僕は浮かれていた。

 3時55分。先生たちとはここでお別れ。僕と咲舞は繋がっているから別れられない。エレベーターは行き先階別に4ヶ所に並んでいて、僕の目指す29階は奥の2つのうちのどちらからでも行ける。


「あまちゃん、5階は手前のエレベーターでないと止まらないわよ」


 咲舞のお父さんはこのホテルを建てた建設会社のCEO。咲舞がこのホテルに詳しいのは当たり前のこと。多少の誤解はあっても会話は上手く噛み合う。咲舞が何故5階を目指したのかについて、全く無頓着に僕は答える。


「29階に行かないといけないんだ」

「29階? 飲食店街ね。鉄板焼の欽明翠にうなぎの春先、ビーガン料理の……」


 僕でも名前だけは知っている有名店が次々に上がる。咲舞はあの店の味はどうとか、この店のサービスはどうとか、まるでマシンガンのように感想を連射する。流行りに敏感なところは師匠譲りだ。


 対抗する知識など何もない僕だが、紫亜たんご指名の店の名は先に言う!


「カフェ・ド・ステーブル!」


 エレベーターのドアが開く。誰も乗っていない。2人して乗り込む。29のボタンを押したあと、他に乗る人がいないのを確認して、閉じるボタンを押す。


 その間、咲舞は目を白黒させていた。僕が有名な店の名前を言ったのがそんなに驚くべきことだったのだろうか。エレベーターが動き出す。咲舞は状況を飲み込んだのかマシンガントークを再開する。


「まぁ! カフェ・ド・ステーブルですって……」


 咲舞がうれしそうに続ける。僕には止める術がない。止める必要もない。


 「……一見さんお断りの会員制で……」へぇーっ。

 「……予約なしでは足を踏み入れることさえできない……」ふぅーん。

 「……格式高い喫茶店……」そーですか。


 全く興味がない。僕にとって、紫亜たんに会えれば、そこは天国!


 「……SNS映えする店内……」でしょうね。

 「……行き届いたサービス……」でしょうね。

 「……コーヒーはもちろん絶品。アイスミルクも絶品……」でしょうね。


 次の一言で咲舞の興奮は頂点に達する! 僕もつい、つられてしまう。


 「……使っている牛乳が他とは違うってうわさだわ……」ぎゅっ、牛乳!


 もしや紫亜たんがCM出演している高級牛乳じゃないのか! 飲みたい!


 「……1杯のアイスミルクを男女が一緒に飲むの……」咲舞、急に落ち着いた。

 「……すると、その2人は……」ど、どうなるの? ゴクリと生唾を飲み込む。

 「……永遠に、結ばれる……」飲みたーいっ! 紫亜たんと飲みたーいっ!


 僕は、そんなところに紫亜たんから招待してもらったのか。


 「……恋人御用達のカフェ・ド・ステーブル、よね!」恋人!


 僕と紫亜たんが恋人。アベックでもカップルでもなく、恋人! これは、これは……脈ありどころの騒ぎじゃないぞ。即、お持ち帰りも夢じゃない! 僕は柄にもなく密かに大興奮。エレベーター、早う29階に着けーっ!


 咲舞は冷静に「でも……」と、小声で呟き、あり得ない疑問を僕に投げかける。


「あまちゃん、そんな名店、よく予約できたわね。コネでもあるの?」


 これは異なことを申す。貧乏な僕にコネなんてあるはずがない。紫亜たんに会いにいくんだ、紫亜たんが予約したに決まっている。思い悩んだ末に『あーん』してもらう前にちゃんと伝えたはずだ。咲舞、忘れたの?


「コネなんて、まさか。紫亜たんに会いに行くって言ったじゃん!」

「うん、言ってたわ。試写会でしょう。『東京・優駿物語』の」


 たしかに試写会はそこで行われる。開始時刻は17時だ。


「いや、4時にカフェ・ド・ステーブルがご指名なんだ」

「ご指名? 誰のご指名なの?」


 何だ、咲舞。やっぱり忘れてたのか。しからば、百聞は一見にしかず。スマホの画面を咲舞に見せる。今朝送られてきた紫亜たんからのメッセージだ。咲舞は確認してもまだ半信半疑の様子。


「これ、本当に、生田紫亜、なの?」

「もちのろん。本人から直接アドレス聞いたし、間違いない」


 記念写真もある。もちろん2ショットだ。それも咲舞に見せる。


「本当だ。どこで知り合ったの?」

「昨日、POGの表彰式で知り合ったんだ」


 咲舞は妙に納得した。僕が運がいいことは周知の事実だ。


「ふぅーん。でもこれ、デートのお誘いじゃない? まさかっ!」

「そうみたいね。姉ちゃんもそう言ってた。まさかって?」


 咲舞は鋭い勘の持ち主。『まさか』の先が気になる。


「あまちゃん、私と生田紫亜とのダブルブッキングデートをするつもり⁉︎」


 ダブルブッキングデート。2人の想い人と同時刻にデートをするという離れ業。コントやマンガなんかではお馴染みで、大抵の場合、モテモテで優柔不断な主人公がしかたなく行う。僕の器じゃそんなことできない。できるはずがない。


「いやいや。咲舞とはくっついてるんだから、それは無理だって……」


 我ながら、くっついていなければそうですね的なことを言ってしまい、おかしくなる。それを堪えて、状況判断に戸惑う咲舞の先手を打つ。


「……咲舞だって、紫亜たんに会いたいって言ってたじゃん」


 もう直ぐ会える! カフェ・ド・ステーブルが天国になる瞬間だ! と、僕は浮かれていた。

__________________________________

浮かれる天太郎。その結末や如何に!


ここまでお読みくださいまして、ありがとうございます。

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