第111話 「女神が護る者」

 渡久地とぐちのテニスは、試合終盤に姿を変えた。


(焦るな、まずはしっかり受けろ)

 徹磨てつまは自分に言い聞かせる。試合は果敢な攻勢を仕掛ける徹磨、それを往なし守勢に回る渡久地という構図で進んでいたはずだった。しかし徹磨の攻撃はポイントこそ奪えるものの、勘所では渡久地の反撃を食らい終始リードを奪われる形となってしまう。勢いに乗ってしまいさえすればすぐに引っくり返せると考えていた徹磨だったが、どこまでいっても肝心な所で逆襲を食らい、挽回はおろか追いつく事さえ叶わぬまま、終盤を迎えてしまった。


 そして迎えた渡久地のサーヴィン・フォーザ・ゲーム。これまで守勢だったはずの渡久地は、仕上げと言わんばかりに攻勢へと転じる。強襲とも思えるサーブ&ボレー、一度も使ってこなかったセンターへの最速フラット、ラリー展開からの強引なエース狙いで瞬く間にポイントを連取し、マッチポイントを迎えた。あまりの落差に、序盤から終始攻勢だった徹磨がここへ来ていよいよ守勢にまわらざるを得なくなる。勝つ為ではなく、負けない為に。仕留めに掛かる相手の手数を、一手でも多く増やしたい。反撃の糸口を掴むには、ありとあらゆる手段で足掻くより他なかった。勝ち方であるとか、スタイルであるとか、そういったことは一旦全て忘れ、とにかくがむしゃらに一球一球を全力で抗い続けた。


「Game,Set and Match Toguchi. 6-4,7-5」


 しかし健闘空しく、試合は幕を閉じる。マッチポイントで逆を突かれ、ボールを見送るより他なかった徹磨は、主審がコールするよりも少しだけ早く、敗北という現実が自身に突きつけられたのを感じた。同時に、この敗戦によって失ったものの大きさを痛感し、思わず空を仰ぐ。年明け一月に行われる、新年度最初の大舞台、グランドスラムの一角、オーストラリアン・オープンへの出場枠を失ったのだ。世界ランキングが100位台を突破した徹磨は、本来ならばAOに予選免除の本戦入りストレート・インするはずだった。しかしこのオールカマーズでは、賞金以外にもビッグタイトルの出場枠を賭けるベットすることがある。この大会ではそれが賭かっていた。オールカマーズでは基本的に前年度優勝者が勝って当たり前とされているため、負けた時の代償は大きい。


「来年上がってきたら、相手してやるよ」

 試合後の握手リスペクト・ライトの際、渡久地はそう口にした。スコア的にはストレート負けだが、ラリー数は多かった。試合時間もゆうに三時間を超えている。だというのに渡久地は疲れた様子もなく、まだまだ戦えるぞとでも言いたげに、突き刺すような闘志を身体中に漲らせていた。


「相手が良過ぎた。こういうこともある。ナイスファイトだったぞ、テツ」

 ロッカールームに戻ると、帯同しているコーチ陣が労いの言葉を徹磨にかけてくる。もちろん徹磨としては、ベストを尽くしたつもりだ。客観的に見ても、試合内容自体はそれほど悪いと思えない。確かに相手の調子が良かった。相性の問題もあるだろう。だが、しかし。


(本当に、それだけか?)

 試合序盤、まるで全盛期を彷彿とさせる渡久地のプレーに、徹磨は脅威よりもむしろ始めは喜びを感じた。彼にとって渡久地は世話になった先輩であり、いうなれば自分の兄貴分のような存在だ。一時期は超えるべき目標でもあり、初めて試合して敗けた日のことも、初めて渡久地に勝った日のことも昨日のことのようによく覚えている。プロとしての実績を着実に積み上げ、完全に自分が渡久地を超えたという自負もある。その一方で、恐らく心のどこかに、先輩である渡久地に強い存在であって欲しいと願う気持ちもあったのだろう。テニスでの実績がそのまま人間関係の優劣に繋がる、などと傲慢なことを徹磨は考えていない。考えてはいないが、やはりそうはいっても、もしかすると気付かぬうちに求めていたのかもしれない。


(敗けは敗けだ。それはいい。それはオレの責任だ)

 だが、引っ掛かってしまう。渡久地を侮っているつもりなど微塵も無い。徹磨は自覚できる範囲で、可能な限り自分の心の嘘を見破ろうとする。少しでもそういう侮りがあったなら、敗北は自身の問題であると納得できるだろう。しかし、どこをどうとっても、そういう自分の傲慢さを見つけることができない。それならば、純粋に渡久地が実力を発揮してそれに屈しただけのこと。なのにそう思えない。素直に渡久地の実力を、今の徹磨はどうしても認めることができなかった。そしてなにより、それが何故なのか分からなかった。


「クソが!」

 シャワーを浴びながら、徹磨は悪態をつく。冷たい水が日焼けした肌を滑り落ちていく。しかし敗北の悔しさも、心にわいた疑惑の念も、洗い流すことはできなかった。


           ★


 試合後、渡久地はすぐに手配していたタクシーへ乗り込んだ。勝利者インタビューを手短に済ませ、優勝後の記者会見などは翌日に行うと強引にメディア連中を押し退け、大会側が用意しているものとは別のホテルに向かった。十数分とかからぬうちに到着すると、エントランス前で車を降りる。それを待っていたかのように、ホテル入口から紺のタイトスーツを着た日本人女性が駆け寄ってきた。


「キク」

 二十代半ばといったショートヘアの女は、不安そうな表情を浮かべている。

 渡久地を気遣うように手を取ろうとするが、彼はそれを拒否した。


早苗さなえ、支払いと荷物を頼む」

 渡久地にそう指示され、早苗と呼ばれた女はますます不安そうな表情に顔を曇らせる。振り向きもしない渡久地は、そのまま歩いてロビーへ向かう。早苗はドライバーにチップを渡し、大きなラケットバックを掴んで渡久地の後を追った。部屋につくと、シャワールームから水音がする。渡久地が脱ぎ散らかした衣服を拾ってカゴへ入れながら、早苗がドア越しに声をかける。


「キク、大丈夫?」

 水音がするばかりで、応答はない。不安にかられた早苗が断りを入れてから恐る恐るドアを開けると、隙間からもうもうと湯気が立ち込める。温度をかなり上げているらしい。狭いシャワールームは雲のなかにいるようで、何も見えない。早苗は目を凝らす。白い湯気の幕の先に、薄っすらと小さな人影らしきものが目に入る。


「キクちゃん!」

 ドアを完全に開け放つと、湯気が部屋へと漏れていく。湯気の幕が薄まると、渡久地がシャワーヘッドを抱え込むようにして、湯水を浴びながら蹲っている姿があらわれた。溢れ出る湯水の止め方が分からず、慌てて抑え込んでいるようにも見える、なんとも滑稽な姿。


「熱っ」

 跳ねた湯が早苗の顔に当たる。かなり温度が高いと察した早苗は、慌ててシャワールームへ飛び込んで水栓を捻り、湯を止めた。


「何してるの! 火傷するじゃない!」

 熱湯を浴び続けていた渡久地の肌は、まさしく焼けたように赤い。


「さむい」

 だというのに、渡久地はそんな言葉を漏らす。すがりつくようにシャワーヘッドを抱きしめ、唇を震わせている。早苗は部屋にある備え付けのバスタオルをありったけ使い、壁にもたれる渡久地の身体を包む。熱湯によって赤くなった肌は火傷には至っていなかったようで、ほっとする早苗。悪戦苦闘しながら、どうにか渡久地をベッドへ運び終えると、早苗はそこでようやく自分の服が水浸しになっていることに気づいた。


「さむい」

 ベッドで震えながら、うわごとをつぶやく渡久地。ついさっきまで、彼は後輩である黒鉄徹磨を圧倒していた。コートのうえでの堂々とした振る舞いとの落差に、早苗は胸が締め付けられる。彼女は自分のカバンから注射器を取り出す。透明な液体の入ったアンプルに針を刺し、注射器のシリンダーに吸い込んでいく。慣れた手つきで準備すると、そっと渡久地の腕に注射した。間もなくして、渡久地の小さな寝息が部屋に響き始めた。


 早苗は、渡久地の頬を指の腹で撫でる。薄い皮の下にある、硬い骨の感触。無駄を削ぎ落すべく、ここ数年はおよそ人間らしい食事をしていないことを知っている。二人で最後に食事をしたのはいつだったか、もう思い出せない。渡久地にとって食事はあくまで、エネルギーと栄養素の摂取手段。全ては勝つために、結果を出すために。ありとあらゆるものを犠牲にして、彼がプロ生活を続けているのを、早苗はその目で見てきた。


 不意に携帯電話が鳴り、早苗は画面を見る。その瞳に、侮蔑の色が混じる。


「キクは?」

 繋がるや否や、なんの挨拶も無く、男は問うてきた。

 無遠慮なこの態度に、早苗はいつも臆してしまう。


「さっき眠った」

「あァ?」

「っ……。今しがた、眠ったところ、です」

「オマエの方は? ぬかりないだろうな?」

「はい、そっちは大丈夫……です」

「そうか。よし、じゃあまた年明けから頼むぞ」

 自分の確認したいことだけ確認すると、男は通話を切ろうとする。

 早苗は慌てて、汚らわしいとさえ思っている男の名を口にして呼び止めた。


「金俣さんっ」

「あ?」

「いつまで、やるんですか。こんなこと」

「はァ?」

「これ以上続けてたら、キクの体が」

「やめたきゃやめろ」

「えっ」

「忘れたのか? こっちはオマエがどうしてもっていうから、手伝わせてやってるんだ。そりゃ助かってる面があるのは認めよう。まさかWADAワーダの人間が助力を申し出てくれるなんて思ってもみなかったしな。オマエのお陰でできることの選択肢が増えて、オレもキクも本当に助かっている。が、オマエの存在が絶対必要かというと、そうでもない。元々オレ等は自力でどうにかしてきたし、するつもりだった。それをオマエがどうしても・・・・・というから、申し訳ないと思いつつも手を借りてる。だから別に、やめたいならやめてくれて構わんさ。キクの恋人として、純粋に応援だけしてりゃ良いだろう。オレとキクは、自分たちの目的のために、これからも努力・・を重ねるだけだ」


 早苗は言葉に詰まる。


「もっとも、オマエの気持ちも分かってる。そりゃ心配だろうさ。なんせ恋人の身体なんだから。でもな、オマエが思ってるよりも、キクはヤワじゃない。クスリの効果に耐えられるよう、それこそ死に物狂いで自己管理している。その日に食べる物の量や質はもちろんのこと、呼吸の回数にさえ気を配ってな。それほどの覚悟で夢を叶えようとしているヤツなんだ。ただキクが頑張れているのは、恋人であるオマエが傍で支えてくれてるからだ。キクにとって、オマエは必要なんだよ、サナ」

 すげなくやめろと言ったり、必要だと言ったり。この男はいつも、言葉巧みに人の感情を操って思い通りにする。ただタチの悪いことに、意図に逆らったところで大した反撃にならないことを早苗は知っていた。いつだって主導権は握られっぱなしで、それどころか弱みも握られてしまっている。完全に、生殺与奪をこの男に支配されているのだ。


「そしてオレたちは、もう少しで一定の成果を出せそうなんだ。上手くいけば、クスリに頼るのは来年いっぱい、早ければ夏頃には終えられるかもしれない」


 金俣の思わぬ言葉に、早苗はつい反応してしまう。


「ほんとっ!?」

「そうさ。嘘じゃない。だが、それだって確実にできるかどうかはまだ未知数だ。しかし、オマエがこれまで通り手を貸し続けてくれるというなら、その確率は上がる。さっきはオマエが必須ではないと言ったがな、いてくれた方が助かるのは間違いない。なぁ、サナ。キクの夢を叶える為だ。もう少し、もう少し辛抱できないか?」

 早苗は寝息を立てる渡久地の、穏やかな表情を見つめる。


「もう少し、だけなら」

「助かるよ。オマエは、オレ達の女神だな」


 金俣との通話を終えると、早苗はシャワーを浴びた。バスタオルで身体をよく拭いてから、裸のまま潜り込むようにして渡久地と同じ布団に入る。深い眠りについているのか、渡久地は全く起きる様子が無い。これ幸いと、早苗は子供をあやすように、渡久地の頭を自分の胸のあたりに抱え込んだ。


「キクちゃん、大丈夫だよ」

 形の良い渡久地の頭をゆっくり撫でながら、早苗は祈るようにつぶやく。ふと、窓際で物音がした。カバンから化粧ポーチか何かが落ちたのだろうと思い、早苗はそれを無視して、布団のなかで大切な人の頭を撫で続ける。


 落ちたのは、化粧ポーチではなかった。早苗が所属する組織のIDカードが入った、ネックホルダー。桐生早苗きりゅうさなえ、日本人、27歳。所属、WADA。正式名称は『World Anti-Doping Agency』、世界アンチドーピング機構。スポーツの世界から、ドーピングという名の不正を根絶する目的で作られた組織の名前が、そこにあった。


           ★


 蓮司れんじが部屋でストレッチをしていると、ノックも無しにドアが開いた。


「ちょっと蓮司、ペットボトルはラベルとキャップ外してっていったでしょ!」

 小言とともに、不満で頬を膨らませたミヤビが立っている。

 片手には、蓮司が飲み捨てた空のペットボトルがあった。


「いやいいだろ別にそんな。ATCアリテニじゃそのまま捨ててたじゃん」

「良くないの。ここはATCアリテニじゃないでしょ。自治体によってゴミの分別方法とかは違うんだから。うちの出したゴミがルール守ってないって分かったら、家を貸してくれてる西野さんにだって迷惑かかるかもしれないんだからねっ」

「誰が捨てたかなんて分かんねーって。確認するやつがいるわけじゃねーし」

「こういうことはちゃんとしなきゃいけないの。はい、ちゃんとやる」

 そういって、ミヤビはボトルを蓮司に投げて寄越す。


「あと洗面所。使ったら水滴ちゃんと拭きなさい」

「なんでだよどうせ濡れるんだからいいだろ」

「カビが生えたら掃除が大変でしょ。ていうかマナーだよ」

 そのほかにも、ミヤビは蓮司に向かって、生活の細かいあれこれを指摘しては、何故それが必要なのかを端的に説明した。蓮司は途中から、実家の母親でもここまでうるさく言わないよなと思いながら、その大半を右から左へ聞き流している。


「聞いてるっ?」

「ハイ、ワカリマシタ。気ヲツケマス」

 まだ文句を言い足りなさそうなミヤビだったが、蓮司の返事を聞いて渋々納得したのか、なにやらブツブツ言いながらも自室に戻って行ったようだ。


「小姑かよ、ったく」

「なんかいったっ!?」

「イイエ! スグヤリマス!」

 戻ったんじゃなかったんかよ、と内心で思いながら、これみよがしにボトルのラベルを剥がし、燃えないゴミ用に設置してある袋へ入れる蓮司。ボトルはゆすいで、キャップはまた別で集める必要がある。仕方なく蓮司はストレッチを中断し、台所でボトルを洗うことにした。


(ったく、なに考えてやがんだ、ミヤビのやつ)

 蓮司とミヤビは、すったもんだの末に、今は一軒家の借家で同棲、もとい、ハウスシェアリングすることになった。それもこれも、全ては蓮司の独断専行が生んだ結果なのだが、必ずしも蓮司だけの問題だけではないはずである。少なくとも、彼はそういう認識でいる。


「ちょっとー! 水の無駄遣いしないでよー!」

 水を出しっぱなしで洗っているのを耳ざとく聞きつけたらしいミヤビが、尖った声で諫めてくる。慌てて水を止める蓮司。ミヤビと知り合ってもう三年以上が経つ。昔からお節介で世話焼きで、何かと年上ヅラしてくると思っていたが、最近はもう本当に姉か母親かと勘違いしそうなほど、遠慮なくモノを言ってくるようになった。


(つーか、アイツってオレのなに?)


 ふと冷静になって考えようとしたところで、蓮司は反射的にボトルを潰す。

 今、それについて仮にでも答えを出すと、よくない。そんな気がしたのだった。


                                   続く

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