3 最期の電話

 夏への毀誉褒貶きよほうへんもほどほどに、深まってゆく秋日。

 特に変化もなく朝十時にコールが始まったが、ヨシは不在で、パートが休みだったカズは庭で植物をいじっており、わずかな雑音が聞こえるだけだった。

 五分もするとふたたびリダイアル攻撃が始まり、適当なところで諦める。その五分後には、第三波が始まり――

 しかしながら、野原フィールドは平和だ。

 裏庭の柿の木にはヒヨドリがやってきて、人間の手が届かぬところで甘柿を悠々とついばんでいる。そのうち、目の届かぬところでは気が遠くなるほどの電子音が鳴りやんでいた。

 ちらほらと実った甘柿に、今度はメジロが飛来する。ある程度の間隔をおいて何匹目かのツグミがやってきて、家屋からは何度目かのリダイアルが聞こえてくる。

「はあ……」

 度重なるカズの溜息は、ヘイトを受け入れる器が限界を迎えている証拠でもあり、この日ばかりは電話に出ないというアンサーでもあった。

 甘柿には代わる代わる客が寄ってきて、最終的にはカラスが食い荒らしてしまう。そうして柿の木には、艶も膨らみもなくなった果実の残骸だけが残る。

 その頃にはもうコールは鳴りやみ、本日の攻防戦に幕が下りていた。

 これもまた、家族間の業だと言うほかない。


 翌日。

 ヨシの部屋の電話はぴたりとやみ、実家には平穏な時間が戻ってきた。十時の嫌がらせに振り回されないことが不思議なくらい、間延びした朝だった。

『そういやムツ、今日は電話してこないねえ。毎日こうなら良いのに』

 なんて安堵に、無造作な秋日しゅうじつは過ぎていった。


 さらに翌日。

 聞き慣れた十時の騒音は、この日も実家には届かなかった。やれ、清々しいはずなのに、どこか曲々まがまがしい朝だった。

『本当にどうしちゃったんだろうね』

 なんて杞憂に、カズは午後からパートへ向かった。


 当日の暮合くれあい

 自室のイスに座ってパソコンをいじる私と、自室のコタツに入りながらテレビを観るヨシ。別々の空間で、まったりタイムを消費する一般家庭だったが、それを突如切り裂いたのは古ぼけた乾電池式のチャイムだった。

 不躾な時間のセールスだろうか? そうであれば木で鼻を括ってやろうと、私は玄関の錆びついたドアを開けた。

 が、オレンジの玄関灯ポーチライトに照らされていたのは、見知らぬふたり組で、四十路よそじに届くか届かないかくらいの女性だった。立居というかたたずまいというか、どこか宗教関係エホバのニオイを感じつつ要件を訊ねると、

「こんばんは。私たちムツさんの知り合いで、同じ〇〇教の活動をしていて――」

 片方の女性は、夜分遅くスミマセン的な枕詞のあと、ムツの名前を口にしてきたのだ。深掘りしてみると、彼女と同じ新興宗教の信者で、なんでも先日から連絡が取れていないというのだ。

「え、ムっちゃん――あぁ、ムツさんと音信不通ってことですか?」

「二日前から電話に出てくれなくて……それで、こちらに来ていないかと思って」

「二日前……?」

 宗教関係者の言葉を聞いて、全身に鳥肌が立つのを感じた。

 不自然に【十時の電話】が止んだ非日常と、信者が語る内容とで結びつく部分があらわになったからだ。

「いや、来てないですけど。ちょっと、こちらでも確認してみます」

 私はふたりを玄関に残すと、居間の受話器を取って、ムツにつながる六桁をプッシュした。が、何回――何十回――呼び出し続ける時間、および耳に強く押し当てていた痛痒いたがゆさに耐えきれず、受話器を置いてしまった。

 いよいよ、ムツの様子を見に行く必要が出てきたのだ。

 けれど、実家の車は二台とも出払っていたので、誰かが帰宅するのを待つしかなかった。その間、私はヨシの部屋へ向かい、

「ばあちゃん、ちょっと良い? なんかムっちゃんと連絡が取れなくてさ」

 これから起こりうるであろう不吉な言葉を口にしていると、私の父――ミチが帰宅した。ただいまもおかえりも早々に、同様の説明をしたあと、

「ばあちゃんは、家で待ってて。ちょっと……親父と様子を見てくるから」

 のために、実家で保管していたムツ宅の合鍵をポケットに突っこみ、男ふたりで車に乗りこんだ。

 

 夜の秋風は異様に冷たかった。到着したあばら家の明かりは点いておらず、その様相はお化け屋敷そのものだった。

 玄関のチャイムを何度か鳴らしてみたが、応答はない。携帯電話に目を落とし、時刻を確認すると、小学生だって就寝するような時間ではなかった。そうかといってムツは、陽が落ちてから外出するような人でもない。

 私は心の片隅で最悪の事態を想像しながら、激しめの動悸とともに玄関を開錠した。久々に見た高床の玄関は、もうそれほど高くはなかった。

 けれど成長した分、玄関からの直線――ちょうど目の高さで居間の陰翳いんえいが飛びこんできて、想像と現実とを不吉にマッチングさせていた。居間にあったのは、中央に敷いてある布団と、人がくるまっている形状だった。

 ――彼女はのだ。

「なあ、親父……? なんか布団、敷いてあるけど……?」

「お前はここで待ってろ」

 私のことを気遣ったであろうミチは、先に家の中へ入ると、蛍光灯から垂れたヒモを引っ張った。普段から飲兵衛アル中愛煙家ヤニカスだった男だが、この時ばかりはほんのわずかだけ頼もしく見えた。

 明かりが灯った居間でミチが布団に目を落とすと、そこで寝ていたのは、顔面が紫色に変色し、ぴくりとも動かないムツだった。

 布団の一部は血に染まり、赤黒く固まっていた。鼻をつく室内の異臭は、窓を開けた際に外へと逃げていった。――その時、感じたのは寒さではなかった。

 ひとつの物体が横になっている部屋は、現世から隔絶かくぜつされたようにひっそりしていた。こういう時、警察と救急のどちらに連絡すれば良いのだろうか? 不毛な思考を巡らせているうちに、ミチが不慣れな緊急通報を行っていた。

 私はそこで我に返った。自分がすることをしばし巡らせたあと、電話帳からカズの名を探し、ミチのそれに倣った。


 手足に感じる冷たさと、時間と並行していないような呼び出し音。

 不意に受話口から聞こえてきた、カズの声へ対する安堵。

 この時、ほんの少しだけムツの気持ちがわかったような気がした。


 そうして私は、

「ムっちゃん……死んじゃったよ」

 仕事の合間に応じてくれたカズに向かって、傍らの事実を伝えていた。声にした瞬間、ようやくそれを出来事として噛み締めた。その時、カズがどんな反応をしたかは覚えていない。

 覚えていないが――


 そこから先は警察の仕事だった。

 ムツの死因は、睡眠薬の過剰摂取。死後一日は経過していたという。つまり、二日前に鳴り続けていた電子音こそが最期さいごの電話だったのだ。

 ムツはその電話で、なにを伝えようとしたのだろう?

 また、助けを求めていたのだろうか。

 まだ、止めてほしかったのだろうか。

 時代が移ってしまった以上、確かめようのない心情だが、どちらにせよはなかったのだと思う。

 故人を責めるつもりはまるでない。が、ひとつ言えるのは、ムツは弱さを飼い慣らすのが苦手で、またどこまでも自己認識が苦手だったのだ。


 大人になった私は、ムツに対して、

『気の毒な叔母さんだった』

 という思いしか持っていない。

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