第62話 「フォックス・ゲーム」
――数年前 ドイツのとある地方大会にて
その跳躍は見事だった。少女は高く飛び上がりながら空中で身を翻し、普通なら届かないような高さへラケットを運ぶ。ボールを捉え、相手の隙を的確に突く。しかし相手も粘り強く反応し、辛うじてボールを返す。着地した直後の不安定な体勢にも関わらず、彼女はそれを驚異的な反射で再び捕まえる。
跳んで、回って、翻って。
その様子は宙を縦横無尽に旋回しながら、執拗に敵を追尾する戦闘機のよう。平行陣を敷いている対戦者2人を相手に、素早い身のこなしで応戦する姿は、機銃斉射を思わせる激しさを見せ、遂には敵陣へとどめの一撃をお見舞いした。
圧巻のネットプレーでポイントをもぎ取ったギルは、どうだ見たかと誇らしげな表情を浮かべながらペアの方を振り返る。しかし、味方であるはずのペアは不満そうな表情を浮かべ、吐き捨てるように言った。
「あのさぁ、ギル。なんでもかんでも手ぇ出してんじゃねぇよ!」
苛立たし気に言葉を荒げるペア。ギルには彼女がなぜ怒っているのか分からない。
「なんでだよ? 取れるんだから取った方が良いだろ」
「陣形が崩れるだろうが。抜かれたらどうすんだよ」
「カバーしろよ。そのためにテメェがいんだろ」
「あたしはアンタのお守りじゃねぇつってんだよ!」
「はぁ? 協力し合うのがペアなんじゃねぇのか?」
「おめぇが邪魔してんだよ! もういい、あんたとはもう組まない!」
「あ、オイ!」
「審判、棄権する。ギル、あんたはシングルスでもやってな!」
そう一方的に告げて、荷物をまとめてさっさとコートを後にするペア。対戦相手の2人は呆れたような笑いをその表情に浮かべ、しかしそこにはわずかながら、ギルに対する侮蔑の色が混じっていた。
ペアへの苛立ちと、自分に向けられるそうした視線に不快感を覚えながら、ギルもコートを後にした。馬鹿馬鹿しい。ミスしたならともかく、ポイントを取って文句を言ってくるなんてどうかしてると、ギルは沸き上がってくる怒りをどうにかその小さな体に押し留める。だが、怒りの炎は収まるどころかぐつぐつとギルの臓腑を煮えたぎらせ、時間が経つほどそれは熱を増した。
ギル・エアロス。イタリアはフィレンツェの出身で、それなりに裕福だが普通の家庭で生まれ育った。幼少期にテニスの才覚を見出され、地元の大きなテニスアカデミーで訓練を受けていた。イタリアテニス界が引き起こしてしまった大規模な八百長事件をきっかけに、両親からテニスをやめるよう言われたが、彼女はこれに反発。11歳で親元を離れ、ドイツのテニスアカデミーへと編入し、以来そこを拠点にして寮生活を送っていた。
「やぁ、少し良いかな」
かけられた声はハスキーで気さくなものだったが、今のギルにはどんな言葉も喧嘩を売ってくるのに等しかった。今日は好きでもないスコートをペアに合わせて着ていたので、試合前にも男から声をかけられた。普段なら誘いに乗るフリをして、散々おちょくるだけおちょくりさっさとお別れするところだが、今のギルに話しかけるのはハチの巣をつつくのと同義だった。
「あァ!? 気安く声かけんじゃ」
自分のなかにある男性的な獰猛さを最大限発揮しながら振り返るギル。相手の顔を見た瞬間、彼女は思わず鼻白んでしまう。声をかけてきたのは男ではなく、女だった。無論、女からそういう目的で声をかけられたことが無いわけではなかったが。
切り揃えられた髪は生真面目そうで、整った顔立ちは美しさよりもむしろ正しさを体現するかのよう。薄っすらと青みのがかかった白のパンツスーツを着た彼女を見ただけで、ギルの中に燃え盛っていた怒りの炎がすっとそのなりを潜めてしまった。
「あんた……ブロード? ティッキー・フィン・ブロード……!」
基本的に自分以外のことにはあまり興味のないギルだったが、さすがに彼女のことは知っていた。当時ヨーロッパの様々な試合で優勝を搔っ攫っていく同世代のイタリア人女子選手がいて、そいつはどうやらイタリアテニス復権を掲げている、と。対戦経験は無いが、試合しているのを以前見かけ、その実力に目を奪われたのを覚えている。
「若くして故郷を離れ、単身ドイツで腕を磨いているイタリア人がいると聞いてね。前から目を付けていたんだよ。試合を見て確信した。単刀直入にいおう。君のような才能ある選手が、イタリアには必要だ。戻ってこないか」
ティッキーの姿に驚いたギルだったが「戻ってこないか」というセリフは、両親が送りつけてくる手紙に何度も書かれているものだった。娘の心配をしてわざわざ会いに来たこともあったが、反抗期真っ盛りの彼女は取りつく島もなく突っぱねた。それを思い出し、怒りとまではいかずとも、警戒心を強めたギルは素っ気なく言い返す。
「そいつはどうも。ただ、出し抜けにそんな話されてもな。別にあたしはイタリアに里心なんざあついちゃいねぇよ。テニス選手ってのはそういうもんだろ? 国を背負って戦うやつより、自分のために戦ってるやつの方が断然多い。テニス選手にとって、母国ってのは所属チームみたいなもんだ。条件の良いところを選んで、気に入ったらそこと契約して属せばいい。違うか?」
プロのテニス選手は、常に世界中を飛び回って過ごす。世界のあちこちで行われる大会に参加し、そこで賞金とポイントを稼ぐのが彼らのライフスタイルだ。今週はイタリア、来週はドイツ、その次はイギリス、次はアメリカ、といった具合に。過密なほどのツアースケジュールが組まれている彼らが、ひとつの国に長く留まっていることは少ない。それはテニスというスポーツが世界に広まった経緯にも由来し、また、テニスが全世界的なスポーツであることを意味している。
「確かに、テニス選手が国のためにというのはおかしな話かもしれないな」
苦笑いを浮かべるティッキー。だが、それは痛いところを突かれたというよりも、またその話か、とでもいうようなものだ。自分の無知を笑われたような気がして、思わずギルはムッとする。それを察したティッキーが、なだめるように続けた。
「気を悪くしないでくれ。だが、いくら世界を飛び回るテニス選手といえども、ゆっくりと羽根を休める場所は必要だ。そしてそれは、自力で勝ち取った賞金を使って泊まる高級ホテルなどではなく、自分が生まれ育った故郷の自宅であるべきだ。そして、選手というのは自分が選手生活を終えたあと、母国出身の新しい選手たちのことを気にかけるものさ」
彼女とギルはそこまで年の差は無い。なのに、彼女のいうことはまるで引退後の選手が口にするような言葉だ。言わんとすることは分からないでもないが、正直今のギルには実感がわかないし、そういう人もいるだろうが自分はそうじゃないとどこか他人事に感じられてピンと来なかった。
「で? だからなんなんだよ」
「まぁいずれ分かる。ひとまず、君にはそういう選択肢もある、それだけ頭の片隅に入れておいてくれ。もし気が変わって、母国のため、イタリアのテニスを世界に認めさせたいと思うようになったら、是非、私のもとを訪ねて欲しい。私は、君の才能を高く評価している。それと、もう少し、家族は大切にした方が良い。余計なお節介だろうがな」
そういって、ティッキーは半ば一方的に連絡先を押し付けて去った。
「家族……ね」
つぶやくと、喧嘩別れした両親の顔が、ギルの頭に浮かんだ。
★
国際ジュニア団体戦 予選Dブロック 日本 VS イタリア
第2試合 女子ダブルス
セットカウント1-0 ゲームカウント 3-2
1stセットは、7-5で日本が奪取に成功した。
「やっぱり、崩すなら悪ガキちゃんの方だね」
「そうだね、どうにかあそこを起点にしたい」
1stセットは、ゲームカウント6-5で迎えたギルのサーブを桐澤姉妹は見事ブレイクした。だが、日本の2人に安堵の表情は無い。リスクを負った勝負手がたまたま上手くハマり、幸運にも助けられたブレイクでしかなく、攻略できたとは言い難かったからだ。ギルのサーブはイタリアペア攻略の糸口にはなりそうだが、さきほどのブレイクでは確信を持つに至っていないというのが2人の見解だった。
「リターンポジションで揺さぶりかけようか」
「どうかな、あれ決め打ちしてる気がするよ」
「フォームに特徴とかあった?」
「無い。てゆか、定まってない」
「ボレーはアングル多めだよね」
「うん。フォームがキレイだね」
「まぁ、顔は私の方がキレイだけど」
「いやいやいや、それは私でしょ?」
「同じ顔やないかーい」
いつものおふざけをしていると、審判が「
「んじゃ、その路線で」
「もひとつ取りましょ」
2人は立ち上がると、軽く手の平を重ね合わせた。
2ndセット、第6ゲーム。イタリアはムーディのサービスゲーム。
(相変わらず
この試合、イタリアペアは全てのサービスゲームで
(私らもたまに使うけど、女ダブはどう考えたって平行陣と
いくらムーディのサーブが強烈といっても、1stセットと合わせて既に4度も彼女のサーブを受けている。基本的な速さには慣れたし、コースのクセも概ね把握できた。仮に彼女がここから更にギアを上げてきたとしても、どのぐらい良くなるかは想像がつく。
(そろそろ、攻略してみせるよ)
ポイントを重ねる女子ダブルスの両ペア。桐澤姉妹は序盤のように
「
審判がコールする。リターンに対する奇襲こそ、
(ポイントはまぁ、取れるっちゃー取れるけど)
(イマイチ上手くハマりきらないってゆーか?)
ムーディのサーブを丁寧にリターンし、ギルの奇襲を防ぐ桐澤姉妹。得意な展開に持ち込んだうえ、一球打つごとに少しずつイタリアペアを追い詰めていく。だが、日本の2人が想定するパターンにハマり切る直前、隙を突くようなギルの打った勝負手が決まる。
そこで初めて、桐澤姉妹は違和感に気付く。
(コイツら、あたしらが捨ててる場所への攻撃に迷いがない)
(なるほど、しっかり
(ちょい意外だったね。てっきり奇襲とサーブごり押しで来てるのかと思ってた)
(ある意味相手の術中にハマっちゃったワケだね。
(じゃあちょっと、狙いを変えた方が良さそうだね)
(相手の牙を壊してからと思ったけど、先に頭だね)
双子は言葉を交わさずに意思統一する。
同時に、2人の瞳に宿る集中力の色彩が深まっていった。
★
(さて、次はどうする)
ボールをつきながらムーディはこれまで打ってきたサーブのコースを頭のなかで
(
テニスにおいて、ボールに加える回転の種類は大きく分けて4種類。
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・
・
そして、サーブで狙うコースが大きく分けて3種類。
・
・
・
これに浅い、深い、中間の概念が3つと、速度の速い、遅い、中間の3つが加わり、単純計算で108パターンものサーブの組み合わせが存在することになる。実際には矛盾する組み合わせや、相手に使うべきではないパターン、そして自分の得手不得手などを鑑みれば、試合で運用できるのは約半分以下となるが、それでも理論上は多くの選択肢が存在することになる。――蛇足だが、これはサーブの片側サイドだけの話で、この他に存在するストローク、ネットプレーなど全てのプレーを合わせると、テニスにおける習得可能な技術パターンはゆうに1万通りを越える――
桐澤姉妹が多彩なコンビネーションのパターンでダブルスを展開する一方、ムーディはテニスにおける恐ろしい数のテクニックを1球ごとに切り分けて認識している。その独特な見方は、その時々における最適解を瞬時に導き出す。そうすることで、自由気ままにプレーするギルのトリッキーな動きに惑わされることなく、次に自分が何をすべきか冷静に判断していた。
(こいつらのリターンの得手不得手は把握した。双子だからつい勘違いしそうになるが、好みってのは千差万別だな。意外なほど違っている。リボンのお陰で見分けがついて助かるよ。わざわざ見分けさせる理由は色々考えられるが、一見すると仲良さそうに見えて、実は
(さて、ギルはどう動く?)
サーブを打ったムーディはギルの動きを注視する。通常、
鋭いムーディのサーブでコートの外側へと追い出されたキノは、這うように足を広げて腰を落とし、ギリギリまでボールを引き付けた。その瞳にボールを映しながら、視界の端ではギルの動きと狙うべき相手コートを捉えている。ギルが先にストレート方向へ動いた瞬間、キノは目一杯ラケットを振ってクロスへとボールを引っ張った。崩れた体勢を利用した見事な一打が放たれる。
「ムーディ!」
狙いを外されボールを見送ったギルが叫ぶ。サーブに角度がついていた分、相手のリターンも鋭い角度で返球される。だが、ムーディはギルが動いた瞬間には逆方向をカバーし始めていた。高い身長をほこるムーディだが、サーブを打った後に身を屈めてギルの身体を
コートの外へ追い出されたキノの立ち位置をカバーするように、キナがコート中央へとポジションを寄せる。当然そうなれば、キナが元々立っていた位置、ストレートが空く。角度のついたボールを味方が打った場合、通常はストレートを守るのが
サーブで劣勢を強いられた以上、抑えるべきところを抑え、そのうえで相手のリスクを少しでも上げる様にポジション取りするのがセオリーに忠実な桐澤姉妹のテニスだ。奇をてらったことはしてこない。彼女たちのテニスで唯一、奇抜といえるものがあるとすればそれは――
(罠だ)
キナが立ち位置を変えると同時、ラケットを
――
「!?」
ムーディの打ち込んだ強打を、キナは
「30-40」
審判がポイントをコールする。
この試合で初めて、ムーディのサービスゲームでブレークポイントが訪れた。
(偶然? いや、こちらが隙を突こうとしている所を、逆に突かれたんだ)
桐澤姉妹は手堅い守りを見せておきながら、その実カウンターを狙っていると見せかけて、ムーディの裏をかいてきた。まんまと出し抜かれる形になってしまった。それはつまり、イタリアペアの作戦が勘づかれたことを意味している。
(
バレるのは想定内だが、せめてキープして相手をブレイクしておきたかった。やや攻め急いでしまったかもしれないと、思わず胸中で舌打ちするムーディ。今更になって、ムーディは高いレベルで完成されたダブルスペアである2人に、かすかな嫉妬を抱く。徹頭徹尾、敵はダブルスをプレーしているのだと意識させられた。
――レオナ、君の才能はシングルス向きだが、それでもダブルスを任せたい
ふと、ティッキーの言葉を思い出す。
――君は、他人を支えようとしている時がもっとも美しく、強い
(それはつまり、才能と気質が相反してるってことじゃあないか)
記憶のセリフに対し、胸中でささやかな反論を浮かべるムーディ。しかし一方で、他人から信頼され、任されるのは悪い気分はしない。母国の
前衛で構えるギルの、小柄な後ろ姿が目に入る。
幼くして家を飛び出し、そして、
――負けるわけにはいかない
勝利へと続く道を迷いなく指し示すように、トスは高く、真っ直ぐ上がった。
続く
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