第105話 「欠けた点睛」

「聖ぃ、よくやった!」

「セイ君、お疲れ様! 良い試合だったよっ」

「マジすっげーわ、褒美にデカリョウのおっぱいを好きにして良いぞ!」

「優しくしてねぇん! でも激しくしてぇん!」

「……あー、いや、それは別に要らないかな」

「エンリョすんなよぉ!」


 どうにか勝利をもぎ取った聖が、仲間たちの熱烈な歓迎を受ける。屈託ない賞賛がこそばゆく、聖はつい素っ気ない態度を取ってしまうが、それは恥ずかしさだけが理由ではない。使える手札は全部使って、ようやく手にした勝利。自分に今できることを、聖は徹底的にやり尽くした。そういう意味では、達成感を覚えるのも確かだ。ただ、本当にこれで良かったのかと、そう自分に問いかける内なる声が、勝利の余韻に浸ることを許さなかった。


(弖虎はなにか、事情を抱えていたんじゃないか)

 初めて対戦したときも、今回も。

 聖には彼が、自分の意志でテニスをしているように思えなかった。


(いや、他人の事情を勝手に推し測るのはやめよう)

 試合の最中、聖は一つの可能性に気付く。もしかしたら、自分と同じような状況にある人間は、他にもいるのではないか。虚空のアカシック・記憶レコード撹拌者スターリンガーとして選んだ人間が自分一人だけだなどと、誰が言っただろう。その可能性に思い至ったからこそ、聖は躊躇いを踏み越えて、自分が勝つために能力を最大限使った。


(勿論、違うかもしれない。弖虎の様子が妙なのは、僕が考えているような事じゃないのかもしれない。そもそもが、僕の勘違いの可能性だってあるわけで)

 それらが希望的観測であることは、聖も承知している。ただ、可能性を考えたらキリがない。仮に弖虎が聖と同じような、普通の人とは何か違う特殊な事情を抱えているのだとしても、それがどう影響してくるか聖には分かりようがない。判断するには、情報が足りなさすぎるのだ。しかし聖は何となく、この試合の勝敗がこの先・・・に起こる何かに大きく影響を及ぼすのではないか、そんな予感がしてしまう。そう思ったらふと、聖はマイアミに来る前、ミヤビに尋ねたことを思い出した。


――勝つことで、相手の人生を大きく変えてしまうことについて、どう思いますか


 今思えば、もっともらしい問いを口にしたものだ思う。能力を使うことにまだ罪悪感があり、そのせいで抱えていた勝負に対する遠慮を、ミヤビに見抜かれた。誤魔化そうと思ったわけではないが、ふとそんな質問が口をついていた。


――なんとも、思わない


 茜色に染まるプールサイド。

 白い水着姿のミヤビ。

 塩素のほのかな匂いが甦る。


――そのことについて私が胸を痛めるのは、きっと優しさじゃない


 決然と、彼女はそう言った。

 もし同じことをハルナに尋ねたら、同じことを言うだろうか。

 勝敗が決した瞬間、弖虎はその瞳に何の感情も宿していなかった。


 試合が終わり、ネット前で握手を交わそうと聖は弖虎に手を差し伸べたが、彼はまったくといっていいほど反応を見せなかった。無視したのではないと、そのことだけは分かる。まるで何も見えていないのか、虚ろな瞳と表情を浮かべたまま、彼は夢遊病者のように立ち去った。ふらふらとした足取りでアメリカ側のチームベンチの奥に消え、もうその姿は見えない。


「聖、大丈夫か? シャワー行くだろ?」

 奏芽が気を利かせて、聖のラケットバッグを受け取る。


「あぁ、ありがと。そうする。悪いけど奏芽」

「おぉ、分かってる・・・・・

 みなまで言うな、という表情を浮かべ、奏芽は聖に視線を向ける。


「すぐ戻るつもりですけど……あ、スズさん」

 ストレッチをしている鈴奈に、聖が声をかけた。


「無理しないで下さい。スズさんなら、きっと楽しめると思います」

「ジュニア世界ランク1位相手に〜? ま、リョーカイ」


 次の試合でチームの勝敗が決まる。任されるのは鈴奈だ。

 だが、聖はそれを見届けられないだろうと予想している。


「じゃあ、ちょっと汗流してきます」

 そう言い残し、聖はチームベンチをあとにした。


           ★


 聖はシャワーを浴びて更衣室で着替え、取り合えず身支度を整えた。


「なんだ、平気そうじゃん」

 ロッカールームに同行してくれた奏芽は、拍子抜けしたといった様子でいう。


「試合終わったあと倒れるかも、なんて深刻な顔で相談しやがるから、身構えちまったじゃねぇか」

「いやまぁ、多少ラグがあるというか……」

「ラグ?」

「えーっと……」

 誤魔化すために言葉を探すが、上手いセリフが出てこない。聖は試合の前、万が一に備えて奏芽にこっそりと自分が体調不良で動けなくなるかもしれない、という旨を話していた。全ての事情は明かせないため、どう上手く言ったものかと悩んでいたが、食中毒の件があったお陰で奏芽は意外なほどすんなり納得してくれた。


<なンだよ準備が良いな。最近ちょっと知恵つけるようになったじゃねェか>

 アドがいつもの調子で聖を煽る。


(そろそろ、時間?)

<あぁ。だがまぁ心配すンな。代償カルマバープの強度はいつもより大きくなるし時間も長くなるが、今回の場合は・・・・・・それだけだ。最近慣れてきてたみてェだし、久しぶりに初心を思い出すにはちょうどイイかもな>

 あの苦痛に初心もクソもないと思いながら、徐々に聖は身体の変化を感じる。

 血液が粘度を増し、重く、流れが遅くなるような感覚。いよいよ、来た。


「んと、奏芽。やっぱりキツい……。でも、大事には……したくなくて」

「マジかオイ」

 ふらつき始めた聖の身体を奏芽が支え、椅子に座らせた。

 慣れた手つきで、奏芽が聖の容態を触診で確認してくれる。

 ひんやりとした手が、妙に気持ち良い。


「クルマは呼んである。本当に大会の医療スタッフじゃなくて良いのか?」

 奏芽の問いに聖は頷いて応えた。呼吸をしても、まるで肺が酸素を取り込まないかのようで、次第に呼吸が浅く早くなる。全身の筋肉が鉛となって固まっていくような感覚は、意識を残したまま身体全部が死んでいくのではないかと錯覚させる。


<いやしっかし、大したモンだ。こンな早く話が動くとはな>


 アドの声が聞こえる。だが、その意味するところを理解できない。


<引っ越し先の準備がまだ整ってねェからな。まだしばらくの間はお前ンとこに御厄介にゃなるが、案外、お別れは早いかもしンねェぞ>


 お別れ。その言葉を聞いて、聖の頭のなかにハルナの顔が浮かぶ。


<ま、取り合えず今は休ンどきな>


 アドの声が合図になったかのように、聖の意識は完全に途絶えた。


           ★


 次に聖が目を覚ましたのは、大会の決勝戦からまる三日経ってからだった。


「疲労というには、些か長すぎる。かといって、身体にこれといった異常も無し。それどころか、実に健康優良児だよ君は。若い身体というのは、羨ましいもんだ」


 診断を終えた医師は、まだ朝だというのに、ずいぶんと疲れ切った表情を見せながら言った。その顔は、文句を言いながらもなんだかんだで結局は他人の世話を焼いてしまう奏芽にそっくりだ。年の離れた彼の兄が、マイアミの病院で医師として勤めていると聞いた時は驚いた。


「奏芽は院内の食堂で朝食だ。体調が問題無いなら君も行くといい」

 そう言うと、奏芽の兄は診断を終わらせ次の患者の元へ去っていく。聖はベッドから出ると、思い切り伸びをする。日本を出てから約1ヶ月。大会やら誘拐やら能力の代償やらで疲れ切っていたが、皮肉なことにその代償による強制的な昏倒で身体はすっかり回復したらしい。


 案内板を頼りに食堂へ向かう。日本で入院したことはないが、家族のお見舞いで訪れた日本の大学病院とはずいぶんと雰囲気が違う。そこかしこで患者同士や、あるいは医療従事者と患者、または医者同士が談笑しているのを目にする。病院というところはもっと、全員が神妙な面持ちをしているものだと思ったが、国が違えばそういう部分も変わるらしい。


「お、やっとお目覚めかよ。てめ滞在費は請求すっからな」

「えっ、ごめん! わかった!」

「嘘だよ。素直すぎだろったく。どうよ、身体の調子は」

「あぁ、もう大丈夫。ありがと、色々と」


 聖は奏芽の隣に座り、改めて礼をいう。


「ちなみに、大会の結果って」

「その前にまずは、お前のネタバレが先だな」

 奏芽が、もうこれ以上は一秒たりとも待たんぞ、というような顔をしていう。聖もその主張はもっともだなと思い、同意する。能力の代償で身体の自由が利かなくなる可能性を考慮し、聖は奏芽の助力を求めた。その際、当然ながら本当のことは話せていない。例の如く力押しの説明で無理やり協力を仰いだのだ。ただ、落ち着いたらちゃんと話す、という条件を聖の方から提示して、納得してもらっていた。


「えーっとね」

 聖はまず、頭を整理する為にも順番に話し始めた。とはいえ、アドや虚空のアカシック・記憶レコードのことについてはそれとなくぼかさざるを得ない。ハルナとのこと、テニスをやめた理由について、そして復帰した経緯。大半は以前話したことがある内容だったが、彼は黙って聖の話に耳を傾け、内容を吟味して聞いてくれた。


「集中力を発揮するオマジナイ、ねぇ」

 聖は自分のテニスの急な上達や、試合後の体調不良について、ハルナから教わったオマジナイが原因である、と話した。自分でもだいぶ苦しいとは思っているが、ハルナから絶対他人に教えるなと言われていたから話せなかったと説明する。


「確認すっけど」

 ひと通り話を終えると、奏芽が何やら真剣な眼差しを聖に向けてくる。一番大きな部分をぼかしているため、当然突っ込まれるよなと身構えていると、予想していなかった質問を投げかけられた。


「あぶねーモンに手ぇ出してるとかじゃねぇんだな?」

「あぶねーモン?」

「クスリとかだよ。ドーピングとかじゃねぇよな?」

 そう聞いて何故か、聖の脳裏に弖虎の顔がよぎる。

 自分と同じような人間が他にいると考えるよりも、より現実的な可能性のひとつ。


「いや、それは無いよ。検査もしてるし」

 テニスはドーピングの取り締まりが厳しい。それはプロの世界に限られた話ではなく、一定以上のレベルを越えたジュニアに対しても、アンチドーピング機構による抜き打ち検査が実施されるほどだ。今大会においても、出場者は全員、事前の検尿が義務付けられていた。個人で大会に出た時も、ランダムで選ばれた者が検査の対象になると説明を受けたことがある。


「ま、おめーにそんなツテはねぇか」

 つまんねぇこと聞いたな、と付け足して奏芽は珈琲をすする。


「しかし聞いた事ねぇや。反動が出るほどの自己暗示術ゲート・コントロールなんて」

「ゲート・コントロール?」

「そのオマジナイだよ。ハルナさんがなんて呼んでるかは知らねぇけど。簡単にいうと、痛みを感じる場所に手を当てて抑えると、痛みが和らぐだろ? これは痛覚神経の伝達経路を、触刺激によって妨害することで、脳に痛みが伝わるのを防いでるんだ。痛みの情報が脳へ入らないように門を閉じる、って例えに由来しててな。他にも、高い所から落ちるのを想像して手に汗をかいたり、酸っぱいものを想像して唾液を出したり、脳を騙して身体に作用させる自己暗示術をそう呼ぶのさ」

 初めて聞く内容に、聖は感心しきりだ。


「眉唾モンの話も混ざるけど、そうやって脳を騙して神経伝達物質を操る手段もあるんだよ。火事場の馬鹿力を発揮したり、自分の記憶を自分で消したりな。アスリートでよくあるのは、高い集中力状態に入る極限集中ゾーンとか、変性意識トランス状態とかいう。普通は一時的なモンだけど、仮にそれらを持続させた場合、身体が先に音をあげて倒れるってのもまぁ、分からなくもねぇかな。お前がそういう技術・・を身に付けて、なりふり構わずプロになろうとしてる、ってのはよく分かったよ」

 話しぶりから、納得してくれたというよりは、そういうことにしといてやる、という譲歩の雰囲気が駄々洩れだったが、聖はありがたく奏芽の好意に甘んじることにした。


「あぁ、で、大会だけど。決勝な、スズさん惜しかったけど、負けた」

 奏芽がさらりと口にしたことで、却ってそのことが重く感じられる聖。二連敗からどうにか二連勝し、大将戦ともいえる女子シングルスに繋げることができたのだ。そのままの勢いに乗って優勝して欲しかったな、というのが聖の正直な気持ちだった。


「ま、相手は女子のジュニアナンバー1だしな。しょうがねぇよ。ちなみに、いうまでもねぇが、他の連中は大会が終わってその日の飛行機で先に帰国してる。居残り組はオレとおめーだけ。飛行機のチケットはこれから手配する」

「ほんっと、何から何まですいません」

「まったくだこの野郎。そろそろ真剣にマネージャー料ふんだくるぞタコ助が」

 奏芽がわざと悪ぶってみせる。


 その後、二人はそれぞれ身支度を整えに戻り、病院のロビーで待ち合わせる。たまたま夜の飛行機が確保できたらしく、早めに空港へ行ってそこで時間を潰すことになった。先にロビーへ着いた聖は、空いていた席に座って参加した大会の情報を調べようと携帯端末を操作していた。


「ワカツキ」

 不意に名前を呼ばれ、顔をあげる聖。

 黄昏色のスーツを着た、貴族のような雰囲気を持つその男。


「ジオ」


 イタリアのジオ・ヴラン・ルーノ、その人であった。


                               続く

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