悪いのは誰?

鋼の翼

第1話

 僕は今日、初めて――


「ぐっ!」


 ――殺人現場に居合わせてしまった。



 因果応報という言葉がある。過去の善悪の行動の結果が現在の自分に返ってくるというものだが、これには絶対の法則がある。当然のことだが、善い行いはより良いものとして、悪い行いはより悪いものとして返ってくるという法則。


 しかし、今日僕が出合った彼は、その『絶対』に従えない、呪われた人物だった。


「俺さ、ずっと堪えてきたんだ」


 銀閃が奔り、血が噴水のように噴き上がった。首の半分を切り裂かれた女性職員の体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。既に銀行内は阿鼻叫喚の地獄模様と化しており、誰も彼もが正常ではいられなかった。


「困ってるやつを見逃せないから、微力でもいいから助けになりたいって思ってたから。頭でダメだって思っても、体というか心が無意識に反応する。

 そうやって助けた暁には、そいつからの仇が返ってくる」


 彼は血塗れの包丁を一振りして血を払うと左手に持っていた電話機を一刀両断し、近くにいた男性の銀行員の胸を突き刺した。灰色のスーツに鈍色に光る刀身が侵入し、紅い染みをつくっていく。


「因果応報。違うなあ。俺の場合は......因果否報。相手にしたことは善悪が反転して返ってくる。忌子として育てられたからかどうかは知らねえが、結果として俺は呪われた子になっちまった」


 背中まで貫通していた刃物が抜かれ、男性銀行員の胸から夥しい量の血が流れ落ちる。もう一度血を払い落とし、面を上げた。彼の顔は返り血で赤く濡れていた。

 思わず拳を強く握る。直後――


「動くな! 警察だ!」


 ――誰もが目の前の光景に発狂し、この惨劇を起こした狂人に恐怖し、硬直する静寂の中、拳銃を構えた警官が三名入り口に立ち塞がった。彼らの視線は銀行に入った直後から血臭を纏い、異様な気配を醸し出す彼に向けられていた。


「あー、撃てよ。こんだけの悪行をしたんだ、絶対に当たらねえから」


 銀行内にいた数十名を恐怖のどん底に陥れた当人は、警察が向ける拳銃に微塵も臆することなく両手を広げ、笑った。その行動に警官さえも戸惑い、恐怖しているようだった。

 閑静な銀行内に彼の狂気が蔓延していく。


「う、撃て! 撃ってくれ!」


 数分もの間狂気に晒され、中年太りの男性が怯えたように叫んだ。その瞬間、彼の右手がだらりと下がり、叫びをあげた男性の方を睨んだ。その行動はこの場にいる全員の防衛本能と恐怖心を同時に揺さぶった。

 女性の叫びが甲高く響き、連鎖するようにあちこちから正気を失いかけた者たちが叫びだす。警官も、静と激の差に驚き、仕舞いかけていた拳銃から一発の銃弾が放たれた。

 銃弾は床に衝突して跳弾、立ち上がっていた男性の腹部を貫通して壁にめり込む。銃声と重量級の体が倒れる振動で全員の体が竦み、もう一度銀行内が静寂に包まれた。

 誰もが口を閉じる中、彼だけが笑顔で警官を挑発していた。それに対して警官は神妙な顔つきで発砲した警官を外に出し、中央で笑いながら立ち続ける彼に近づいていく。


「な、言っただろ? 今の俺は、ついてるんだよ」


 刹那、刃が閃き彼の右手が消え、体さえもその場から消えた。それと同時に揺れる銀行内。その原因を見れば警官が彼を床に倒し、拘束していた。凶器はすでに警官の手中にあり、何が起こったのかわからないが助かったという安堵が胸の奥に広がった。



 後日、彼の裁判が行われるので証人として立ち会ってほしいとの連絡がきた。

あまりにも早い裁判の決定に怪しさを感じながらも、僕は出席の旨を伝えた。



「ではこれより、銀行殺人事件について審理を行います」


 裁判長の手によってガベルが打ち鳴らされ、法廷に緊張が奔る。検察官が事件の記録と彼を検挙した理由を感情の起伏が少ない声で淡々と述べる。

 その間、彼は何も感じていないのかつまらなさそうにあくびをしたり背を伸ばしたりと自由に過ごしていた。


「証人、前へ」


 呼ばれた。早鐘のように拍動する心臓を押さえつけ、深呼吸して壇上に上がる。

 一斉に法廷内の全員の視線が僕に突き刺さる。


「大木元康さん。あなたが事件現場で見たものをありのまま、簡潔に教えていただけますか?」

「私が見た限り、彼は少なくとも二人は手にかけていました。しかし、銀行内から金銭を奪うといった行為には及んでいません。それと、このあとに弁護士の方からお話があると思いますが、彼の精神状態は酷く破壊されていました。それをこ――」


 言い切る前にガベルが叩かれた。その裁判官の目は、これ以上何も語るなという声のない言葉を押し付けてきていた。それは弁護士を見ても、検察官を見ても同様だった。


「これで終わりです。証人は下がってください」


 腑に落ちないものを感じながらも、逆らわずに壇を降り、法廷を去ろうとしたが、司法府が出す結論に嫌な予感を覚え、傍聴席へと走る。

 相も変わらず閑静な法廷内はゆっくりと、しかし着実に終わりへと向かっていた。

 既に裁判官と裁判員はその場から消えており、検察側が勝利を確信した笑みを浮かべ、弁護人は顔を俯かせながら密かに口角を上げていた。


「判決。被告人 宮本清を死刑とする」


 体内を衝撃が走り抜けるのを感じた。なんの罪もない二名の人を殺害したのだから重い刑罰がくだることは予想していた。けれども死刑はないと思っていた。まだ改心の余地は彼にあると思っていた。

 再三法廷内が静寂に満たされる。そこに裁判によって下された判決に異議を唱えるものは現れない。彼も、その弁護士も。


 僕は彼が連れていかれるのを漠然とした疑問を抱えながら見送り、裁判所を後にした。それ以降、僕は裁判というものについてあらゆるものを調べ始めた。主に大量殺人事件の裁判の記録を友人から情報提供してもらいながら徹底的に。

 調べれば調べるほど、情報と疑問が湧き踊り、あの裁判のおかしさが浮き彫りになってくる。


「裁判での不正......かな。大方あの太った人が金出したんだろうな。いかにもって感じの人だったし。パニックで彼がやったと思い込んだんだろうな」


 日本の司法府の腐敗が感じ取れたような気がして残念な気持ちが心中奥深くに溜まった。



二月後、僕の目の前には彼がいた。場所は教誨室。質素な部屋に教誨師と僕、彼の三人が向かい合うように座っている。彼の顔は痩せこけ、どこか不気味さを感じさせるものの、彼の表情は穏やかそのものであった。


「宮本清さんですよね?」

「あ、銀行内で唯一僕を止めようかどうか葛藤してた人じゃないですか。刑務官だったんですね」


 話しかければ穏やかな表情を崩さず、優しい声音で返してくる。僕は思わず教誨師の方を見た。しかし教誨師は頷くだけで何も言わない。


「最後なので、少し話してもいいですか?」

「あ、はい」


 彼は自分の死を嫌がることなく受け入れていた。いや、願望が現実になったようなそこはかとない嬉しさを醸し出していた。


「言っても信じてもらえないだろうけどさ、俺昔は自他ともに認めるめっちゃ優しい人間だったんだぜ――」


 そうゆったりとした口調で語られた彼の話は、彼の若さを考えれば惨憺たるものだった。

 元来の優しさゆえに大切な人々を失くし、不幸になると周囲から忌避され、反動で悪事をはたらけば闇の住人から好かれ、わずかな幸福を得てもそれを長続きさせることは生来の呪いが許さない。

 他人に優しくしてしまう体を襲う痛苦に、次第に自分の幸福を願うようになり他者の不幸を祈るようになった。生まれついての性格を恨み、孤独に身を置き、それでも耐え切れず、ついに自ら手を下してしまった。


 それが彼の生涯と最後の溜め込んだ鬱憤を散らす自分語りだった。


「笑いたきゃ笑え。呪いなんか信じるやつの方が頭がおかしいんだからよ」


 彼は快活に笑っていた。この世に未練などないとでも言うかのように。


「僕は、信じるよ。人はどうあがいても殺生の快楽なしにあそこまで狂気に染まれない」

「そうかい......」


 彼は大きく背伸びをし、教誨師によって前室へと連れていかれた。一人取り残された教誨室で何も書かれなかった白紙の遺書を見続けていた。


「悠、もうすぐ始まるぞ」

「あ、わかりました。今行きます」


 先輩の呼び出しで僕は鬱屈とした空気を振り切り、立ち上がる。刑務官としての初めての大仕事。緊張と恐怖、不安と覚悟が葛藤していた。


「お願いします」


 五つのボタンが並ぶボタン室で青白い顔をしている先輩方に向かって小さく挨拶をする。それに反応してくれる人はいない。全員目を見開き、全身を小刻みに揺らしていた。

 ボタンの前に並ばされ、彼が踏板に乗ったことを報される。途端、胸が苦しくなった。ボタンを押す手が震え、そのボタンに触れることさえ恐ろしくなってくる。

 隣を見れば目に精一杯の力をこめ、歯を食いしばる先輩たちの姿がある。


「押せ」


 冷淡な命令が鼓膜を打つ。ボタンの押し込まれる微かな音が連鎖した。

 けれども重い物が落下し、つり上げられるような音は聞こえない。ボタンを押す直前に瞑った眼を開ける。そこには押し込んだはずなのに、ピクリとも動いていない僕の手があった。


 呼吸が浅くなるのを感じた。隣には呼吸を荒げながら安堵と空虚な目を向ける先輩たち。彼を殺すトリガーは僕の担当するボタンだった。


「くっ、やはり新人にはきつかったか」


 周囲の憐れみと安堵の視線が痛かった。もう一度息を整え、ボタンに手をかざす。誰か一人が押し損ねた時の対処法など頭から抜け落ちていた。


「さっさと押せ!早く俺を親父とおふくろに会わさせてくれ!」


 彼の声が聞こえた瞬間、僕の手は強くボタンを押していた。



 世の中は意図して犯罪に手を染めた者とそうせざるを得ない状況に追い込まれた者がいる。犯した罪分の量刑を受けるのは当然だが、後者の場合はその状況を作り出した側にも罰則をするべきではないか。

 与えられた休暇、湯船に浸かり独りでにそう思った。

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悪いのは誰? 鋼の翼 @kaseteru2015

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