腐ったリンゴ
松本青葉
第1話
もう数週間も晴れが続いている。その乾いた空気が陽が沈むとともに冷え、その温度が車の窓越しに伝わってくる。空も薄暗い朱色に染まり、光量が減ってきた頃合いでパトカーのヘッドライトをつけた。朱色を反射する雲もそのコントラストを下げ、徐々にヘッドライトで照らされた境界がくっきりとしてきている、と思ったころには辺りの電灯が寂しく周りを照らすだけだった。
「おい、あいつ怪しくないか?」
助手席に座る同僚の視線を辿ると、ヘッドライトの光が届かない前方に大きめのパーカーを着た人間が顔を伏せて歩いていた。
「そうだな」
「よし、スピードを落としてくれ」
同僚は車の窓を開け、
「おい、そこの男、ストップしろ」
と低い声で男を制止した。しかし、その男はその声が聞こえないのか、もしくは聞こえないふりをしたのか止まる様子はない。その行為はここ、アメリカでは最も危険な行為の一つなのだ。車内の緊張感が微かに高まった。
「車を止めてくれ」
同僚の声が聞こえる前にはもう既にブレーキを踏み始めていた。彼は車が止まると同時に同僚は銃を片手に外へ飛び出した。僕もその後を追う。
「フリーズ!」
同僚に追いついたころには既に彼は銃を突き付けていた。さすがに男も気づいたのかこちらに振り返り、両手を挙げた。その目には恐怖が浮かび上がっていた。その男はフードを被っていたために顔がよく見えなかったが、比較的暗いこの状況でも表情を読み取れるほどには肌の色は明るかった。
「なぜ止まらなかった!」
同僚は銃を下すと、語気を荒げながら距離を詰めた。
「いや、ただ、聞こえなかっただけなんだ、音楽を聴いてて」
男の不自然な笑顔から緊張がこちらにも伝わってくる。警官の制止を無視することの重大さを彼もよく理解しているようだった。男は片手を降ろしてポケットに手を近づけた。その直後同僚は男の腕を取り、身体を地面に激しく叩きつけた。男の顔を地面に押し付けその上から膝を使って抑えつける。警官の前でポケットに手を近づける行為もこの国で最も危険な行為の一つだ。その後に『何か』があっても言い訳はできない。その言い訳を言う人間そのものがいなくなるのだから。同僚は男を全力で抑えつけていた。
気が付けば周りにはまばらに野次馬が集まり出していた。スマートフォンをこちらに向けながら近づいてくる。カメラのライトが辺りをわずかに明るく照らしていた。
「息ができない・・・・・・」
その時、今にも途切れそうなかすれ声が聞こえてきた。その声の元に目を向けると男が体の自由を失ったなかで藻掻き苦しんでいた。しかし、同僚は力を緩めるそぶりを見せない。
「死んでしまうぞ」
誰かが言った。男の動きから力強さが失われ、その動きは少しずつ小さくなりつつあった。
「お前は見殺しにするのか」
誰かが言った。時間が引き延ばされていた。ある意味ムラ社会である警察という組織において、警察官同士の連帯は必須だ。お互いがお互いの命を預かっている。そんな中で『浮いて』しまえば、自分にも被害が及ぶかもしれない。色彩が歪むような感覚の中で自分の鼓動の音だけが一定のリズムを刻んでいた。
気が付けば僕は同僚を男から引きはがしていた。男は道路に四つん這いになりながら嗚咽した。
同僚はただただ驚いているようだった。僕の行動が理解できなかったようだ。
「大丈夫だ。彼は武器を持っていない」
その言葉が同僚に向けたものだったのか、それとも自分自身を落ち着かせるために行ったものなのかは自分でも分からなかった。
男は武器を持っておらず、ポケットに入っていたのはただのスマートフォンだった。職場をクビになった帰り道だったようで、かなり気分を病んでいたのが会話からも感じ取れるほどだった。
職務質問が終わったころには、夜もすっかり暗くなっていた。僕と同僚はパトカーに戻し、署へと帰ることにした。助手席の同僚は何か不機嫌そうであり、ドライブ中に会話は無かった。なぜあの時僕は同僚を引きはがしたのだろうか、そのことばかりが頭の中を巡っていた。あの時止めなければ男は窒息していただろう。僕は無用な殺人を防いだんだ。そう思い込むことにした。道路の白線が一定のリズムで後ろへと流れていた。
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