第125話 「アメリカン・ヒーロー」
試合を中断させた雨は、どうやら一時的なものらしい。それほど間を置かずに再開できそうだと、スタッフが無線でやり取りしているのが聞こえた。ということは、さっさと気持ちを切り替えるなり方針を見直すなりしないと、悪い流れを断ち切れないかもしれない。聖はひとまずシャワールームへ行き、冷水を浴びて予備の真新しいウェアに着替えた。まずは、変えられるものを変えて気分を一新する。
(あの音、明らかに気のせいじゃなかった)
プレイ中に聞こえた、不快なノイズ。観客の誰かがうっかり鳴らしてしまった、などという生易しいものではない。明らかに妨害を意図していたと感じられる音だったと、聖は思っている。しかしそれを聞いているのは、どうやらコートの上では聖だけだったらしい。主審の言葉だけではなく、観客の反応から見ても、恐らくそれは事実なのだろう。客観的に状況だけみれば、聖が自分のミスを別の何かのせいにしているように見えなくもない。やるせない気分で小さくため息を吐くと、手元に置いていた携帯端末がメッセージの受信を報せる。日本にいる奏芽からだ。
奏芽:パラメトリックスピーカーかも
控室に戻ったあと、聖は日本にいる奏芽に助言を求めた。試合中は他者からのアドバイスを受けられないのがテニスのルールだが、何らかの理由で試合が中断している最中はその限りではない。仮に何一つヒントが得られなかったとしても、聖は自分の今の状況を誰かに伝えたかった。原因の究明よりも、まずは気持ちを落ち着けるために。しかしそこは頼りになる優秀な友人。どうやら聖の説明から、何が起きたのか推察できたようだった。
聖 :なにそれ?
奏芽 :指向性スピーカー。任意の方向にだけ音を飛ばす装置
短い説明だが、聖は腑に落ちる。その機器に関する知識はないが、これ以上ないほど正確に今の状況を説明し得るものだ。そんなものが存在するなんて知らなかったし、それが妨害を意図して自分に向けられて使用されるなど、聖は夢にも思わなかった。
奏芽 :高周波帯なら範囲をかなり絞れるし、ヒトは年齢によって可聴域が変わるからな。元々はスラムの治安改善とか、対テロ対策の非暴力兵器として使われたりしてる。しかしまぁ、スポーツの妨害に使うヤツがいるとはね。
聖 :観客席から僕を狙ってるってこと?
奏芽 :その可能性も無くはないけど、機器の構造的に難しいんじゃねぇかな。仮に観客席から狙うとしたら、そいつを中心に周りの席も犯人たちで固めないといけない。いくら指向性スピーカーといっても、対象にだけ聞こえるわけじゃないし。音の向きを可能な限り絞るだけだ。あるとすれば、観客席よりもコートに近い位置に設置されてるとかだろうな
「コートに近い位置?」
聖はてっきり、観客席からの妨害だと思っていた。頭の中で試合会場を思い浮かべてみる。あんなだだっ広いだけのコートに、そんなあからさまな機器が設置されているなどということが有り得るだろうか? そしてふと、ラインに囲まれたコートだけではなく、コートと観客席を隔てる壁や枠の存在に思い至る。
「まさか」
コートを囲う壁面には、大会協賛のスポンサー広告を映すスクリーン、動画配信をするためのカメラやマイクがある。また、試合を円滑に進めるためのボールパーソンも数名が常に控えている。コートの上では対戦相手と一対一だ。しかしよくよく見ると、選手の間近には他者の意志が介在し得る要素が意外なほど多い。そこを利用しているのだとすると、これほどタチの悪いものもないだろう。
――じゃ、いい試合をしよう
試合前、対戦相手のカリルは聖にそういった。
(なにがいい試合、だ)
ウズベキスタン人の顔つきは、日本人のそれとよく似ている。その類似性に少なからず好感を覚えそうになったのを、聖は思い出す。そしてそのことが、却って聖が持っていたカリルへの警戒心を高め、さらには嫌悪感に変えていく。
――怒らせちゃまずい連中を、怒らせることになる
そういって、フードの男は聖を脅しにかかった。その連中とやらの存在については、
――憶えておけ。そっちにも、敵は潜んでいるぞ
(なにが敵は潜んでいる、だ)
聖は明確に自分が腹を立てていると自覚する。正直いって、スポーツバブルの影で不穏な動きがあるという事実に対し、聖はまだどこか他人事であると感じていた節があった。マイアミでの誘拐は確かに強烈な経験だったが、あの件は実行犯であるエディたちとロシアンマフィアとの諍いに、たまたま聖やミヤビが巻き込まれた、という印象が強かった。だが今回の、アゼルバイジャンでの出来事は違う。明確に聖が狙われて脅しをかけられ、あまつさえ試合中に妨害までされている。決定的な証拠があるわけではないものの、聖の心証としては確信に足るだけの要素が数多くあった。彼らは間違いなく、不正行為に手を染めている。そしてそれは、果てしなく高い頂点を目指そうとする多くの選手たちへの、明らかな侮辱に他ならない。
「若槻選手、お待たせしました。まもなくコートドライが完了します」
奏芽から送られてきた最後のメッセージを読んでいると、スタッフから声をかけられた。聖は簡単に返信してすぐ、ラケットバックを背負いコートへ向かう。通用口を出ると、観客たちが拍手で聖を迎える。カリルは先に来ていたらしく、既にベンチに腰かけて準備を整えていた。中断に伴い、再開前に5分間のウォーミングアップ時間が与えられ、聖とカリルは軽くラリー練習をして感覚を調整。頭上の雲は相変わらず厚いままだが、先ほどまでのような暗い雨雲は見当たらなかった。
「試合を再開します。カウント2-2。第5ゲーム、若槻選手のサービスから」
主審のアナウンスと共に、試合が再び始まる。
(どれかは分からない。けど、それらしいものは確かにあるな)
会場全体をざっと見渡すと、怪しく思えるものが目に入る。
しかし今はまだ、それについてどうこうできる場面ではない。
(いずれにせよ)
ボールを受け取り、聖はサーブの準備に入る。
ネットの向こうでリターンの構えを取るカリル。
(絶対に負けてやるもんか)
腹の底から湧き上がる怒りを理性で御しながら、聖は小さく呟く。
「マクトゥーブ」
そして身に宿す。
小賢しい策謀の一切を蹴散らす、圧倒的力を。
★
ファーストセットを予定通りのスコアで奪取できたカリルは、試合が雨で中断されても特に何も感じなかった。むしろいいタイミングで雨が降ってくれたことをありがたく思っていたほどだ。パラメトリックスピーカーによる妨害音波で調子を崩したらしい若槻は、恐らくこのまま立ち直ることはないだろう。もしかすると、何が起きているのか想像すらついていないかもしれない。ただ、若槻の方はいいとして、ロシアンマフィアから要求されているセカンドセットのスコアプランは7-5だ。そういう意味では、少し使うタイミングが早すぎたかもしれないなと、カリルは状況を分析する。
(むしろ、わざわざ仕掛けを使う必要もなかったかもな)
カリルは視線を動かすことなく、会場の設備に意識を向ける。会場内には、試合中の映像と音声を拾うカメラとマイクが何箇所か設置されていた。そのなかのいくつかに、ロシアンマフィアから購入した小型で遠隔式の
(しばらく普通にキープし合って、仕上げにもう一度だけ鳴らすか)
若槻の実力を、カリルは完全に把握していた。弱くはないが、それほど強くもない。いやむしろ、この決勝の舞台にあがってこられるほど強いとは思えず、それが少し不思議でもあった。とはいえ勝負は時の運だ。調子の良し悪しや、相性の合う合わない、時には偶然のできごとなどが勝敗を分かつ。積み上げてきた努力の量や、試合に懸ける想いの強さは関係ない。勝敗はいつだって無慈悲に、残酷に、理不尽にやってくる。
(とはいえ、どう足掻いても、ここは勝ってなんぼの世界なのさ)
スポーツバブルが訪れる以前は、その傾向が今よりもずっと顕著だった。世界ランキング100位以下の選手たちは、国籍関係なく誰も彼もがテニスだけで食っていくのが難しかった。テニスは様々なスポーツと比較して、大会ごとの平均賞金額が高い。開催数も多く、年中世界のどこかで試合が行われている。ただ、賞金だけで生活にかかる費用と、プロ選手としての活動を維持するのは困難を極める。大半の選手はサポートしてくれるスポンサーがつかなければ、とてもではないが満足に活動できない。実力や才能があっても、資金が足りなくて道を切り拓けないという選手は、存外に多い。火の車のような生活を続けていくうちに、やがて本来の目的を見失う者がいても、それは不自然なことではなかった。
(頂点を目指すだけが最良じゃないんだよ。そもそも、頂点を目指すには実力不足なんだよ、オレもオマエもな。せいぜい賑やかし程度のエキストラがいいとこだ。とてもじゃないが、
初めて世界ランク1位の選手と対戦したとき、カリルは思い知った。そして彼にとってテニスが金を稼ぐための手段となったとき、情熱は自信とともに完全に失われた。不当な手段を用いるようになってからは、なおさら彼の心は冷えていった。
(とっとと終わらせよう。顧客の機嫌取りもしなきゃならねぇ)
若槻が構え、高くトスを上げる。それを見ながら、試合後にロシアンマフィアとどう交渉したものか、などと思案するカリル。だが、その思考は唐突に凍りついた。カリルの瞳が映していた若槻の姿、仕草、或いは雰囲気。とにかく、視覚情報として処理していた対戦相手の小さな
「ッ!?」
轟音とともに放たれたサーブが、サービスボックスのコーナーに突き刺さる。その瞬間の映像は辛うじてカリルの目に映っていたが、身体は全く反応できなかった。より正確にいうならば、視覚情報が脳内で変換されて意識へと届く前に、ポイントが終わっていたのだ。
(は……?)
ボールが転がったその先に、サーブの速度を表示するディスプレイがあった。
そこに映し出された数字を見て、カリルは自分の目を疑う。
243km/h
馬鹿げた数字だった。カリルの戸惑いと驚愕に同調するかのように、観客たちも驚き言葉を失い、動揺が広がっていた。そしてそれは、やがてカリルを置き去りにして大きな喝采へと変わっていく。主審が観客へ静かにするようアナウンスをするが、歓声はしばらく鳴りやまない。
(なんだ、どういうことだ)
カリルは思わず、若槻へと視線を向ける。
そこには、大歓声を背に無表情で自分を睨みつける、日本人がいた。
★
<やるじゃん。リサイズされてその速度たァな>
好戦的にアドが笑う。聖も内心では驚いているが、それどころではない。その身に宿した力の主は、溢れんばかりのエネルギーを漲らせている。聖が油断すると、その人物に身体を乗っ取られるのではないかと錯覚しそうになるほどだ。以前、モザンビークで現れたアグリのように、聖の意識と独立してしゃべり出すということは無いが、しかしそれでも「さぁ早く次を打たせろ」と要求しているかのように、聖の意志を無視して急かしてくる気がした。
彼は、20世紀のテニス界で覇を唱えた
サーブとフォア、二つの一撃必殺で他を捻じ伏せる、究極のパワーテニス
頭角を現し始めた
その男の名は
彼がグランドスラムの一角、全米オープンを2003年に制して以降、2024年の現在に至るまで、未だその偉業に届いたアメリカ人選手は現れていない。ロディックは今もなお、世界中の多くのテニスファンの記憶に残り愛され続けている、由緒正しき、アメリカン・ヒーローだ。
★
驚異的なサーブを打ち放つ若槻に対し、カリルは成す術を持たなかった。偶然コースが当たってどうにかリターンに成功しても、打ち損なって返球したボールを、サーブと遜色ない威力のフォアハンドで打ち抜かれてポイントを
(なんだってんだ、いきなり)
こんな豪快なパワーテニスをする選手じゃない。少なくとも事前に収集していた若槻の情報から鑑みるに、こんなプレーは有り得ない。有り得ないが、現実問題として今カリルは、若槻の暴力的といって差し支えないパワープレーに、いいようにやられてしまっている。
「……」
ボールボーイの一人が、不安そうにカリルを見る。
(クソが、こっちを見るんじゃねぇよ。誰かに気付かれたらどうする)
視線を合わせないようにしながら、胸中で毒づく。パラメトリックスピーカーによる妨害は確かに有効だが、乱用できるものではない。下手に使って観客やスタッフにバレるわけにもいかないし、音が来ると若槻に常に警戒されたら効果が薄れてしまう。
(だが、そうもいってられねぇ)
カウントは若槻からみて4-2とワンブレイクリードされてしまった。ここでまたあの馬鹿げたサーブを連発されるとまずい。カリルは苦虫を嚙み潰したような気分で、人差し指を耳に突っ込むフリをする。それがボールボーイへの合図だった。狙うは、若槻がトスをあげた直後。多少露骨でも、今はブレイクすることが最優先だと考えた。
若槻がトスを高くあげる。よく見ると、これまでと少しフォームが違う。身体のバネを効率よく使っているのか、予備動作がシンプルになっている。これがヤツの本来のサーブモーションなのだろうか。今まで温存していたのか? なんのために? カリルがそんなことを考えていると、激しい打球音と共に放たれたサーブがネットの白帯に当たる。その衝突音は、ボールが破裂したのかと思うほどだ。その音が2度続いて、ようやくカリルはポイントを得る。
(……抗議しないのか)
連続でパラメトリックスピーカーによる妨害を実行したが、気にする様子もなく、若槻は無表情のまま。さすがにもう勘違いだとは思っていないだろう。だが、彼はそのことについて審判へ主張しようとしない。若槻の心根を計りかね、カリルは次をどうするか逡巡する。そしてすぐに、カウントを調整する方を優先すべく、もう一度ボールボーイへと合図を送った。
(ポジションが教科書通りで助かるぜ)
パラメトリックスピーカーはその性質上、音を直線でしか飛ばせない。隠ぺいの必要性から、効果範囲はあえて絞られており、そのため対象者が適切な位置にいるときでなければ効果が弱くなる。その点、若槻のサーブポジションはオーソドックスな場所だったため、高い効果が期待できた。事実それは、充分過ぎるほどに発揮されていた。向けられた者が
若槻がトスを上げる。
その時点で、カリルはまたもや異変を感じ取る。
(トスの位置が?)
疑問は次の瞬間、驚愕と破壊音で塗り潰された。若槻の打ったサーブは、サービスボックスではなく、まるで見当違いの方向、コートサイドにある壁に向かって放たれたのだ。ボールは弾丸のように水平軌道で直進し、放送用機材の
「ッ!」
再び会場にどよめきが起こる。どう考えても、若槻はそこを狙ったように見えたからだ。動揺と困惑に包まれる観客たちとは異なり、対戦相手のカリルだけが唯一、若槻の打ったサーブの意図を正確に理解していた。
「ハハッ」
思わず乾いた笑い声をあげるカリル。そうか、そうかよ。
(意外だな。オマエもオレと同類だったとは)
観客や主審の注意が、壊れたマイクに向く隙を見て、カリルはポケットに手を伸ばす。そして鈍色の指輪を取り出し、嵌める。金属に絞めつけられた指の付け根から、さざ波のように冷たい感覚が全身へと広がってゆく。
「じゃあ、
両者の視線がぶつかって、見えない火花が飛び散った。
続く
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