珈琲店での一時

砂上楼閣

第1話

駅から徒歩10分ほど。


駅前の喧騒から離れた住宅街。


そこに年配のマスターが趣味でやってる喫茶店がある。


コーヒー好きなマスターが脱サラして始めたと言うその店は、立地もあって客足はそれほどないが、居心地がよくて学生時代からよく通っていた。


それは心の折れそうな就活の最中も、どうにか就職して仕事に追われる日々の中でも続いている。


今日も店に入ると、ゆったりとしたテンポの落ち着いた曲が流れているのが耳に入った。


鼻腔をくすぐるコーヒーの香りも馴染んだもの。


何年も通っているので、マスターとは気軽に会話する仲だ。


「いつものお願いします」


「はい、アイスコーヒーね」


もっともここ数年は、マスターの娘さんが新たなバリスタとしてカウンターに立つことが多くなった。


仕事も丁寧だし、愛想もいい。


マスターの年齢から考えたら年上のはずだが、下手をしたら同い年か年下にも見えかねない、年齢不詳。


娘さんがカウンターに立つようになってから、少しだけ客足も増えたらしい。


娘さん目当ての固定客もいるそうだ。


学生にもファンがいるというのだからすごいものだ。


…………。


さて、そろそろ仕事に取り掛かろう。


まだまだ新人なので、雑用が多い。


任せられている簡単な仕事はなんとか就業時間内には終わるが、雑用までは手が回らない。


期限の近いものは会社で終わらせて、猶予のあるものはこうして休日にこの店で終わらせるのが最近の流れだ。


うっすらと水滴の浮いたグラスを持ち、アイスコーヒーを一口飲む。


よし、集中しよう。


仕事をするなら濃いめのコーヒーのがいいだろうって?


コーヒーは、匂いが好きだけど、飲むのは苦手だ。


別に苦いのがダメなわけじゃないが、飲むなら甘い方がいい。


アイスコーヒーにはシロップを2つは入れる。


頭脳労働をするからちょうどいい。


他の店だとアイスコーヒーの一杯で粘るのは申し訳ないが、この店なら気兼ねなく、リラックスした状態でできる。


新卒の儚い懐事情じゃ一杯のアイスコーヒーを頼むので精一杯……と言うわけでもないけれど。


いつも座る窓際のテーブル席でノートパソコンを開いた。


…………。


子供の頃から夏休みの宿題は最後まで溜め込むタチだった。


雑用も、期限が近くならなければやる気が起きない。


会社の方針で残業は時間が決まってるし、結局家に持ち帰る事になる。


そして家だと作業が進まなくて、いつもここにお邪魔してしまう。


マスターからは、


「ゆっくりしていったらええ。ここはそういう場所だ」


と許可をもらっている。


社会に出たら宿題なんて無くなると本気で思っていた。


仕事が終わるまでも、終わってからも。


常に仕事というより終わりのない宿題をしているように感じていた。


自分の仕事が終われば他の人の仕事の手伝い。


積み上がっていく、終わらせられなくはない量の仕事。


やり甲斐も感じられず、楽しくもない。


まだ、勉強、宿題ばかりだった学生時代のほうが、たくさん楽しみがあった。


今は、この店で飲む一杯のアイスコーヒーと、マスターたちとの交流だけが楽しみだ。


いや、最近はもう一つ楽しみができたんだった。


…………。


溜まった宿題、もとい仕事もひと段落した。


ゆっくりと伸びをして、残ったアイスコーヒーを飲み干す。


「すいません、もう一杯もらっていいですか?」


「はーい」


アイスコーヒーと、あと一緒にケーキも頼む。


頭を使ったので糖分が欲しい。


あと、時間的にそろそろ…


ーーーカラン、コロン…


アイスコーヒーとケーキが届くのと同時に、来店を告げるベルの音がした。


入ってきたのは10代中頃の少年。


慣れた様子でカウンターの奥の席に座る。


話した事はないが、何度か見たことがあった。


いつもカウンターの決まった席に座って、俺と同じくアイスコーヒーを飲んでいく少年。


俯きがちに注目する。


「……いつもので」


「はい、いつものね」


「はぃ…」


ぶっすらぼうに、娘さんの方は見ないようにして。


いかにも興味なさげというか、時間を潰してますといった様子で携帯をいじっている少年。


その目は携帯を見ていないのが、この位置からだと丸わかりだ。


実に、甘酸っぱい。


恋心を隠しているつもりかもしれないが、本人以外にはバレバレ。


ちらちらと娘さんの方を見ているのも、たぶんバレているだろう。


携帯をいじったり、ノートやプリントに書き込んだり。


毎回そんな感じでアイスコーヒーを一杯頼んで、しばらくしてから帰っていく。


カウンター越しに、すぐそばにいるのに、必要最小限のやり取りだけして帰っていく少年。


下世話な話だが、それを見るのが最近の楽しみだった。


…………。


最初は喫茶店に学生が一人だけで珍しいな、というただそれだけだった。


それからはよく見かけるな、程度の興味だった。


それが彼を見かける度に、そしてマスターの娘さんを見る目に気付いてからは、この店で彼に会えるのが楽しみになった。


心地よい場所が、楽しみな場所にもなった。


結局、宿題も、仕事もモチベーション。


楽しみがあるかないかで変わるのかもしれないと考えるようになってからは、多少仕事も楽しくなったかもしれない。


楽しみは見つけるもの。


本当に下世話の話だが、どんな結果になるであれ、あの少年か事は最後まで見守っていきたい。


上手くいかず、苦々しい結果になるか。


上手くいって、甘酸っぱい結果になるか。


宿題(仕事)を早く終わらせて、ゆっくりと。


アイスコーヒーを飲みながら。

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珈琲店での一時 砂上楼閣 @sagamirokaku

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