二
やはり白石さんは緑川のことが好きなのだろうか。いや、一度緑川の方を見ていたくらいで、そう結論付けるのは些か早すぎるだろう。しかし、わざわざ本を読むのを止めてまで緑川を見ていたのだ。あの時、思わず緑川の方を見てしまうような大きな音がしていたわけでもないのだから、少なくとも緑川のことを気にはなっているに違いない。
下駄箱に着くと、昇降口から雨が降りしきる灰色の空が見えた。僕の心模様をそのまま写したような空が、余計に僕をマイナス思考に陥らせる。いっそこの雨のように泣いてしまいたいような気分だ。
下駄箱を開けてローファーを手に持ったところで、傘を教室に忘れていたことに気が付いた。このまま雨に濡れて帰るのも良いかと一瞬頭を過ぎったが、すぐに今日はアルバイトの日であることを思い出して、教室へと踵を返す。教室を出て五分も経っていないはずなのだが、なんだか校内にいる生徒の数が一気に少なくなったような気がする。いや、正確には僕が俯きながら歩いているから、他の生徒が視界に入っていないだけだろう。俯いたまま教室の扉を開けて、一歩中へ踏み出したその時、誰かとぶつかった。
「きゃっ、ごめんなさい」
俯いた視線の先に何かが落ちた。何やらフィルムがかかった箱のようだ。僕は謝罪の言葉に対して返事をすることもなく、そっと蹲み込んでその箱を拾う。手に持ってようやく箱の正体が分かった。これは……煙草だ。煙草には詳しくないが、父親が吸っている銘柄と同じだったため、すぐにそれが煙草だと気が付いた。確かアメリカンスピリットという銘柄だ。僕は煙草の箱を持ったまま立ち上がり、顔を上げた。するとそこには、鞄を手に持ち立ち竦む白石さんがいた。
「あ、あの、それは……」
僕の顔と、手に持つ煙草を交互に見ながら、困った様子で言葉を詰まらせる白石さんは、一瞬の沈黙を挟んで覚悟を決めたような表情で言った。
「ごめんなさい。それ、私のなの。絶対に先生に言わないでね?」
「え、あ、うん」
僕が呆然とした表情で返事をすると、白石さんは再度謝った。
「本当にごめんね」
「いや、僕は大丈夫だけど、白石さんこそ体とか大丈夫なの?」
「う、うん平気……そんなにたくさんは吸ってないから」
幸い教室には僕と白石さん以外はいなかったため、この秘密を知っているのは僕だけだ。そう、秘密だ。僕は秘密を手に入れることができたのだ。白石さんが煙草を吸っていた事実に一瞬愕然としたが、それでも彼女への好意が冷めることはなかった。むしろ大きな秘密を共有できて嬉しいと思ってしまった。
「そっか。けど意外だな、白石さんが煙草を吸うなんて」
「興味本位で吸ってみたら美味しくて……黒田くんは吸わないよね?」
「う、うん、吸わないよ」
「そうだよね……」
「あ、でも興味はあるかな」
白石さんに嫌われないように興味がある振りをしたが、毛ほども興味がない。むしろ煙草を吸う人間は嫌いな方だ。しかし、これからは好きにならないといけない。帰ったら父親の煙草を一本盗んで、部屋でこっそり吸ってみようと決めた。
「そうなんだ……あの、本当に秘密にしてね?」
「大丈夫だって。僕のカンニングも秘密にしてくれたし、絶対に秘密にするよ」
「あはは、うん、ありがとう」
「こちらこそありがとう」
笑顔でお礼を言う白石さんに、思わず僕も顔をほころばせる。この時間が永遠に続いて欲しいと思ったが、現実はそう甘くはない。
「あ、バイト!」
思わず声に出して時計を見る。走っても恐らく間に合わないだろう。
「え、黒田くん今日バイトだったの?」
「うん、けど遅刻しそう」
「ごめん、私のせいだよね……」
「違うよ、傘を忘れた僕のせいだよ」
「ありがとう、優しいね黒田くん」
「ぜ、全然優しくないよ」
突然の褒め言葉にあからさまに動揺してしまう。きっと今の僕は耳まで真っ赤になっていることだろう。体が熱くなるのが分かる。
「遅れた分残業とかさせられない?」
「大丈夫、すごいホワイトなバイト先だから。むしろ二十一時になった瞬間帰れって店長に言われるくらいだよ」
「そっか。それなら良いんだけど」
「うん、だから気にしないで! それじゃあまた明日ね!」
「バイバイ!」
こんなに楽しい時間は生まれて初めてかもしれない。なんだか白石さんとの距離が一気に近くなった気がする。これも全て秘密のおかげだ。
傘を持って昇降口まで走ると、空は先ほどの雨が嘘のように青く晴れ渡っていた。僕の心模様をそのまま写しているかのように……。
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