第1話 お帰り



「——おれ、出て行く」


 蒼の言葉は、関口の心を一瞬で奈落の底に突き落とした。


「ここにいられないんだ。おれ、関口と一緒にいるような男じゃないんだ……」


 蒼は訳がわからなくなっている様子が見て取れた。焦点が合わない瞳は、薄暗い部屋を彷徨ってばかりで、関口を見てはいないのだ。


 関口は駆け寄ると、蒼の腕を掴んだ。


「蒼、なに言っているかわかっている? なにかあったの? どうしたの?」


「ち、違う——っ! おれは、ダメなんだ。おれなんて、おれなんて——」


「蒼、落ち着いて。ちゃんと話さないとわからないよ」


「話なんて、話しなんて——できるわけ……ないでしょう……」


 蒼は涙がたくさん零れていた。ずっと泣いていたのかも知れないということがわかった。


 関口は困惑していた。自分が留守にしていた間、一体、彼の身になにがあったのか見当もつかないからだ。


 今朝電話で話しをした時、もしかしたら、もう何事かがおきていたのではないだろうか? 


 電話口で聞いた、掠れた蒼の声は、喘息の発作などではなかったのかも知れない。


 ——気づいてやれなかった?


 まるで、母親のことを吐露した時のような取り乱しように、ただ事ではないということを理解した。


 気を抜くと、すり抜けて消えてしまいそうな躰を、必死に掴んだ。


 ——離さない。絶対に。


「関口! 離して……っ」


「ダメだ。蒼。ちゃんと話をしない限り、おれが納得しない限り、このシェアハウスの関係性は解消しないからね!」


「でも」


「蒼っ」


 鋭く、そして低い声色で、彼の耳元にそう囁く。蒼は弾かれたように目を見開いたかと思うと、震える視線で関口を見据えた。初めて視線が交わされたようだ。今までの蒼にとって、自分の存在が認識されていなかったのだということが理解できた。


「蒼。、は?」


「——せ、関口……。……お帰り」


 長い沈黙の後、そっと囁かれるその言葉。それは、関口にとって心躍る魔法の言葉——。そして二人にとっても大切な言葉。


「ただいま。蒼。おいで。ちゃんと話をしないと」


 しかし、蒼はかたくなに首を横に振った。我に返ってもなお、混乱している理由を口にしたくないのだろう。


「だめ。あの……これだけは。その」


「どうして?」


「どうしてって……。その」


「それは、僕に関わることなの?」


「違う」


「じゃあ、蒼のことだ。蒼自身のこと? 仕事のことじゃないよね。蒼は仕事で僕に言えないようなことするとは思えないもの。まだまだそこまで星野さんたちに頼られていないし。どうせドジ程度のミスでしょう?」


 関口は探るように蒼を見下ろした。彼は落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。そして、小さく「悪かったね」と呟いた。


「じゃあ、思い当たることは二つだ。恋人でもできたの? おれが邪魔になった? でもそれじゃあ、蒼の言い方は不適当だよね。『関口と一緒にいるような男ではない』ってどういうこと。まさか、犯罪でも犯したの? え!? 人殺しとか……」


 「違う、違う」と蒼は首を横に振り続けている。


  ——じゃあなんだ? 僕に知られて不味いこと。恥ずかしいこと? 犯罪ではないなら、社会的規範で裁かれるようなことだとでもいうのだろうか? 


 蒼の周囲には、同僚以外の人間の影は見て取れない。強いて言えば、家族——。父親、母親、それから……あとはわからない。そうなると……。


「まさか——お母さんのこと?」


「ち、違う……けど」


「じゃあ、……え!? あの。まさか。あの優しそうなお父さんとなにかあったの?」


「違う——」


「じゃあ、なんだ? はっきり言いなよ。蒼のことなんて、たかが知れているでしょう? そんなにひた隠しにしなくちゃいけないほどの秘密が蒼にあるわけ? ねえ。勿体ぶって。蒼がそんなにミステリアスな男だとは思えないんだけど!」


「ひどい! ちょ、ちょっと。なあに、それ。おれにだって秘密の一つや二つ……」


「じゃあ、言ってごらんよ。僕が判断してあげるんだから。お母さんとのことよりも、もっと言えないような秘密、あるわけ?」


「関口……」


 蒼の心が揺れていることは、手にとるようにわかった。

 関口は、絶対に口を割らせると心に決める。蒼には秘密が多すぎる。彼はずっといろいろなものを抱え込んで生きてきたのだ。彼に必要なのは、心の内を誰かに打ち明けること。それが、彼にとっての救いになる。関口はそう信じていた。それが、自分で受け止めきれるものなのかどうかは、わからないが。それでも——。 


 ——受け止めきれなくて、潰されるなら、一緒に潰れようじゃないか。蒼。


 薄暗いままの蒼の部屋で、二人はそこに座り込んだ。暗い部屋、夜というのは、大事な話をするには向かないということを知っている。だが、今じゃないとダメだと思ったのだ。


 蒼は関口から距離を置こうとするが、関口はそれを許したくはない。蒼の腕を掴んだまま、二人は向かい合ってじっとそこに座していた。








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