お笑い界の頂点か? 日本の初代大統領か?

滝田タイシン

お笑い界の頂点か? 日本の初代大統領か?

「徹(とおる)さん、『サルでも解る政治教室』の件、MCに決まりましたよ!」

「ホントか! やったな! 俺もとうとう政治バラエティのMCか……」


 俺、田宮徹(たみやとおる)はマネージャーから連絡を受けて、飛び上がる程喜んだ。


 一介のお笑い芸人であった俺が、春から始まる新番組「サルでも解る政治教室」の司会者に選ばれたのだ。これは快挙と言っていいだろう。


 「サルでも解る政治教室」はバラエティ番組とは言え、扱う内容は時事問題だ。笑いを取ればそれで良いと言うものではない。かと言って堅苦しくて難しい内容でも駄目だ。軽く笑いを交えながらも難しい内容を解りやすくかみ砕いて進行していく。その役割に一番適していると評価を受けて、俺が選ばれたのだ。



 俺は芸能界に入って二十年。お笑い業界一の芸能事務所、押本興行の養成所を卒業して、そのまま押本から芸能界デビューした。


 下積み時代は本当に苦しい思い出しかない。真冬に素っ裸で水を浴びせかけられたり、グツグツ煮えたぎった料理を無理やり食べさせられたり、拷問のような扱いを受けた。人権侵害と言って良いだろう。俺はそんな苦しい日々を耐え忍び、徐々に評価を得ていった。だが、お笑いの世界に限界を感じていたのも事実だ。このままの状況でテレビに出続けて、俺に未来があるのか不安があった。お笑い芸人など、毎年次から次へと業界に入って来るのだ。俺に後輩を蹴散らし、業界で生き延びていく実力があるのか、本当に不安だった。


 そんな俺にSNS全盛時代という転機が訪れた。お笑い芸人として、伸び悩んでいた俺に別の道が開けたのだ。


 普段から時事問題に関心のあった俺は、政治や経済、世間が注目する事件などで、ツイッターを使い自分の考えを呟いていた。元々お笑い芸人としてそこそこの知名度もあったので、万単位のフォロワーが居た。そのフォロワー達が、俺が呟くツイートに賛同し始め、お笑い芸人の人気以上にフォロワー数が増えていく。そうなってくると、俺のツイートをネットメディアやスポーツ新聞が記事にし始める。後は何かツイートする度にフォロワーは増え、記事としての露出が増えていく。仕事でも時事問題を扱う番組にコメンテイターとして依頼がくるようになった。


 俺はお笑い芸人として純粋に活動していた時よりも知名度が上がり、仕事としても充実していた。もう体を張った笑いを取ることなど馬鹿らしいと考えていた。


 ある日、依頼が少なくなったお笑いバラエティに出演していて、体を張ったボケを取れる瞬間があった。昔なら躊躇なく、目の前の泥沼に体から突っ込んで笑いを取ってたと思う。だが、今の俺は一歩が踏み出せなかった。お笑い芸人として「美味しい場面」を自ら見送ってしまったのだ。


「オイこら、徹! お前お笑い芸人だろ! 突っ込めよ!」


 俺より二回り年上の大御所芸人、タケルさんから容赦ない罵声が飛ぶ。


「すんません、俺はもうお笑い芸人としては脱落者なもんで、ただのタレントなんで無理ですよ」


 俺は半笑いで誤魔化した。だが、本心でもあった。別にお笑い芸人を下に見るつもりは無い。俺にその道でオンリーワンになれる才能は無い。俺は言葉通り脱落者だと思っていた。


「しょうがねえ奴だなあ……ああああ」


 タケルさんは笑いながら近付いて来たかと思うと、わざと足を滑らせて泥沼に頭から突っ込んでしまった。


「くそぉ……せっかくの衣装が台無しだよ……」


 泥だらけの顔で泣きそうな表情を作ったタケルさんは本当に可笑しかった。俺は仕事も忘れて大笑いしてしまう。俺が作ってしまったしらけムードをタケルさんのボケが全て流してしまったのだ。


 今のタケルさんの地位からすれば、泥沼に突っ込んで行くなんて、演出としてあり得ない。俺は大笑いしながらも、タケルさんのお笑い芸人としての凄みに震えた。


 その一件があってから、俺の腹は決まった。俺はお笑い芸人の道を捨て、時事問題を扱えるタレントとして生きていこうと。



 「サルでも解る政治教室」は三回の放送を終え、好調な滑り出しを見せた。月曜の午後八時で時間帯最高視聴率を獲得したのだ。


 俺のMCに対する評価も上々で、中には政界への進出もあるんじゃないかと噂が出るくらいだ。もっとも、それは噂だけではない。俺の頭の中には政界に対する欲もあった。水面下で接触してくる政党もあるくらいだ。この番組を成功させれば、おのずと政界への道が開けてくるだろう。


 そんな中での、オフの日。オフと言えども完全に休んでいられる訳じゃない。むしろ、こんな自由な時間がある日こそ、勉強しなければならない。今が俺の人生にとって、一番勝負どころなのだ。


 自宅マンションでネットで情報収集していると、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。俺は気ままな独り者なので、仕方なく自分でインターフォンに出た。


「はい」

「お世話になります。神守テレビの夢野と申します。依頼していたインタビューに参りました」


 モニターには、開いているかどうかさえ疑わしい程細い目をした、三十代ぐらいのサラリーマン風の男が映っている。


「神守テレビ? インターネット放送ですか? 聞いて無いんで、間違いじゃないですか?」

「いや、佐々木さんには話を通してあるんですが……」


 夢野は困ったように呟く。佐々木は確かに、俺のマネージャーだ。


「すみません、ちょっと佐々木に確認しますので、待っててもらえますか」


 俺はインターフォンから離れ、スマホを取ってきて、佐々木に電話を掛ける。


「はい、佐々木です。どうしました?」

「どうしましたじゃないよ。今、神守テレビの夢野って人が、インタビューしにうちに来てるんだけど、聞いてる?」

「ちょ、ちょっと待ってください。スケジュール確認します」


 そう言って、佐々木は一旦電話を切った。


 しばらく待つと、佐々木から折り返しの電話が掛かってくる。


「あの……今確認したらですね……今日、田宮さんの自宅でインタビューが入ってますね。なんだか二日前にラインで私と田宮さんとで、この件で連絡してまして……田宮さんも了解していますけど……」


 佐々木は自信なさげに、ぼそぼそと呟く。


「そんな訳ないだろ。俺は初めて聞いたぞ」

「すみません。私も記憶に無かったんですが……記録は残ってまして……」

「ちょっと俺も確認する」


 俺は切れ気味に電話を切って、スケジュールとラインを確認した。すると驚くことに、ちゃんとスケジュールに入っているし、ラインで俺は仕事の依頼を了承していた。全く記憶に無いのだが。


「お前のいう通りだったな」


 俺は電話で佐々木に伝えた。


「済みませんけど、インタビューを受けてもらえませんかね」


 佐々木は泣きそうな声で俺に頼む。


 本来なら断りたいが、なぜか了承しているし、相手もここまで来ているのだから、仕方ないと受けることにした。


「ありがとうございます」


 夢野を中に入れて、リビングでインタビューを受けることとなった。


「コーヒーと紅茶どっちが良い?」

「いや、お構いなく、インタビューが終わればすぐに帰りますので」


 それではと、夢野はカメラをセッティングし、リビングのローテーブルで向かい合って、インタビューが始まった。


 夢野の質問は当たり障りのない無難なものばかりで、俺は今までに何度も聞かれてテンプレと化している回答を返した。


「そう言えば、去年のバラエティー番組で、田宮さんが興味深いことを言ってられたので、それについて質問があるのですが」

「はあ……」


 俺はどの番組での言葉だろうかと、記憶を探った。


「『俺はもうお笑い芸人としては脱落者なもんで、ただのタレントなんで無理です』この発言を覚えていますか?」

「ああ、あの……覚えてますよ」


 考えるまでもなく返事を返した。俺の人生の転機と言える場面だ。忘れる筈はない。


「田宮さんはお笑いに関して、自分は脱落者とおっしゃいました。今現在の自分はお笑い芸人で活躍されている方達より下だと考えられていますか?」


 夢野が急に難しいところを突いて来た。実際、あの脱落者発言は謙遜の意味があった。決して今の俺は脱落したとは思っていない。だが、あのタケルさんより上かと聞かれれば、そうだとは答えられない。あのお笑い芸人としての凄みは尊敬に値するから。


「そうですね。お笑い芸人としては、今バリバリ笑いを取っている方達よりも私は下です。でも、私も違う道を歩き出しました。脱落した人間が別の道を歩き出す。良いことじゃないですか。どちらが上か下かなんて意味は無いと思いますよ」


 俺は本心を無難な形で答えた。


「なるほど。ごもっともです。それでは少し関連した質問ですが、もし五年後になれるとしたらどちらの道を選ぶか答えて頂けますか?」

「あ、はい、どちらと言うのは?」

「はい、まず一つ目は、五年後あなたはお笑い界の頂点に立っているのです」

「えっ、お笑い界の頂点?」


 俺は思わず、半笑いしてしまう。


「そうです。今までに出てきたどの漫才師、噺家、ピン芸人より笑いの取れる、正にお笑い界の頂点の人となるのです」

「なるほど。それは素晴らしいですね」


 夢野がどの程度本気か測りかねて曖昧に返事をする。


「もう一つは、日本の初代大統領になるのです」

「ええっ、大統領は法律的にも無理でしょ」

「今は無理ですが、法改正が出来るだけの権力も手に入れて、あなたの望むような国造りを進めていけるのです」


 確かに、時事問題を勉強してきて、政治の世界にもどかしさを感じる時がある。俺だったらこの件はこう処理するとか、こういう法律を作ればどうかとか考えだすと切りがない程だ。自分の力でそれを解消できるなら、やってみたい気持ちはある。


「さあ、五年後になれるとしたら、どちらを選びますか?」

「さあ、って言われても……」


 どう答えるべきか。ここで大統領を選ぶということは、バラエティ番組の「脱落者」発言は方便で、実はお笑い芸人を下に見ていると思われないだろうか。自分の「脱落者」発言からすれば、お笑い芸人の頂点を目指す方が筋が通る。テレビ受けして好印象なのはお笑い芸人の方じゃないか。


「お笑い芸人の頂点ですね。ずっとそれを夢見て芸能界に足を踏み入れた訳ですから。残念ながら脱落してしまいましたが、もしなれるとすれば、お笑い芸人の頂点になりたいです」


 俺はハッキリと答えた。


「分かりました。あなたの回答を聞き入れます」


 夢野がそう言うと、どこから出てきたのか、俺の体中がまばゆい光に包まれる。

 ハッと気付くと、まばゆい光は跡形もなく消え、目の前には笑顔の夢野が居た。


「ありがとうございます。良いインタビューになりました。またいつかお会いできる日を楽しみにしています」


 夢野はそう言い残して帰って行った。



 夢野のインタビューを受けてから、初めての「サルでも解る政治教室」の放送日。この番組は扱う情報の鮮度を考え、全て生放送で進行する。俺は事前勉強の成果もあって、問題なく番組を進めていく。


 途中でゲストの大学教授からコメントを頂いている時、ふと面白いボケを思いついた。自分がひな壇にいる立場だったら間違いなく口に出していただろう。だが、MCという立場上かろうじて抑えた。バラエティとは言え、真面目な話を冗談で茶化すのは気が引けたのだ。


 その時を境に、次から次へと面白いボケや突っ込みが頭に湧き上がってきた。どれを口に出しても大爆笑を取る自信がある。


「それは逆に、こっちから持って行けば良いんじゃないですか。ご苦労さんってね」


 しまった、思わず思いついた突っ込みを口に出してしまった。


 一瞬、場が静まり返る。だが次の瞬間、スタジオ中に大爆笑の渦が巻きあがった。


「ちょ、田宮さん、ククッ……それはズルい……。クッ、面白すぎて話が続きませんよ」


 大学教授は笑いをこらえるので精一杯で、続きが話せない。


 ウケてしまったことで、俺は調子づいた。お笑い芸人としての本能がうずきだしたのだ。


 それ以降、頭に浮かんだボケや突っ込みを容赦なく浴びせ続けた。俺が一言口にするだけで、スタジオ中が笑いのるつぼと化す。もう時事問題などどうでもいい雰囲気のまま放送は終了した。


 その夜、俺の名前や「サルでも解る政治教室」がツイッターのトレンドに上がり、賛否両論入り乱れて炎上状態だった。「どんなお笑い番組より面白かった」「今夜のタミトオは最高に面白かった」との好意的なツイートもあれば、「時事問題を扱う番組のMCなのに不謹慎だ」というお叱りのツイートもあった。


 5ちゃんねるにも「タミトオ、今更ながらお笑い芸人として覚醒する」とのありがたいのか、馬鹿にしているのか分からないスレッドが立ったりした。


 翌日のスポーツ新聞の芸能欄は番組の記事一色だった。どの紙面も賛否両論で、この一件をどう扱って良いのか迷いが見られた。


 翌週放送分の番組打ち合わせはいつもと違い、異様な雰囲気に包まれた。


 今週の放送分は、いつも以上に話題となった。来週の放送はいつもより視聴率アップが予想される。今週と同じ路線で行くのか、それとも元の真面目な番組に戻すのか、判断が難しい。


 結局、プロデューサーの一声で、もう一週間だけ、今週と同じように笑いを取る路線で行こうとの結論になった。ただ、俺はその決定に口を挟まなかったが、正直言って今週の再現が可能かどうか自信が無かった。今週は笑いの神様が俺の体に降りてきてくれたような感覚だ。もう一度同じことが出来るかどうかなんて、神様にしか分からない。


 そんな気持ちのまま次の放送がやって来た。


 もし笑いが取れない時のことを考えて、普段よりしっかりと扱う問題を勉強してきた。これなら通常の番組進行でも無様なことにはならないだろう。


 番組が始まり、進行していく。もうスタートから俺の体に笑いの神様が降りてきてくれた。事前準備なんてどうでもよくなるぐらい、次から次へとボケ倒すし、突っ込みまくる。ほとんどワンマンショーだったが、スタジオ中の笑いが絶えないので、文句を言う人間も居ない。


 CMの間に、スタッフがネットの反応を伝えてくれた。前回にも増して、好意的で注目されている。これは驚異的な視聴率をはじき出すかも知れない。


 その日の放送が終了し、ネット上では話題を独占していた。


 数日後に視聴率が発表された。なんと三十パーセント近い驚愕の数字となっていた。


 その数字に気を良くしたプロデューサーはこの路線の継続を決める。幸運なことに、俺の笑いも冴え渡り、毎回高視聴率を記録した。だが、問題も出てきた。時事問題を扱っているにも関わらず、学者や大学教授たちが出演を拒否することが目立ってきたのだ。番組に出て、いじられるのがイメージダウンとなるからだろう。


 「サルでも解る政治教室」は高視聴率を記録しながらも、秋の番組改正で終了してしまう。これによって、俺の政界進出の夢も消えてしまった。


 捨てる神があれば、拾う神もある。なんと、同時間の新番組として始まる、お笑いバラエティのMCに俺は抜擢された。おまけに、ご意見番として、タケルさんが毎回出演してくれると言うのだ。しかも本人の希望で決まったらしい。俺にとってこれ程光栄なことは無い。こうなれば、一度捨てたお笑い界の道をまた進むしかない。


 新番組「トオルとタケルのなんでもアリでしょ!」は毎回高視聴率を記録した。相変わらず、俺には笑いの神が降りてきてくれたし、タケルさんのボケも冴えわたっていた。タケルさんがボケると、俺は容赦なく頭をはたいた。今現在、芸能界でタケルさんの頭をはたけるのは俺だけだろう。


「おい、徹、俺とお前で漫才しようや」


 番組収録が終わった後にタケルさんと飲んでいたら、急にそんなことを言われた。


「いや、マジですか? 今更ネタ考えて漫才やるんですか?」

「俺はよ、今の若い奴らが羨ましいんだよ。俺の頃にこんな漫才日本一を決める大会なんか無かっただろ。冥土の土産に挑戦させろや」


 タケルさんにこう言われて断れる訳はない。俺は了承して、ネタを作り始めた。


 俺が作ったネタをベースに、二人で打ち合わせて改良していく。番組の収録後にネタ合わせを何回も重ねた。


 翌年になり、Mー1チャンピオンに「タケトオル」のコンビ名でエントリーすると、世間がひっくり返る程の反響があった。すでに「トオルとタケルのなんでもアリでしょ!」は超人気番組となっていて、そのMC二人がコンビを組んで漫才すると言うのだ。話題にならない筈はない。


 「タケトオル」は快進撃を始めた。どのステージでも大爆笑を取り、初期の予選から異例の観客数を記録する。俺とタケルさんは回を重ねるごとに息も合ってきた。絶対的な自信を持って、決勝へと駒を進める。


「ガラにもなく緊張しますね」


 決勝第一ステージの出番の直前、俺はタケルさんに話し掛けた。


「俺もそうだよ。まあ、この気持ちが無くなったらお終めえよ」


 タケルさんはそう言いながらも笑顔だ。この瞬間を楽しいんでいるんだろう。


 軽快な音楽と共にステージへの扉が開く。俺達は若者と同じように、ステージへと駆け出した。


 漫才が始まると、緊張なんてどこかへ飛んでしまった。何回も繰り返し練習したネタを息を合わせて披露していく。ドカンドカンと大爆笑が湧き上がる。


 心地良い。


 俺はお笑いの世界に戻ってこれたことを幸せに感じていた。


 第一ステージ、決勝ステージ共に独走状態で文句なしに優勝をさらった。念願の日本一の漫才師となったのだ。


「今のお気持ちをお聞かせください」


 アシスタントの女優が、タケルさんにマイクを向ける。


「ありがとう。これでいつでも死ねるよ」


 会場内に笑いが起きる。


「あと、俺はこれで引退する」


 突然の発表に、会場内に「ええっ!」とどよめきが起きる。聞いて無かったので、俺まで驚いた。


「今後のお笑い界はこいつが引っ張ってくれるだろう。な」


 タケルさんは俺に話を振る。


「分かりました。俺に任せて安心して死んでください。なんなら息の根止めましょうか?」

「隠居ぐらいさせろよ!」


 会場内に笑いが起きる。


 伝説の夜が終わった。この夜、俺はタケルさんからバトンを受け取った。今後は精一杯この道を進んで行こう。



 タケルさんが引退した後、俺は猛烈に仕事を引き受けた。ステージでぶっ倒れれば本望だとまで考えていた。


 五年経ち、十年経ち、俺は押しも押されぬお笑い界のトップに君臨して走り続けた。後輩芸人は俺を神様のように崇める。俺もお笑い界に良かれと思うことは積極的に動いた。



 夢野にインタビューを受けて三十年が過ぎていた。俺も病に倒れ、芸能界を引退している。病院には俺を慕う芸人や芸能関係者が、ひっきりなしに見舞いに来てくれた。もうこのまま俺はここで死ぬ覚悟をしていた。


 時々、夢野のインタビューを思い出す。これだけお笑い界で成功したのは、彼のインタビューで、こちらの世界を選択したからなのだろうか? もし、初代大統領を選んでいたら、政治の世界で成功していたのだろうか? と。


 ある日、昼間にうたた寝をして、目を覚ますと、病室に誰も居なかった。


 個室なので見舞客が居なければそんな瞬間もあるのだが、いつも誰かしら来ていたので、日中に人が居ないのは珍しいことだ。


「あっ」


 不思議なことに、ふと気付くと、ベッドの横に夢野が立っていた。


 あれから三十年の月日が経ったのに、彼はあの時と変わらぬ三十代のまま。開いているかどうか分からないくらいの細い目も、あの時のままだ。


「お久しぶりです」


 夢野は笑顔で挨拶してくる。


「ああ、久しぶりだな。元気だったか?」

「ええ、私は体を壊すことはないので」

「あのインタビューの後にな、神守テレビを探したよ。結局見つからなかったな。インタビュー記事もどこかに載っているかと探したが見つからなかった。不思議な話だな」


 俺は夢野がどう反応するのか、興味深く見ていた。俺の話したことは本当の話だからだ。もし夢野にまた会うことがあったら聞こうと思っていたのだ。


「それはお手数お掛けしてすみませんでした。あの時にいろいろ説明するのはルール違反なもので」


 夢野はもう何も隠さないと決めているような話しぶりだ。


「君はいったい何者なんだ?」

「それに答えるつもりは無いですが、もし説明したとしても理解して貰えないでしょう。例えば、二次元に生きる人間に三次元に生きる人間が、どんなに詳しく自分の世界を説明しても、相手にはその概念が理解出来ないのと同じことです」

「この世界を超越した存在ってことか」

「そう思って頂ければ幸いです」


 夢野の正体が何であれ、常識で計れる存在では無いってことか。


「俺がここまでお笑いで成功したのは、君の力があったからなのか?」


 俺はずっと疑問に感じていたことを聞いてみた。今の夢野なら真実を答えてくれそうだ。


「いえ、私はきっかけを与えたに過ぎません。全てはあなたの実力ですよ。あなたは能力が有り過ぎた。お笑い、政界、どちらでも成功する能力があったにも関わらず、どちらにも行けずに、どっちつかずになっていたのです。私はその決断を後押ししただけ。成功したのはあなたの努力の賜物であり、実力ですよ。お陰で私も良い映像が撮れました視聴率も上々でしたよ」


 俺はそれを聞いて、心のつかえが取れた。今まで心の片隅に、今の成功は夢野の力のお陰かと疑う気持ちもあったのだ。死ぬ前に教えてくれた夢野は神様のように思える。事実彼は神様なのかも知れない。視聴率の件はよく分からんが。


「ありがとう。俺はこれで心置きなく死ねるよ。本当にありがとう」

「いえいえ、どういたしまして。それにまだあなたに提案があるのです」

「俺に提案?」

「はい」


 夢野の目が少し開いた気がした。


「あのインタビューの時に、初代大統領を選択していたらどうなっていたか、と考えたことはないですか?」


 当然ある。もしあちらを選択して大統領になれたとしたら、どんな人生を送っていたのかと、当然考えた。もしかして、もっと刺激的な充実した毎日だったのかとも。今までのお笑い界で過ごした日々に後悔は無いが、向こうの道も試してみたかったという気持ちは確かにあった。


「実はですね。あちらのコースも試せる提案があるのです」

「本当か?」


 耳を疑う話だが、夢野が言うならあり得るのだろう。


「ええ、あの選択した直前に戻れるのです。そこで大統領を選んでもらえば、そのコースに行けます」


 凄い提案だ。これでどちらのコースがより充実していたか比較できる。願っても無い話だ。


「頼む。それならもう一度時間を戻してくれ。大統領を選ぶから」

「ただ、一つだけ制約があるのです」

「制約?」

「ええ、もし大統領を選んだら、その瞬間、今までお笑い界で成功した記憶は消えてしまいます。真っ新な状態で大統領コースを味わっていただくのです」

「ええっ!」


 お笑い界の記憶を失くしてしまう。もしそうなると、大統領コースに行って成功したとしても、お笑い界コースに行っていたとしたらどうなっていたのかと悩むことになるだろう。いや、それは楽観的か。もしかしたら、あちらに行ったら悲惨な人生になって、その後はやり直しが出来ないかも知れない……。


 お笑い界で成功した今の人生で満足すべきだ。ギャンブルする必要などない。幸せだったこの記憶を失くしてまで、他の人生にこだわる必要はないだろう。


 ……いや、本当にそうか? 死の間際に絶対に後悔しないと断言できるか? 初代大統領になる人生は魅力的だ。あちらの方が今よりもっと充実した人生なのかも知れない。それを逃して惜しいと思わないか?


 そもそも、今のこの人生は最初なのだろうか? もしかしたら、俺は人生のif(イフ)に悩み、永遠にあちらとこちらを繰り返しているんじゃないか?


「さあ、どうしますか?」


 夢野が細い目をさらに広げて、笑顔で選択を迫ってくる。


 先ほどまで神に見えていた夢野の微笑みが、今は悪魔のそれに見えた。

                                   了

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