夏は燻る

ゆあん

第1話

 夏になると、無性に海へ行きたくなる。


 月明かりの照らす頃、ぎの浜辺に耳を傾けながら、缶ビールをあおる――

ただこれだけのことに、至福を感じられずにはいられない。これが夏のせいでなくして一体なんだというのか。それはまるで夏の虫が光源に引き寄せられてしまうがごとく、逆らうことのできない本能とでも言おうか。気がつけば、今日もまた浜辺に通ってしまっている。現に今、二本目のプルタブをひいたところだ。この本能とも言える現象を、常夏症候群と勝手に命名している。


 この困った衝動は誰にでもあるものなのかと思っていたら、どうやらそうではないらしい、という事を最近知った。考えてみれば、見渡しても人っ子一人いないあたりで、己特有の事象だとわかろうものだが、あまりにも無意識かつ強烈なその欲求ゆえ、誰もが当たり前に有している欲求なのだと盲信していたのだ。


 そして最近、どうやらそれが、かつての初恋によって引き起こされているのではないか、という可能性を恋愛マンガから得た。


 三十代も中盤を過ぎた。未婚、彼女もおらず、恋もしていない。仕事をして、退屈しのぎに残業して、テレビを見ながら飯を食い、そして寝る。そんな悲しいルーティンの日々。鏡を覗き込めば、生え際の後退した冴えないおっさんが写り込んでいる。今さらオシャレに気を使うことも面倒。そんな、中年になっていた。


 ――このままじゃもったいないですよ、立木さん、いい人なんですから――。


 そう云う若くて可愛くてイケメン彼氏持ちの職場の女の子に、「ときめきを思い出しましょう」と押し付けられた恋愛マンガ。斜に構えていたものの、なんだかんだ手にしては読むふけり、年甲斐もなく涙なんかも流したりして、なるほど面白いじゃないかと感心してしまった。いつの間にか「恋って素晴らしい!」と桃色思考に染まる己に身震いもしつつ、新たな恋に踏み出す努力をしても良いのかも、と、そんな気にさせられた。


 そしてそれは俺をより力強く海へと向かわせることになった。

 要するに、くすぶっているのだ。

 もしかしたら俺は、あの初恋を忘れられないのかも知れない。


 いや、忘れるはずはないのだ。こうして鮮明に思い出せる程度には、大切な記憶なんだろう。残念ながら、その教訓を生かすことは出来なかったようだけれども。


 あれは、高校一年生の夏。幼馴染の知夏ちなつに、初めて女を感じた瞬間だった。

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