第126話 「今、意志を掲ぐ」
滑らかな動作で、空へとボールをそっと送り出す。
同時に、膝を曲げて身体を沈め、上体を捻る。
ボールが宙で最頂点に達すると、全身の動きがぴたりと止まる。
その動きは、音もなく引き絞られる、巨大な弓と弦のよう。
時間が止まったのかと錯覚したのは、ほんの一瞬。
ボールの落下とともに、足の裏側から力のさざ波が始まった。
(まるで津波だ)
実際に津波をその目で見たことは無いが、なぜか聖はそう感じる。体重移動と、コートを蹴り上げることで生まれた力が、全身の各部位を伝わって流れ込んでゆく。やもすれば散逸してしまいかねない膨大な力の奔流が、効率的なフォームと絶妙なバランス感覚によって制御、凝縮、伝達され、握っているラケットへと伝わる。
(いけ)
インパクト。束ねた力が余すことなくボールに伝わり、推進力に変換されていく。直径約6.7cmの球体がひしゃげ、変形する。摩擦でフェルトが刮げ落ち、細かい埃のように舞う。ボールは力を得て打ち出され、ストリングスから離れた直後には、もう相手のコートへと、突き刺さっていた。
「15-40」
ゲームカウントは聖から4-2。ポイントは先行されているが、アンディ・ロディックのサーブとフォアがあれば、ゲームキープは揺るがないという自信がある。先ほどカリルがなりふり構わず妨害を連発してきたところをみると、どうやら聖のサーブに対処しきれないとみえる。
(妨害無し。スピーカーはひとつだけか?)
最初のポイントは、
(許さないからな)
仲間を使って八百長を画策し、失敗したとみるや脅迫を仕掛け、あまつさえ試合中に装置を使った妨害行為。初めはなぜ自分が狙われるのか、どうしてそんなことをするのかなど戸惑うばかりだったが、ことここに至っては理由など関係ない。厚顔無恥にも不正を行うカリルに対し、聖は明確な怒りを覚えていた。
「30-40」
続くポイントも強力なサーブでエースを奪う。カリルは反応できないらしく、一歩も動かずにボールを見送っている。想定外の出来事を目の当たりにして、動揺しているのかもしれない。緩慢な動きで汗を拭うのは、打開策を見出すための時間稼ぎだろうか。そんな悪足掻きさえ、今の聖には癪に障った。
(一気に押し切ってやる)
その身に宿す選手の性格や気質が、聖に影響を与えることは経験済みだ。だが今回はいつにも増して、怒りの炎が聖の内側で燃え滾る。自身の怒りと、気性の激しいロディックの性格が共鳴しているのかもしれない。そしてその怒りは、高まっている集中力をより深い次元へと導いていく。
(ここをキープして5-2、次を必ずブレイクする)
カリルのプレイスタイルは、
俗にチェンジ・オブ・ペースとも呼ばれるが、カリルの場合はポイント中のやりとりだけではなく、ゲーム全体に対して緩急を用いている。相手に気取られぬよう、目先のポイントよりも大局的な視点で試合を見通す。勘所を見極め、重要なポイントに集中力を注ぐ効率的かつ頭脳的なプレーを得意としていた。そういうスタイルを得意とするカリルに対し、圧倒的なスピードとパワーで押し切るロディックのようなプレーは、カリルが前提とするダウンペースでのやり取りを強引に捻じ伏せてしまう。カリルにとっては相性の悪い、水と油といえる。
「!?」
サーブの着弾位置は、カリルから最も遠い場所。
にも関わらず、彼はあっさりとボールを捉え、容易に反撃へ転じた。
「Game,Caryl. 3-4」
どよめきと歓声が会場内で入り混じる。
今度は聖が、カリルに視線を向ける番だった。
★
(ハハハッ、こりゃ良いな)
カリルはこれまでにも何度か、
(
若槻が迷うことなくスピーカーに向けてサーブを破壊したのを見て、カリルはピンときた。間違いなく若槻は
(有り得ない。神なんざいない。この世界は、
薬の影響だろうか、カリルは妙に頭が冴え渡るのを感じる。五感は全て若槻とコートの上に向けられながらも、思考と意識は自分の内側に向いていく。自分の中のありとあらゆる経験と知恵を集結させ、より確実に勝利を手にしようとしているのだろう。しかしその過程で、カリルがこれまで理性によって封じていた様々な感情や出来事、思い出が、走馬灯のように駆け巡ってゆく。現実に打ちのめされ、自身に絶望し、その苦痛を取り除く為、彼は道を外れた。
(似た者同士だ、仲良くやろうぜ)
不正の泥に塗れた男は、やけに白いその歯を、ちらりと覗かせた。
★
薄暗く埃っぽい建物のなかで、新星はモニターを前に作業していた。中東の古い建築物は日本の家屋とは異なり、石材を中心とした造りのせいか、やけに寒々しい。室内は床も壁もほぼ大理石が使われ、インテリアは元々その部屋の主だった者の趣味なのか、大型動物の剥製がいくつも壁にかけられている。そして部屋の主は今、頭の上半分を吹き飛ばされて床に転がり、自身も部屋のインテリアの一部と化していた。
ポン、と。
新星の視界の右端に、通知を報せるポップアップが小さく浮かぶ。
「フム」
新星が視線をそこへ動かすと、身に着けたゴーグルのレンズ中央に情報が展開される。どうやら、被験体のひとつが情報集積を始めたらしい。内容にさっと目を通し、再び視線を動かして『経過観察』のタグをつけてから非表示にした。作業を続行しようと、散らかったデスクのうえにあるモニターへ意識を向けると、隣の部屋からくぐもった銃声が三つ聞こえてくる。
「教授、脅威の排除ガ完了しましタ」
背後からマリーが呼びかける。彼女の左手には、奪ったものと思われる拳銃が握られ、銃口からはうっすらと細い硝煙が立ち昇っていた。新星は振り向くことさえせず、よろしい、と呟いた。
「アチラの処分は、保留さレていまス。実行には再度命令が必要でス」
マリーが示した場所には、四肢が千切れてダルマのようになった壮年の男が転がっていた。口にはボロ布が突っ込まれ、千切れた両腕と両足には、接着剤や噛み捨てたガムのような粘性の塊が覆っている。血の気の引いた顔は真っ青で、脂汗に塗れて息も絶え絶えといった様子だが、まだ辛うじて意識を保っていた。
「あぁ、そうでした。忘れていました」
そういって新星は立ち上がり、男に近づく。
気配を感じた男は苦悶の表情を浮かべ、わずかばかり首を向ける。
「貴方がたゴロツキが、アーキアの粗悪品をバラ撒いた件について、私から何か咎めることは致しません。なにやら基礎理論を元に模倣してでっち上げたようですが、正直いって落第点です。あんな出来栄えでは、使用者は片っ端から廃人になるか死ぬのがオチです。いえ、それ自体は別によろしい。研究には犠牲がつきものですからね。ただ何より私が許せないのは、そういう犠牲を無駄に量産してしまうことです。貴方がたは、失敗を成功の糧にしようとしない。研究資源を闇雲に消費するなんて、馬鹿げているとは思わないのですか。まぁ、そう思わないからやっているのでしょう。いやはや嘆かわしい。仮にも科学の徒とあろう者が、目的もなくそのような愚行に時間を費やすとは。足踏みなど言語道断ですよ。例え一時的に後退することがあろうとも、科学は常に前へと進んでいかねばならないのです。その為には、挑戦を恐れず、失敗から学び、成功へと続く道程を模索しなければ」
転がっている男は、新星の言っていることを聞いているのか聞いていないのか、ただ媚びへつらうように、どうにか首肯して同意の態度を示そうとしている。ボロ布を口に突っ込んだまま、その通りだ、私が間違っていた、貴方が正しい、だからどうか、どうか命だけは。そんな表情と涙を浮かべながら、男は全身全霊で慈悲を乞うている。それを知ってか知らずか、新星はなおも長広舌を続けた。
「せっかくバレないドーピングとして、アーキアの粗悪品をあちこちにバラ撒いたのであれば、その使用データを集積しておくに越したことはありません。これまでアーキアは適性を持つ人間にのみ使用し、できるだけ効率よく信頼性の高いデータを元に研究開発、改良を重ねてきましたからね。しかしやはり、試行数によるデータの集積も必要でしょう。特に、正規のアーキアに何やら大きな欠陥が見つかったのは、本来初めにするべきだったそういう虱潰しのような作業をスキップしたからだと私は考えています。手順は逆になってしまいましたが、それは今からでも遅くはない。既にご存じでしょうが先日、貴方がたが粗悪品を生産する研究所にお邪魔しました。その際、応急処置的に私の方で粗悪品の一部を改良して差し上げましたよ。残念ながら、正規版にアップデートしたのではなく、データ集積用にモデルチェンジしただけですが。被験体が途中で廃人になってしまわないよう、
言いながら新星は、床に転がった男の前にしゃがむ。
胸ポケットからアンプルを取り出し、ふと注射器が無いことに気付いた。
「あぁ、失念してましたね。じゃあまぁ、これでいいか」
男の眼球に、ガラス製のアンプルが突き刺さる。
絶叫はボロ布に遮られ、くぐもった声が僅かに響く。
「こっちはアスリート用とは別です。まだ試験運用段階ですらありませんが、近いうちに同程度のクオリティまでこぎつけられるでしょう。あなたの貴い犠牲、もとい、協力に期待していますよ」
両腕と両足、そして片目を潰された男を放置し、新星はそこを後にした。
★
「Game,Wakatsuki. 7-5 2nd set Wakatsuki」
カリルの打ったボールが、ネットにかかった。
セットカウントが並んだことで、観客は大いに盛り上がりをみせている。
(危なかった。けど、なんとか繋ぎとめたぞ)
一方、後が無かった聖は心の底から安堵していた。予期せぬリターンエースを被弾したことでブレイクを許し、リザスを使っているにも関わらずカリルにキープされ、スコアは一度イーブンにされてしまった。終盤を互いにキープしあい、僅かなチャンスをどうにか聖がモノにして、やっと試合を互角の状況に戻すことができた。
(間違いない、カリルはドーピングしてる)
リザスの力が最大限使えていないことを差し引いても、カリルのプレーが常人離れしていることは明らかだった。明確な根拠は何もないが、準決勝で戦った相手のイヴァニコフ同様にカリルも薬を使っていると、聖にはハッキリわかる。
(予想以上に、時間がかかっちゃってるな)
リザスの使用に伴う代償は、その使用時間に比例する。さらに、聖の身体的強度を大きく上回るような能力の場合、本来の出力よりもリサイズされてしまう。スピードとパワーを武器にしているロディックのような選手は、フィジカル的にも優れているため、聖としてはできるだけ短い使用時間に抑えたいのが本音だった。
(でも、ここは退けない)
例え猛烈な代償が伴おうと、聖は負けたくなかった。数々の不正行為を駆使して安易に勝とうとする相手を、どうしても許せなかった。自分が被害に遭ったことも大きな理由として存在するが、なによりも感じたのは、一種の同族嫌悪だ。
春菜を一人にしないためには、彼女と同じレベルの舞台に立ったうえで、周囲にそれを認めさせる必要がある。そう考えて聖はテニスの世界へと身を投じた。今にして思えば、安易な考えだったように思う。わざわざ自分がテニスのプロにならなくても、春菜の傍で彼女を支える方法はあったかもしれないのだ。しかしとはいえ、春菜の抱えていた孤独は、単に聖が傍にいなかったことだけではない。彼女の望みは、彼女が大切に想う人と一緒にテニスをすることだ。ウィンブルドンで初めて世界を制した日本人ペアのように。彼女の願いを叶えるために、聖は本来の道筋から外れたルートを選んだ。それはつまり、聖の願いでもある。自分の願いを叶えるため、という大義を掲げて、能力を手にしたことに他ならない。
(本来持ちえない力を使って、勝負の場に出る。その事に僕はずっと負い目を感じてたし、今だってそうだ。公平じゃない。例えそれが証明できない類の力であっても、やっぱり僕は本来、ここにはいちゃいけないと思う。能力を使うのは最小限に抑えて、仮に使うとしても、その時の試合で相手に何かしらメリットがあるなら、って言い訳してた。でも)
跳ね上がるボールを叩き返しながら、聖は思い浮かべる。
小さい身体で、懸命にプロを目指す同世代の選手。
父親と同じぐらいの年齢になっても、テニスへ情熱を注ぐ愛好家。
国ごと理不尽な不遇に見舞われながらも、再起を図る海外の選手たち。
思いを燻ぶらせ、遂にはその身を切り落としてまで進もうとする先輩。
それぞれがそれぞれの想いを胸に秘め、自分たちのステージで人生を懸けて真剣に戦っている。彼らの生きる舞台へ同じようにあがり、彼らの生きざまを間近で目にしてきた聖は、彼らこそがこの舞台の主役だと確信している。そんな彼らの気高い生き様を、心の底から尊敬するようになった。だからこそ、彼らが目指す栄光の舞台に、自分や、平気で不正に手を染める者の存在は必要ない。いてはならない。そう強く感じた。
(オマエみたいなやつを、のさばらせてたまるか)
その身に宿す叡智の力と、己の決意を滾らせた一撃が、コートを
カリルのサービスゲームを聖が先にブレイクし、試合の趨勢が傾く。
「Game,Wakatsuki. 4-2」
歓声が響き渡るなか、聖は静かに、その拳を掲げた。
続く
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