掌編
本田そこ
真夜中に蝉が鳴く
音の消えた部屋で、背中の軋みを感じると同時に目を覚ます。
次いで、首に残った汗の感触、シャツに残った湿り気。
室温と体温の境界が曖昧だ。
こじ開けた瞼に明かりが突き刺さる。
クーラーも扇風機も止まっていて、薄いガラスを隔てて響く喧騒もない。
耳からは一切の情報が得られず、ここがどこで、自分が誰で、今がいつなのかもぼんやりとしていた。
身体を起こす気になったのは、舌先にまで広がった渇きを知覚したからだ。
冷たい水を喉に流し込みながら、ノートパソコンのスリープ状態を解除する。
ディスプレイに映ったのは、白紙のテキストエディタ。
その眩しさに目を細めながら、私の腕はタンブラーを口元に運ぶ動きを繰り返すだけで、マウスにもキーボードにも一切触れることはなかった。
頭の中を無数の言葉が渦巻いていく。その轟音は幻聴を経て耳鳴りに至る。
パソコンが再びスリープ状態となった。
乱れた髪の毛とくたびれた顔が真っ黒な画面に映り込み、思わず私は目を逸らす。
書きたいという気持ちはあった。
書いてきた、という経験も積んだ。
衝動に駆られて筆を走らせることは今もある。
しかし、辿り着くことがなかった。
刻まれた文字は幾度となく消え去っていった。
布団に放り出されたスマホを拾い、時間を確認する。
そろそろ日を跨ぐ頃合いだ。
しばらくの間SNSを眺め、眠っていた間のログを辿っていく。
様々な形の感情に目を滑らせ、日々積み重ねられていく創作物の山に気圧される。
劣等感と羨望が混じり合う心の濁りには、もう慣れきってしまっていた。
乏しかった冷蔵庫の中身を思い出し、コンビニへ行くことにする。
熱いシャワーは身体を覆う不快感をあっという間に洗い流してくれたが、耳鳴りまでは治してくれなかった。
夜の涼しさに期待したけれど、外の熱気はまだまだ残っていて、せっかく替えた肌着もすぐに汗に濡れてしまう。
夜を感じられたはずの静けさと暗さも、商店街に灯る光が塗り潰していく。
すっかり昼と夜が逆転してしまった。
最後にしっかりと日の光を感じられたのはいつのことだろう。
次第に軋み衰える身体に、やるせなさと後ろめたさを感じるようになっていた。
ちゃんと使ってあげられなくて申し訳ない、そんな気持ちを抱くようになっていた。
そんなことを考えていたからか、右手にぶら下げた袋には野菜ジュースが入っていて、ふと我に返った拍子に自嘲した。
自分を誤魔化すためだけの無意味な抵抗だ。
夜の空気は音をよく通す。
盛ったカップルの嬌声、酒に飲まれた笑い声、遠く響く罵声の応酬。
部屋の中には届かなくとも、夜の下には今という時間を生きる人間が蠢いていた。
シャワーを浴び直し、おにぎりを野菜ジュースで流し込み、私はノートパソコンのディスプレイの、まっさらな白いウィンドウの前に座っていた。
今更無理に筆を進めたところで、強引に言葉を吐き出したところで、そこにどれだけの価値が、意味が込められるのか。
こんな自問自答も普段のルーチンに組み込まれ特別な問いではなくなった。
私の答えもいつもと同じ、見ないフリ。
とうに諦めて筆を折っても誰からも責められはしないのに、凝り固まった自尊心がそれを拒んでいる。
沁み付いた負けず嫌いと尊敬がぐちゃぐちゃとした燃料になり、かろうじて私の衝動を燃やし続けている。
光と熱に当てられて、今こそ盛夏と履き違え、這い寄る終わりに背を向けながら、世界に自分を刻もうと足掻いているのだ。
見苦しく、徒労に畢る行いであることはとうに自覚している。
だが、それでも指を動かすことを止められずにいた。
そうせねばならぬ、そうする他ないのだと、突き上げる衝動がここにある。
私が最も恐れていることは、この僅かに残った熱すらも消えてしまうことだった。
ずれて狂って乱れても、今に叫ぶことでしかその熱を保たせることができない。
いつしか収まっていた耳鳴りは、ガラス越しに響く場違いな鳴き声に変わっていた。
少しくらいは言葉を紡ぐできそうだ、と根拠もなく苦笑いして、両手の指をキーボードに重ねた。
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