と余計な軋轢を生みたくなかったし、顔を隠すように生活をしているのだ。これ以上村の人と距離を置くような事態は避けたかったからだ。
旅人ならカンナのこの力を吹聴しても、信じる人は少ないのではないだろうか。カンナの希望に過ぎないが、ずっとこの村で暮らしてきたのだ。巡礼の神官よりも村人達の信頼はあるはずだと、思い込む。
「腕は、どうですか?」
「え? 腕……あれ?」
若者は何度か手を開いたり閉じたりすると、腕に巻かれていた包帯を引きちぎるような勢いで解いた。なぜ包帯が巻かれていたのだろうかと、首を傾げるくらいに傷のないきれいな肌があった。
「よかった。怪我治りましたね」
怪我の有無を確認したカンナは汚れてしまった羽織の袖口を池の水に浸す。それだけで紫苺の果汁が紫色に池の水面に広がった。少し袖口を揉んだだけで、生成りの羽織から邪魔な紫色が抜けていく。色が残らないようにと何度か揉み、濯ぐ。少しでも色素が残ればそれは汚らしいシミとなってしまう。
そんなことは申し訳ないと、しっかりと洗い、紫苺のシミを残さずに済むとほっとした。
「羽織の汚れだけじゃなくて、怪我まで……なんて、お礼をしたら」
「いいんです! もともとはわたしのせいですから」
羽織はともかく、この力に関してはこれ以上なにもない。お礼なんて貰うようなものではないし、さっさと忘れて欲しいとすらカンナは思っている。下手に関わるものじゃないと心の隅に沸く思いに蓋をするようにカンナは微笑む。そう、余計な事をして後ろ指を指されるような事だけは避けたい。
今のカンナの風体だけで十分だ。顔を隠すように前髪を伸ばして、頭巾を深く被った女なんて気味が悪いだろう。頭巾を深く被るようになってから、前髪で顔を隠してからはあからさまに村人たちはカンナから距離を置いている。そして、カンナもそれでいいと思っていた。
濡れたままで申し訳ないと思いながらも、カンナは羽織を若者に押し付けるように渡す。
彼が今どんな顔をしているかなんて、見る余裕もなかった。力を使ったせいで、カンナは今の自分がどれだけ普通でないかを思い出したのだ。顔だけを隠していればよかったはずなのにと、後悔にも似たものが押し寄せ、苦しい。とにかく今すぐに彼から離れたかった。
その気持ちは行動に表れていた。紫苺の入った籠を抱えて歩く足は速い。気が付けば若者とは離れていたし、家の前だ。
身重の母が重そうに水桶を抱えていた。
「お母さん! もう、お腹の赤ちゃんにさわりがあったらどうすの? わたしがやるからゆっくりしてて」
「何を言っているの。これくらいで何かあるものですか」
「そう言って、何度流れたと思っているの? つわりだってまだ落ち着いてないでしょう」
カンナは一人娘だ。何度か姉になる気配はあったが、死産か流れてしまうばかりで、両親の悲しみを慰めるばかりだった。もう、これが最後かもしれないとカンナは過保護に母を労わっている。痣のせいで両親には要らぬ心配をかける罪悪感もあるからだ。年頃の娘の顔に痣があればどんな親だって心配するだろう。だが、カンナにある痣はただの痣じゃない。口にするには憚られる。
今家には母しかいないというのにカンナは頭巾を深く被り直す。その様子を母親が悲しげに娘を見つめていることに気が付いていなかった。
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