第109話 「冷たい熱戦」
「さぁ、間もなく試合開始が迫って参りました。十二月を迎え、夏の気配がよりいっそう強まってきた、ここオーストラリアはアデレード。じりじりとした陽射しがコートを照らし、試合開始前から
動画配信専門のチャンネルで、実況者がこれでもかというほど大袈裟な表現を使い、出場選手の渡久地を紹介する。観戦に訪れている客のなかには、周囲への迷惑も考えずに携帯端末のスピーカーからそれを垂れ流し、会場の喧騒をより煩雑な雰囲気にしたてあげていた。そしてその煽りたてるような口上を、全員が耳にしていたかのように、渡久地がコート上へ現れるや、会場に大きな歓声が沸いた。
「続いて、今回オールカマーズの王者として立ちはだかるのは、前大会の覇者、今年の全米オープン準々決勝では現世界ランク1位スイスの英雄、リーレデフ・レッガーをフルセットまで追い詰めた、上位ランカーから今最も警戒されているこの男、
徹磨がコートに現れると、会場を包む歓声は更に勢いを増す。
無表情のまま手をあげて、観客の声援に応えてみせる徹磨。
会場の至る所には、大会名が大きく掲示されていた。
「
「生意気な後輩に先輩の意地を見せてやれ、トグー!」
アップをしている二人に向けて、観客席から声援とも野次ともつかない声が飛ぶ。二人はともにそれらを無視し、ウォーミングアップをして集中力を高めていく。会場の熱気とは裏腹に、二人の様子は実に淡々としている。
「ここでオッズの紹介です。挑戦者、渡久地選手は8.25倍、黒鉄選手は1.3倍と、黒鉄選手が圧倒的有利と見られているようです。先ほど行われたコイントスで、黒鉄選手がサーブを選んだことも関係しているでしょう。さぁ、間もなくオッズ締め切りとなりますので、まだの方はお早めに!」
誰かの携帯端末から、そんな音声が流れてくる。それをきっかけに、観客たちの幾人かがオッズに関する話題を口にし始める。やれこの前は損をしただの、やれどこぞの選手は手堅いだのと、ギャンブル談義に花を咲かせていた。
(ったく、品のねぇこったな)
アップを終え、ベンチで軽く汗を拭いながら徹磨はそんなことを思った。自分を含めたテニス選手たちがギャンブルの対象となったのは、徹磨がプロとしてデビューする前からだ。贔屓の選手に勝って欲しいというような、活躍を願う純粋な声援のありがたさは、自分がプロになって初めて実感できるようになった。同時に、声援のなかにも、純粋な応援とはかけ離れた、ひどく利己的なものが混じっているということも徹磨は知った。自分の勝利を願ってくれていることに違いはないが、その先の目的がまるで異なった、雑音にも等しく思えるような声だ。
(金を賭けてりゃ、そうもなるか。お蔭様って面もあるしな)
以前の徹磨なら、そういう声に苛立ちを覚えていただろう。だが、最近ではそういう声も含めて、客の期待を背負うことがプロの役割なのだと感じるようになった。友人である
(そういやアイツ、マイアミの団体戦出てたな)
ふと、徹磨の脳裏に優しそうな青年の顔が浮かぶ。
(あの感じじゃ、クソ真面目にプロテスト受けるだろうな。ったく、選手保護が目的だかなんだか知らねぇが、余計な制度作りやがって。テニスのプロは
かじったバナナを水で流し込み、徹磨はレディポジションへ向かう。彼は既に、下部大会であるフューチャーズやチャレンジャーズといったグレードからは卒業し、ATP250を主戦として世界を回っている。年内の目標だった世界ランク100位以内を達成し、来年からは本格的に上位勢を相手に戦っていく予定だ。それが上手くいっているのも、近年新設されたこのオールカマーズで活躍できたことが大きい。
(ま、今はそれより、目の前の敵を倒さねぇとな)
ネットを挟んで向かい側に立つのは、これまでに何度も苦楽を共にし、面倒をみてくれたこともある先輩選手の渡久地だ。選手としての格は自分の方が上だと自覚しつつも、これまで世話になってきた恩は忘れていないし、何よりも徹磨は渡久地を尊敬している。
(だがそれはそれ、これはこれだ。いくぜ、キクさん)
灼熱の太陽に照り返され、コートの上で陽炎が揺らめく。
それは対峙する両名の気迫が放つ、オーラにも見えた。
★
土曜の昼間だというのに、あるいは土曜の昼間だからなのか、
「思ってたより凄い」
「おー、盛況だな」
熱気のためか十二月だというのに、店には冷房が入っていた。季節外れの冷気と客の熱気が入り混じり、そこへ聖の嗅ぎ慣れないアルコールの臭気が漂ってくる。なんとも形容しがたい独特な空気に顔をしかめる聖に対し、慣れているのか奏芽の方は実にケロリとしていた。
「ていうか、よく入れてもらえたね。ここ、大人の店でしょ?」
「言い方オコチャマかよ。確かに未成年お断りだけど。店長が知り合いでな」
瓶に入ったジンジャーエールをグイっとあおる奏芽は、見た目の派手さも相俟って実に場の空気と馴染んでいる。地下にあるせいで昼間でも薄暗い店内は、なんだか聖には居心地が悪く、どこかマイアミで見たスラムを彷彿とさせた。
「視聴だけならネット配信でも見れるっつーのに。物好きだな」
「なんていうか、賭け事してるっていう雰囲気が知りたくてさ」
オールカマーズについて、聖は自分なりにあれこれ調べを済ませているが、生憎と日本では開催されていない。現地の様子を見る事は叶わなくとも、少しでも参考にできるものが無いかと奏芽に相談した結果、スポーツバーが候補に挙がったのだ。当初は「競馬のWINSでも良いんじゃねーか」と言われたが、テニスと競馬では客層が違い過ぎるだろうということで、奏芽のツテを頼りにこの店へとやってきた。
「ちなみに、奏芽は賭けてるの?」
「うんにゃ。そもそもこの大会公式アプリが日本非対応。こいつら全員、海外の安物を手に入れてこれ用に改造してんだよ。オレはそれを日本でも使えるようにするSIMをお手頃価格で販売してる」
「え、それって違法じゃないの?」
「それがグレーなんだなぁ。今のところは。まぁ小遣い稼ぎだな」
「あくどいなぁ」
「賢いっていえ。ちなみにこの大会の賭けも、参加自体は合法」
毎度のことながら、この男は何でもよく知っているなと聖は感心してしまう。マイアミの空港で、聖とミヤビが誘拐された件について知った奏芽は、あれこれ考えた末に聖に協力することを申し出てくれた。彼自身はプロを目指していないが、何かしらテニスに関わる仕事に就こうと考えているらしい。その経験を積むべく、一応建前上は聖がサポートスタッフとして雇う形を取る約束になっている。とはいえ、聖はそれをするために何をすれば良いか分かっていないし、そもそも選手活動の合間にそういう勉強をするヒマも今は取れない。幾島との契約についても、ひと先ずは奏芽が聖のマネージャーとして業務を代行してくれるという。
――別に難しかねぇよ。旅行の幹事みてぇなもんだ
奏芽はこともなげにいうが、帰国後に幾島から送られてきた契約書は、内容も量も聖の理解の範疇を越えていた。どうして同世代の彼がすんなりと理解できるのか、甚だ疑問で仕方がない。昔からなにかと世話を焼いてくれるが、聖はどうして奏芽が自分を助けてくれるのか、イマイチよくわかっていないままだ。
「オイ、マジかよ! 渡久地が先にブレイクって!」
「ミスが多いんだよミスが! カッコ良く勝とうとしやがって!」
試合に動きがあったらしく、店内が俄かに色めき立つ。
選手を応援している、という空気からは程遠く、聖はそれが少し引っ掛かった。
「こんなモンだよ。スポーツで賭けをする連中なんてのは」
聖の表情から胸の内を読み取ったのか、奏芽がいう。
「ただでさえ、こういう連中が増えてるってのに、そのど真ん中路線を突っ切ろうってんだからなぁ。選手としてのメリット・デメリット以外にも、気をつけなきゃならねぇことが増えそうだぜ。大丈夫かよ?」
帰国後、スポーツギャンブルにまつわる話を、聖は自分なりにネットで漁ってみた。輝かしい結果が喧伝される一方で、眉をひそめたくなる醜聞もそれなりに目にしている。プロ選手となりオールカマーズをまず主戦に選ぶということは、これまで過ごしてきたような、平凡な毎日からはかけ離れていくことになるかもしれないのだ。
「不安がないわけじゃない。でも、覚悟はしてるつもりだよ。この人達だって、まぁ今は興奮してるだけで、別に敵ってわけじゃないしさ。そりゃ、中には極端な人もいるかもしれないけど。ただそこはもう、やってみないと何とも言えないかなって」
覚悟を口にはしてみるが、実際のところ不確定要素が多すぎるというのが本音だ。聖が調べたところによれば、今よりもっと昔には、とある女子選手への熱狂的なファンが対戦相手を試合中に刺傷した事件が起きているという。ギャンブルという要素があろうとなかろうと、スポーツ選手というものは一般人とは異なる世界に身を置いているといえる。そういった危険性は、性質上そもそも排除しきれるものではないだろう。
「ま、少なくともオマエにゃ幾島サンがいるしな」
「なにいってんだよ、奏芽だっている。頼りにしてるからね」
「ハッ、オレだってタダ働きはしてやんね~ぞ」
「ちゃんと払うよ。……待ってもらうかもしれないけど」
情けない聖の言葉に思わず奏芽が笑い出すのと、店内が再びどよめくのは同時だった。
「オイオイ! 2ブレイクってオマエ!」
「ざっけんなよ、オレは1stセット6-2で賭けてんだぞ!」
客の声に二人は画面を見る。表示されているスコアは1-3で渡久地がリード。
「へぇ、確かに意外だな」
モニターを注視しながら、奏芽がつぶやく。
画面がちょうど、滝のような汗を腕で拭う徹磨に切り替わった。
「あれ?」
カメラがまた切り替わり、今度は斜め上からコートを俯瞰する画が映る。
「気のせいかな?」
「あん? どした?」
ラリー戦を展開する画面のなかの二人。リターン側の徹磨が果敢に攻めるが、渡久地が上手いスライスで展開をイーブンに戻す。堅実な守備でありながら相手に無理を強いる、守勢の攻めを敷いているようだ。しかし、聖が注目したのはそこではない。
「いや、気のせいだと思うけど」
徹磨のショットがアウト、ポイントが決まる。
その時、カメラが渡久地のバストアップを映した。
「渡久地さん、
コート上に設置された温度計は、既に39度を表示していた。
★
(オレがキクさんを侮っていた? いいや、それは無い)
試合序盤に2ブレイクを浴びた徹磨は真っ先にそう考え、首を横に振って即座に否定した。ずっと以前から、渡久地のプレースタイルは熟知している。それが自分の苦手とするタイプであることなど、百も承知だ。今日とて、ラクに勝てるなどとは微塵も思っていない。
果敢に攻撃を仕掛ける徹磨。
それを
(なんっつーか、昔を思い出すぜ。この感じ)
体格に恵まれた徹磨は、全中、全国選抜、中牟田杯を全て獲った。中二の時点でインハイはおろかインカレ上位勢と互角以上に渡り合っていた徹磨は、高校進学と同時に鳴り物入りでATCへ移籍する。そこで最初に一戦交えたのが、当時プロとして頭角を現し始めていた渡久地だった。
徹磨の攻撃が渡久地のコートへ深く差し込み、抉るようにボールが落ちる。
弾道の変化に惑わされず、渡久地は軌道の芯を見切り、的確に回転を無効化する。
それはさながら、大剣を振り回す
(以前のオレなら、ここらで方針転換するところだな)
全てのショットを可能な限り高い出力で放つ徹磨の体温は、容赦なく照り付ける十二月の夏陽も重なり、灼けるほどに熱い。しかしその物理的な暑さを飲み込むように、高まる集中力と気炎の克己が徹磨の身体に更なる力を漲らせる。
(だが!)
渡久地からのカウンターを食らい、大きく
(抜けるッ!)
体勢は充分。選択肢は二つ。渡久地の重心が半歩、ストレートに寄った。
徹磨は即座に狙いを定める。彷徨と共に、捻った身体を一気にねじ戻す。
強烈に、より鋭く放たれた一撃は、確実に渡久地の守備範囲外を突く。好戦的な徹磨の性格を見抜いていた渡久地は、先んじてストレートにヤマを張っていた。それを逆に見抜いた徹磨は、万が一渡久地が飛びついても触れないコースへと、ボールを強く引っ張った。ある意味では、ネットの一番高い所を通すストレートよりもリスクの高い一打。そのはずだった。
渡久地は徹磨がボールを打った瞬間、あらかじめそこを守ると決めていたかのような滑らかさで、ラケットを伸ばす。徹磨へ自分の背中を見せるように身体を捻り、しかし目線は決してボールから離すことなく、長い腕を最大限伸ばす。ラケットの真芯でボールを捕らえ、強烈な勢いをあっさりと殺してみせる。アングルに打たれたボールを、そっくり逆の角度へストンと落とすアングルボレーで沈めた。鮮やかなそのプレーに、コートが歓声に包まれる。
(フェイントとステップを、同時にやったのか)
喧しい歓声が響くなか、徹磨は渡久地がした動きの意味を知る。ストレートをケアするステップを見せ、コースを絞る。同時に、そのステップの反発力で本来届かないはずの一歩先を守備範囲に納めてみせたのだ。もし徹磨がストレートに打っていても、立ち位置的には守備範囲。結局、外へ追い出された時点で逆転は難しかったことになる。
(いや、それよりも)
徹磨はポイントを奪われたこと以上に、寒気がした。ポイントを制した渡久地は涼しい顔で、既に徹磨へ背を向けてポジションへと戻ろうとしている。灼熱の太陽が降り注ぐコートの上で、柳に風のような泰然さを感じさせる渡久地の雰囲気。
(あれは、本当にキクさんか?)
日差しで温くなっている大量の汗は不愉快で、ウェアを肌に張り付かせる。
しかしその背中に一筋、冷たいものが伝うのを、徹磨は感じた。
続く
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