第117話 「あの雲が通り過ぎたら」

 あまりに明確に聞こえた声が、菊臣の頭で反響していた。


――勝つ為といいながら、戦うことから逃げている


 その言葉は、以前どこかで聞いたものだっただろうか? 或いはもしかすると、菊臣自身がずっと前から、心のどこかでそう感じているものだったのか。由来がなんだったにせよ、その言葉は、随分と前に菊臣が心の奥底へと封じ込めたなにか・・・を思い出させた。菊臣は慌てて、それが漏れ出さないように蓋を閉める。


(ふざけんな、オレは逃げてなんかねぇ。クソみてぇな理不尽を乗り越えるために、自分にできる全てをやり尽くそうとしているだけだ。これまで散々やってきた努力を、運が悪かったってだけで台無しにされてたまるか。怪我なんぞで全てが台無しになるぐらいなら、リスクを負って破滅する方がマシだ)


――キクさんなら、このぐらい乗り越えられますよ


(徹磨、お前は恵まれているからそんなことが言える。裕福な実家に生まれて、恵まれた才能を持って、最高の環境で研鑽を積むことができたから、そんなセリフが吐けるんだ。そりゃあオレだって、世間一般と比較したら才能はあっただろう。だが、オレの才能はプロで通用するほどじゃあなかった。オレが目指したのは、プロになったその先だってのに。そこへきて、あの怪我だ。ただでさえ凡人のオレが背負うには、あまりに大き過ぎるハンデだった。若いオマエと違って、ゆっくり時間をかけて復帰するってワケにもいかねぇんだ)


――無理しないで。身体が壊れたら、元も子もないよ


(サナ、無理しなきゃダメなんだよ。オレみたいな凡人が天才どもと同じ舞台で戦うには、出来ることは全部やって、無理をしなきゃならない。環境の違いや才能の差を埋めるには、ありとあらゆる手段を使って挑む必要がある。それこそ、どんな手を使ってでも)


――勝った者だけが全てを手にできる。勝つことが全てなんだよ


(金俣の言う通りだ。プロは結果だけが、勝つことだけが全てだ)


「Game,Wakatsuki. 4-2」

 主審がカウントをコールする。

 ブレイクを許し、先行される菊臣。

 タオルで汗を拭いながら、意識はそれ・・へと向かう。


(プロは勝つことが全て。結果のみが重要なんだ)

 周りから気取られないようにしながら、ポケットへ手を伸ばす。

 指先が硬いものに触れ、その存在を確かめる。


(こんな所でウダウダやってられるか。悪く思うなよ、若槻)

 暗い闘志を奮い立たせるつもりで、菊臣が若槻に視線を向けた、そのとき。


「――ッ」

 若槻と、目が合った。それは、それだけのことのはずだった。しかし、菊臣は言葉を失い、動けなくなってしまう。若槻の瞳にはまるで、全てを見透かしているかのような色を湛えていた。菊臣がその視線に感じた印象をそのまま言葉にするなら、まるで若槻ではない別の誰かに、菊臣の罪を咎められている。そんな気がした。


「渡久地選手、リターン位置についてください」

 主審に声をかけられ、ハッとする菊臣。

 慌ててタオルをボールパーソンへ渡し、位置につく。

 取り出そうとした彼の奥の手は、まだ仕舞われたままだ。


(クソ……)


 言葉にならない焦燥感が、菊臣の胸中を占めていた。


           ★


<ようやく機が熟したか。まったく、待たせよって>

 そのセリフを最後に、聖はアグリの気配が消えたのを感じた。

 より正確には、彼の魂が自分と重なったと実感する。


(これは、どういう……?)

撹拌事象ボーナスタイムってこった。良かったな>

 投げやりにいうアドだが、いまいち聖には状況が掴めない。


<簡単にいうと、オマエが自力で能力を使うタイミングと、撹拌事象が起こるタイミングがかぶったンだよ。そのせいで、説教ジジイが保留状態ペンディングになった。まァ要するに、さっきまでのオマエは能力をカラ打ちしてたようなモンだ。呼び出したはいいが、使えてなかったってこったな>

(思いっきりアドバイス受けて、その通りやったんだけど)

<しらね。とにかく、ここからはいつも通りだ。せいぜい気張れや>


 一体なにがどういう条件でそうなったのか、聖には当然知る由もない。分かることといえば、テニスに関する様々な戦略や戦術、聖には思いもよらない考え方やアイデアが、頭の中で渦を巻いている感覚があることだけ。いつもは体中に力が漲る感じだが、今回は頭が冴え渡っているように感じる。偉大なる卑怯者ウイニング・アグリーの頭のなかには、これほどまでに幅広い叡智が詰まっていたのかと、驚きを隠せない。


(渡久地さん、戸惑ってる?)

 対峙する相手を見ただけで、不思議とそれが分かった。明確な根拠はない。だが、渡久地の表情はもちろん、眼球の動き、呼吸のリズム、立ち方の微妙な変化、身体の傾き。そういった五感を通して入ってくる様々な情報が、聖に渡久地の状態を正確に読み取らせた。


(違う。相手は精神的に弱っている。仕掛けるならここだ)

 自分の頭で考えていることに、別の存在の声が重なっているような感覚。

 アグリは消えたのではなく、まさに今、聖の魂と一体化しているのだろう。


(今はまず、この試合に勝て。さぁ、いけ)


 迎えた2ndセット第7ゲーム。カウントは4-2で聖の1ブレイクアップ。ここをキープすればこのセットの聖の優勢は揺るがない。ただサーブ側はチャンスであると同時に、プレッシャーのかかる場面だ。テニスには「キープするまでがブレイク」という格言がある。サーブが有利であることは確かだが、ブレイク後は相手のブレイクバックを食らいやすいものだ。


(ファーストポイントは重要だ。まずは確実にいけ)

 聖はファーストサーブを菊臣のボディへ。スピンをかけ速度を落とし、変化を重視。よほどリターンに自信のある選手でもなければ、ファーストサーブから攻撃を仕掛けてくる選手は多くない。守勢に徹しミスを抑え、まずはラリー戦に持ち込んでサーブの有利を帳消しにしようとするのがセオリーだ。


(そこへ、敢えて速度を落とした変化重視のサーブでボディを狙う。反応の良い選手ほど素早く回り込み、攻撃へと繋げようとするからな。だが冷静な選手なら、どう変化するかを見極める為に一瞬だけ間を取るもの。例えハードコートであろうと、ボールの状態や回転数によって変化が異なるからだ。ただでさえ守りから攻めに転じようかという間に、バウンド後の変化に備える間が重なって、嫌でも相手は後手に回る。だから、その隙に――)


 変化を見極めんと、渡久地の意識がボールに集中するその瞬間、聖はネットへ向かって距離を詰める。渡久地の視界に入っていても構わない。既に集積している渡久地の傾向から、カウンターを食らいやすいボディショットや、リスクの高いパッシングは狙ってこない可能性が高いと考えられるからだ。


(選択肢は6種。左右共に15%、正面10%、足元20%、右上方5%、左上方35%)

「!」

 聖の接近に気付いた渡久地は、最も無難な手を選択。しかし、僅かな焦りが手元を狂わせ、渡久地の狙いに反して、聖の右上方へとボールが上がってしまう。打った瞬間、ミスを犯したと渡久地は内心で舌打ちする。だが予想を裏切られたと感じたのは聖も同じだった。


(想定内だ)

 聖の思いとは裏腹に、身体は自然とボールに対し適切な距離を取っている。ネットに詰め切ることなく、上がった甘いロブの着弾点に先回りして、しっかりスマッシュを叩き込んでポイントを決めることができた。


(確率はあくまで、相手が狙うであろう場所の確率だ。実際に来る場所を予想したものではない。狙ったところと違う場所にボールが飛ぶなんていうことは常に起こる。今の場面、お前が打たれて一番厄介だったのは左右のパッシングだ。現状のお前のサーブでは、相手がこの男でなければ簡単に右か左を抜かれていただろう)


 アドが話しかけてくるのとはまた違う、自分で自分に語り掛けるような感覚。それでいて自分には無い発想や考え方が思考の根拠になっている。テニスをしている自分と、それを上空から見ている自分が同時に存在しているような、或いは、小説を読んだ後に地の文が頭で聞こえてくるような、そんな不思議な感じがした。


(イレギュラーがあったせいかもな。意識が完全に一致しないのは。まぁしかし、恐らくは大差無い。お前もやり辛さは感じていないはずだ。さて、大事なファーストポイントを獲ったぞ。幸いなことに、今は西日になる太陽も雲で隠れている。今のうちだな。やはり力押しではなく、相手の苦手とする場所を狙いながら、ジワリジワリと攻め立てるのがテニスの醍醐味だ。そう思わないか?)

 力押しではないという言葉に、聖は思わず笑いそうになる。確かに、彼のテニスに突出したパワーや、芸術的なテクニックは無いだろう。この男の長所が、戦略や戦術にあるという点には聖も同意する。だが実際に彼の力を宿してみて、聖はその作戦実行能力の高さに舌を巻いた。ボールのコントロールや、配球の精密さ、安定感が桁違いに高いのだ。確かに力押しではないが、物理的なパワーにはない、別種のいやらしさがある。数多くの選手たちが彼を忌み嫌ったというのも、実に頷ける気がした。


「Game,Wakatsuki. 2nd set 6-2」


 鮮やかなゲーム運びで、2ndセットを聖が奪い返した。これでセットオール。試合はファイナルセットへもつれ込んだ。聖は渡久地の表情を窺う。動揺と躊躇い、そして落胆が読み取れる。それは、セットを落としたことだけが原因ではなさそうだった。


(さて、仕留めるぞ。勝利までもう少しだ)

 その言葉を合図に、聖は胸に宿りそうだった迷いを、タオルで拭い去った。


           ★


 オレは一体、どこで間違えた?


 決まっている。あの男の口車に乗ったときだ。


 いいや、違う。


 トレーニングをおざなりにしたせいで、誤魔化しの利かない怪我をしたときだ。


 いいや、違う。


 コーチのいう事を聞かず、己の才能を過信して海外に挑戦すると決めたときだ。


 いいや、違う。


 自分の限界に気付いていながら、そこから目を逸らしてプロを目指したときだ。


 いいや、違う。


 何もかもが間違っていたんだ。


 オレには、何もかもが足りなかった。


 才能も、努力も、覚悟も、環境も、運も。


 プロとしての道を歩むには、多くの物が足らなかった。


 高く飛びたかった。誰よりも高く。幼い頃に見た、栄光の舞台で活躍する選手のように。遥かなる高みを目指し、自分もまた同じようになりたいと、憧憬を抱いて離さなかった。しかしオレに才能の翼はなく、いつまで経っても目指した所に辿り着けない。挙句に怪我を負い、道は閉ざされたかのように思われた。


――勝つことが全てだ。その為なら何をしても許される


 自分でそう思ったのか、誰かに唆されたのか。そんな事は問題ではなかった。

 結局オレは、自らの意志でそれを肯定し、選択し、実行したんだ。


――グランドスラムでの初勝利おめでとう。相手は暫く、便所で寝泊まりだな


 知らされていない謀略だった。自分が手を汚すだけなら、きっとまだ耐えられただろう。だがそれでも、オレはつい口を噤んでしまった。その方が都合が良かったから。あんなにも目指したかった遥かな高み。ようやく目前に迫ったかと思えば、黒く分厚い雲に隠れて、見えなくなっていた。ローランギャロスの土の色さえ、ハッキリと思い出せない。その時に悟った。あぁ、もう二度と、オレは見たかった景色を見られないんだろうと。それが分かったら、何もかもがどうでもよくなって、ただひたすら、暗雲のなかを彷徨った。あの男のように、自分は覚悟を決めたのだと言い聞かせながら、ただ彷徨った。


「Game,Wakatsuki. 3-0」


 そいつは、下の方から上がってきた。まだプロの厳しさも過酷さも知らない、足元も覚束ないヒヨッコだ。それでもそいつはヒヨッコなりに、真面目に、愚直に、しかし覚悟を持ってこの世界に飛び込んできたらしい。無難な道を選ばず、目標に向けて最短距離を進もうとしていた。自分の才能の限界を知らない、バカなやつだと思った。まるで昔の自分のようだ。同気相求の念から情が沸いたのか。それともこんなやつに足元を掬われるわけがない、という過信が強かったのか。わざわざ本気で潰す必要などないと思い、クスリを使わない今の自分の力を試す踏み台にしようと考えた。


 とんだ誤算だった。ヒヨッコは、あっという間に成長を遂げて若鳥となり、悠々とオレに並んでみせた。引きずりおろしてやろうと思っても、もう遅かった。自分の甘さにほとほと嫌気が差してくる。なにがどんなことをしてでも勝つ、だ。勝利こそ全て、だ。散々手を汚してきたクセに、今さらなにを躊躇っている。


「トグー! ファイトしろ!」

「まだやれるぞ! マプートの英雄だろ!」

「オマエに賭けてんだ! 頑張れ!」


 粗野な声援が聞こえる。そういえば、モザンビークのオールカマーズは唯一、オレが自力で優勝できた大会だ。僻地ゆえに不人気で、毎度毎度チャンピオンが入れ替わる穴場。初挑戦に臨んだとき、前年度の優勝者が出場を辞退してくれたお陰で、自分に近いレベルの相手と決勝を戦い、空き巣のように優勝を搔っ攫うことができた。気を良くしたオレは、その年に大きなハリケーンの被災地となった首都マプートへ賞金を寄付し、寄付した以上の金をスポンサー契約で得ることができた。マプートの英雄だなどと言われているらしいが、勘違いにもほどがある。


――ぼくも、あなたみたいに立派なテニス選手になりたい


――モザンビーク初のグランドスラマーを目指すよ


――貴方のお陰で仕事が続けられる。ありがとう。ずっと応援するよ


 そんな言葉を、チャリティイベントや過去の懇親会で向けられた。

 やめろ、よしてくれ。オレは、そんな立派な人間なんかじゃない。

 勝つために手を汚し、真剣で貴い勝負を穢した、最低の男なんだ。


 自己嫌悪や罪悪感がせめぎ合う。開き直る事すらできず、未練と後悔の念が満ちていく。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかったのに。大切な何かを失ってまで、オレは一体どこを目指そうとしていたんだ。


「Game,Wakatsuki. 5-0」


 ポケットにある指輪を嵌めてクスリを使えば、今からでも巻き返せるだろう。頭では分かっているのに、手が伸びない。若槻の目を見たとき、自分のしていることがバレたような気がして、恐ろしくなってしまった。怪我で諦めるぐらいなら、リスクを負って破滅する方がマシだと思っていたのに、いざその破滅が目の前に迫ったと感じると、途端に動けなくなってしまった。


(いい加減にしろよ、クソ野郎)

 腹の底で、小さな泡が立ち昇った。

 急速に、自分への怒りが沸き上がってくる。


――勝つ為といいながら、戦うことから逃げている


(あぁそうだ。その通りだよクソったれ!)

 衝動的な怒りに任せ、ポケットにあった指輪を取り出してコートに叩きつける。指輪が小さな音を立てて跳ね返るが、まるでオレを逃がしはしないとでも言いたげに足元へ転がり戻ってくる。忌々しいその挙動を見て、頭へ昇った血が完全に沸騰した。


「邪魔だボケッ! オレを! 誰だと! 思ってやがるッ!」

 二度、三度、四度、ラケットで指輪ごと地面を叩きつける。強度の弱い指輪は簡単にひしゃげ、目を凝らさなければ分からない程度の小さな染みがコートにできる。その汚れさえも許せなくて、折れたラケットを更に叩きつけてやった。周りの目など、今はどうでも良かった。


「スポーツマンシップに反した行為により、渡久地選手へ警告です」

 主審が驚いた様子を見せながらも、事務的に宣言する。


「ハハッ! そりゃいいぜ!」

 折れたラケットを放り捨て、バッグから新しいものを取り出す。若槻が驚いた様子でこちらに視線を向けている。表情こそ驚いているが、瞳に宿る不思議な色は消えていない。改めてよく分からんやつだと思ったが、もうそんなことはどうでもいい。


「オラ、勝ったと思ってんじゃねぇ。来いよ。戦ってやる・・・・・

 返答を待たず、若槻に背を向けてコートへ向かう。

 観客もオレの態度に引いたようで、動揺した空気が漂っていた。


「オイッ! もしオレがこっから勝ったら、また賞金を街に寄付してやるッ! 賞金だけなんてケチなことは言わねぇ! オレに出せるモンは全部出して、ラケットだろうがなんだろうが、欲しいものはくれてやる! だから最後まで応援しろ! オレはマプートの英雄、渡久地菊臣だ!」


 そう捲し立てると、一瞬の静寂のあと、会場に大歓声が巻き起こった。中にはブーイングも混じっていただろう。しかしそれ以上に、熱狂とも思える興奮が会場を包んだ。主審がオレに何か言いたそうにしていたが、視線を寄越すと観客に向けて静かにするようアナウンスしただけだった。ベンチにいた若槻が主審に話しかけたようだが、主審は取り合わない。やや不服そうな表情を浮かべながら、若槻がコートへと向かう。悪いな、なんだかんだ、ここはオレのホームだ。


 空を見上げると、鉛色の雲が広がっている。

 しかしその隙間に、わずかではあるが、空が見えた。


(今度こそ飛んでやる。自分の力で)


 そう思いながら、トスを高く放り投げ、目一杯の力でサーブを叩き込んだ。


                                  続く

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