第112話 「モザンビーク・ブルース」
オープンコートへ叩き込んだボールが、敵陣のライン内側で痕跡を残しながら跳ねた。追いつくことの出来なかった相手は、着弾と同時にコートサイドへ立っている運営スタッフの方を見る。くたびれたポロシャツ姿のスタッフは、黙ったままインの判定を意味するハンドジェスチャーを示した。
「ふざけんなっ! アウトだろうが!」
信じられない理不尽を見た、とでも言わんばかりに相手が激昂する。日に焼けたのではない黒い肌が、怒りで赤く見えそうなほどの剣幕だ。しかし今日何度目になるか分からないその様子に、さすがの聖もげんなりしてしまう。怒りをぶつけられるスタッフは毅然とした態度、というよりも、喧しいクレーマーに対して露骨な態度をとる店員のように、落ち着いた様子のなかにある苛立ちを隠そうともせず一方的に試合の終わりを告げた。
「ゲームセット。マッチウォンバイ、ワーカァツティ 4-6、6-1、6-1」
言うだけ言うと、スタッフは出口に向かう。その背中に向けて対戦相手が何語かも分からない、しかし罵声であることだけは伝わる言葉を投げつけ続けている。スタッフはどこかで野良犬が吠えている、とでも思っているかのように、肩をすくませながらさっさとコートから去って行った。罵声を浴びせる相手がいなくなると、対戦相手はギロリと聖の方を向いた。うっかり目を合わせてしまったことを内心後悔した聖だったが、相手は敵意剥き出しの瞳で睨めつけてきただけで、特に何を言うでもなく荷物を抱えて同じく出て行った。
<イモジャッジの糞野郎に、ジャッジだけで注意はしねェ糞スタッフ。プロ同士の試合だってのに、コートにゃ傾斜があるわ、ラインの裂け目から雑草生えてるわ……。いやァ、人類の母なる大地アフリカ大陸、モザンビークは良いところだなァ!>
ベンチに向かい、腰を掛ける聖。深いため息をついて、タオルで汗を拭う。
<しっかし、二試合連続で糞野郎と対戦たァな。ペテン師の野郎、いい仕事するじゃねェか。念願叶ってプロになった最初の大会がアフリカ、リスク承知で挑んだオールカマーズ、そのなかでも賞金額はワーストクラス、参加してる連中はどいつもコイツも世界ランク最底辺のミソッカス。おめェのデビューを飾るには相応しい舞台だな!>
心底嬉しそうに呵々大笑するアド。
それを聞き流しながら、聖は荷物をまとめる。
「良いんだよ。いくらオールカマーズがプロなら誰でも参加できるといっても、人気のある大会は既に実績を残してる選手とか、開催国のスポンサーがついてる選手が優先的に出場できるのは当たり前だ。プロになったとはいえ、ライセンス制度を使わなかった僕には日本テニス協会からのサポートは無い。当然、スポンサーも無し。そんな僕がいきなり参加できる大会を見つけてくれただけでも、幾島さんに感謝しないと」
<払うモン払ってンだから当然だろ。あーあ、マイアミのビーチが恋しいぜ>
アドのそんなセリフに、ふとマイアミの光景が聖の脳裏を過ぎる。出場選手はプロ未満のジュニアばかりだというのに、豪華絢爛を極めたホスピタリティに満ち溢れていた。トップ選手の見る世界はこういうもの。勝ち抜き実績を出せば、その世界の住人になれる。あの大会は、暗にそういうことをジュニア選手に知らしめていたんだと聖は思う。
年が明けて、二月を迎えていた。学年でいえば、聖は高校二年生へ進級する年。春を迎えるよりも早く、若槻聖はプロテニス選手となった。厳密には、プロ活動を開始する旨を日本テニス協会へ申請し、それが受理された。旧来のシステムでは、この時点でプロを名乗る資格があり、自身の裁量で世界ツアーを転戦することができる。ただこのシステムの場合、全てが選手自身に委ねられている。飛行機代、道具代、大会参加料、その他、自分の活動に関わる全ての費用は自己負担。「申請すれば誰でもプロになれる」わけだが、プロ活動を維持するには莫大な費用がかかる。大会で得た賞金をそれに充てられるようになるまで、多くの選手が極貧生活を強いられるのがテニス界の常だった。
プロになるだけの素質はあるが、プロを続けるだけの金銭的余裕が無い。そういう環境では、うん十年に一度出てくるかどうかという天才的な選手以外、プロとして活躍できない。そうなれば必然的に、そのスポーツの基盤は弱体化してしまう。それを防ぐべく、日本テニス協会はスポーツバブルの追い風を受けながら、プロライセンス制度を導入した(※注釈:現実の世界には存在しません)。しかし聖は、その制度を使わず、旧来のやり方でプロになった。
(マイアミでのことが無ければ、この道は選ばなかっただろうなぁ)
そんなことをぼんやり考える聖。自分の選択が正しいのか間違っているのか、正直いってまったくわからない。ただ、根拠があるわけではないが、心のどこかで進めるときに進んだ方が良いと思っている自分がいた。
(
自分がテニスの世界にその身を投じた理由を、聖は振り返る。春菜の横へ並び立つに相応しい選手になりたい。その一心で、聖は誰にも言えず秘めていた不思議なラケットに助力を求めた。力を得る代わりに、聖は使命を課されることとなった。
――未来の可能性の撹拌を担う
――その過程で、オマエの願いは叶うだろう
以前は、自分だけが特殊な力の加護を受けることに、聖は少なくない罪悪感を覚えていた。今も、能力を使用することになんら躊躇が無いかというと、そんなことはない。しかし、理由は不明のままとはいえ自分は選ばれ、イレギュラーな手段を持ちながらこの世界に足を踏み入れた。そのことにどんな意味があるのか、自分の果たすべき役割が何なのか、まだ分からない。分からないが、きっと何かあるのだろう。
「……
小さく嘆息しながら、空を見上げる。
空の色は日本も、マイアミも、そしてアフリカも、同じに見えた。
★
翌日、聖は途方に暮れていた。
「なんでバスが来ないんだ……?」
試合を終えホテルへ帰ろうとバス停で待っていたが、肝心のバスが来ない。日本と違って海外は時間にルーズだ、というのは聞き及んでいたので、ある程度の遅延や早発は想定していた。初日などは慎重を期して、出発予定時刻の一時間前にはバス停の近くで準備していたが、十五分程度遅れてきただけで問題無く乗れた。しかし予選最終日の今日に限って、既に一時間以上待ちぼうけを食らっている。
「参ったな。運営スタッフなんて試合が終わったら我先に帰っちゃうし。他の選手は自前で足を用意してたり、ライドシェアして帰ったみたいだし。バス組で勝ち上がったの、僕だけみたいだし、タクシーアプリはサービス圏外だし。え、これどうしよう。ホテルまで三十キロあるんだけど……歩いて帰るってこと?」
<母なる大地、アフリカを自分の足で踏みしめるように歩く。いい経験だな>
「冗談だろ、明日から本戦なんだけど!」
最悪歩いて帰れない距離ではない。とはいえ、既に夕方が近い。事前の下調べによれば、モザンビークは比較的治安の良い場所らしいが、それはあくまで首都マプート周辺のことだ。一応住所的には予選会場もマプートに含まれるが、あまりにも離れすぎている。聖は藁をもすがる思いで幾島に連絡を取るが、出ない。彼は聖の他にもサポートしている選手がいるらしく、全面的に帯同費を出すとき以外はついてこない。初の海外一人旅だから割引してやろうかと提案されたが、結構な金額を要求されたので断っていた。
「仕方ない……途中で車が通りかかったらヒッチハイクを試そう。十五キロも歩けば、タクシーアプリのサービス圏内になるし、もし途中で民家があったらダメ元でお願いしてみよう」
<そしてその後、彼の姿を見た者はいない>
「怖いからやめてって」
<ライオンって、夜行性らしいぞ>
「お願い、マジでやめて」
アドに茶化されながら、聖はホテルを目指し歩き始めた。約二時間ほど歩き、そろそろタクシーアプリのサービス圏内に入っただろうかと確認すると、先ほどまで稼働していたタクシーは軒並み営業時間を終了していた。そこで初めて今日が土曜日で、大抵のサービス業が午前で終わっていることを知った。
(一旦、荷物を道端に置いてホテルまで走る? それで事情を話して車で回収すれば……いや、万が一にも道具を失うわけにはいかない。参ったなぁ、何が楽しくてアフリカの何もない道を、疲れた体にムチ打って遠距離ウォーキングしてるんだか。会場までの送迎が当たり前だったマイアミとはエライ違いだ……)
重たい荷物を背負って歩きながら、聖は気持ちがどんどん暗くなる。
空気を察したのか、アドがここぞとばかりに嫌な話をしてきた。
<こんなのはトラブルとはいえねェなァ。試合終わりならどうにでもなる。それより会場へ向かう車が来ねェとか、運ちゃんが道間違えてるのに誤魔化すとか、預けた荷物を運ちゃんがパクるとか、対戦相手に賭けてた運ちゃんが選手拉致ったりとか、そういうこともあるらしいぜ>
「運ちゃん絡み多すぎない? 現地の人は信用できないってこと?」
<それぐれェの想定はしとけってこったな>
自分の身一つで海外を転戦するプロ選手には、そういうトラブルはつきものだ。奏芽や幾島からも、海外遠征に関する注意事項は嫌というほど聞かされている。真面目に聞いていたつもりだし、心構えはしてきたはずの聖だが、まさかいきなりこんな目に遭うとは思ってもいなかった。心のどこかで、なんだかんだどうにかなるだろうとタカを括っていたのかもしれない。反省と自己嫌悪と憤りを、頭のなかで信号機の様にコロコロ変えながらさらに歩いていると、後方から車の気配がした。既に疲労で満身創痍だったが、聖は即座に決断して荷物を置く。黄色のバスタオルを取り出し、まだかなり距離が離れているにも関わらず、タオルを広げて大声を出した。
「すいませーーーん! お願いしまーーーす!」
<日本語で通じるかよ。公用語のポルトガル語を使え。カニマンボゥ!>
「どうせ聞こえないだろ! あとそれはシャンガナ語! 意味はありがとう!」
<なに、どうしたん!? 全部ツッコんでくれるじゃん!>
「すいませーーーん!」
<カニマンボーゥ! ヒューッ!>
クルマは聖たちに向かってライトをつけている。そのためクルマの大きさや運転手は逆光で見えず、聖は目を細める。とんでもない悪人や、またぞろマフィアだったらどうしようなどと色々不安はあったが、このまま行軍を続けるよりマシだと思い、とにかく手を振った。近づいてくるクルマが速度を落とした瞬間、聖は第一関門突破を確信し、喜びながら飛び跳ねてみせる。
モスグリーンのセダンが、目の前に停まる。聖は携帯端末で翻訳アプリを起動し、モザンビークの公用語であるポルトガル語に変換して手短に用件を伝えた。
「停まってくれてありがとうございます。申し訳ないですが、マプートのホテルまで乗せて欲しいんです。もちろん、お金は払いますので」
聖はできるだけ申し訳なさそうに、発音に気を付けながら拙いポルトガル語を半分開いている窓に向かって口にする。陽が落ちて周囲は薄暗く、車のなかの人物も顔が判然としない。だが、なかにいる人物がふっと鼻で笑うのが聞こえた。
「金なんかいらねぇよ、若槻」
聞こえてきたのは、日本語。
運転席の窓が開いて顔を出したのは、聖も見たことのある顔だった。
「えっ、と、
★
「じゃあ、渡久地さんと幾島さんって同じ大学なんですか」
「おう。向こうが先輩だ。あの頃はバチバチやってたぜ」
渡久地が運転する車は、偶然通りがかったものではなかった。聖が飛ばしたメッセージを、時間差で幾島が確認したらしい。渡久地と旧知の仲だった幾島は彼に事情を話し、迎えに行くよう頼んでくれたんだという。
「でもビックリしました。まさか渡久地さんが、大会の前年度覇者だったなんて」
「オマエなー、そういうの普通は調べておくもんだぞ? ほかの大会と違ってオールカマーズは、決勝戦の相手が予め決まってるんだからよ。きっちり調べて対策するのがセオリーだ。意識が低いねぇ意識が」
渡久地が聖と同じモザンビークにいたのは、ある意味では偶然、ある意味では必然だった。オールカマーズは、トーナメント方式を用いて一人の挑戦者を選出する。そしてメインイベントとして、前年度のチャンピオンと対決する特殊な大会形式だ。モザンビーク・オールカマーズの昨年の覇者は、日本の渡久地菊臣、その人だった。初の一人海外遠征ということに気を取られ、聖は自分が戦うかもしれない決勝戦の相手のことにまで、気が回らなかった。
「でも本当に助かりました。割と絶望感ありましたから」
「ツアー初心者はありがちだな。いいか、慣れない土地を回るときは、なるべく知り合いと一緒に行動した方が良いぞ。何をするにしても、一人よりは二人、二人よりは三人の方が心強い。ツアー回ってりゃ、そのうち顔見知りも増えてくる。お互い助け合うようにするこった」
実感のこもった渡久地のセリフに、うんうんと頷く聖。その他にも、ホテルへと向かう道すがら、渡久地は自分の実体験を踏まえてあれこれ教えてくれた。渡久地がプロになった頃はまだライセンス制度が無かった為、今の聖と同じようにプロ申請をしたあと、アジア方面を中心にあちこち転戦したらしい。大半が発展途上国での試合で、食事で体調を崩したり、大会運営スタッフがいい加減だったり、アドが話したようないくつかのトラブルに見舞われたりと、苦労が絶えなかったという。
「プロライセンスを取得すれば、ある程度カチっとしたツアースケジュールとかサポートが受けられるのは知ってるだろ? よくまぁそれを選ばなかったもんだ。顔に似合わず度胸あるんだな」
「いや、度胸っていうか」
照れを誤魔化すように言いながら、聖は渡久地の横顔を盗み見る。昨年末、奏芽とスポーツバーで観戦した徹磨と渡久地の試合を、ふと思い出す聖。徹磨と直接対決したことのある聖は、内心で徹磨を応援していた。しかし結果は渡久地のストレート勝ち。激戦を戦い抜いてなお平然とした様子の渡久地に、聖は得体のしれないなにかを感じていた。しかし、こうして直接話していると、渡久地はまるで頼れる兄のような印象を受ける。渡久地の気さくな雰囲気に、自然と心のこわばりが取れ、異国の地で旧友に再会したような安心感を覚えていた。
車が聖の宿泊しているホテルに到着する。何度も渡久地に礼を言う聖。渡久地は夕食をご馳走してやろうかと提案してくれたが、さすがにそこまで世話になるのは申し訳なかったので、丁重に固辞した。
「もし僕が渡久地さんに勝って優勝したら、ご馳走してください」
「言うねぇ、良いぜ。取り合ず明日からの本戦、勝ち上がってきな」
聖の軽い挑発的な言葉に、ニヒルな笑みを浮かべて応える渡久地。二人はそこで別れ、聖は部屋に戻った。シャワーを浴び、買い置きしておいた食料で腹を満たす。ようやくひと心地ついた気がして、ベッドに寝転がった。
「あ~、疲れた」
思わずそんなセリフが口から出てくるが、気分は悪くない。縁もゆかりもない遠く離れた地、散々トラブルに見舞われて心身ともに疲労し切ってホテルに一人きり(厳密にいうとうるさいのはいるが)だが、不思議と孤独感は無い。この調子で頑張っていこうと、聖は前向きな気分でその日は床に就いた。
そして、初の海外ツアーで、若槻聖は決勝戦へと駒を進める。
続く
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