第43話 「歌う少女と初夏の月」
帰宅したミヤビがドアを開けると、ただいまの第一声を発する間も無く、愛犬のパスタが勢いよく飛びついてきた。ふわふわした白と黒の毛を持つボーダーコリーの彼女は、フンフンとミヤビの匂いを嗅いだりその柔らかい舌で頬を舐めたりして、熱烈なほどの歓待でじゃれついてくる。合宿や遠征から帰ってくるといつもこうで、毎度その勢いには驚かされる。もちろん、ミヤビはそんなパスタの反応を嬉しく思うし、愛しいと思う。
「ごめんね~、寂しかったね~、ただいまパスタ~」
腰をかがめてパスタの首回りや頭をよしよしと撫でてやるミヤビ。パスタは喜びでどうにかなりそうなぐらい興奮し、立ち上がったり飛び掛かったり時おり小さく吠えながらミヤビの周りをぐるぐる回ったりする。
「お帰り〜。地獄の強化合宿はどうだった?」
部屋の奥から、薄いグレーのルームウェアを着た女性が出てきて、ミヤビにそう尋ねた。年頃はミヤビとさほど変わらないように見える。腕には大きくて立派な虎猫が抱かれており、ずいぶんと気持ちよさそうに赤ちゃん抱っこで仰向けになっている。格好に反してその風格はまさしく王といった風情で、だらしなく抱っこされたままにも関わらず不思議な威厳を放っていた。
「キツかったですよも~。はーい、十兵衛もただいま」
足にまとわりつくパスタを片手で相手しながら、ミヤビは十兵衛と呼ばれた虎猫に顔を近付けて挨拶する。ミヤビの顔が近くに寄ると、十兵衛は胡乱げに顔をもたげ、ミヤビの鼻先に自分の鼻をちょいとつける。微かに濡れた十兵衛の鼻先は、触れるとひんやりしていた。
「
留守を預かってくれたミヤビの友人である
「あの人はマジでサイボーグ」
大袈裟にうんざりしたような演技で言ってみせるミヤビに、笑い声で相槌をうつ渚沙。彼女はミヤビの4つ年上で、元
会話のネタが途切れたタイミングで、渚沙が立ち上がる。
「んじゃ、あたしは帰るよ。作り置き、っていうか余り物が冷蔵庫にあるから夕飯にしちゃって。パスタ、十兵衛、また遊ぼうね。あ、それと、あんたちゃんと叔母さんたちに連絡しときなさいよ?」
「はいはい、分かってますよ、渚沙おね~ちゃん」
ミヤビはパスタと十兵衛を引きつれて玄関先で渚沙を見送る。部屋に戻ってミヤビが冷蔵庫を確認すると、綺麗に盛り付けられたチキンソテーとサラダ、鍋にはビシソワーズが入っていた。
「ありがたやありがたや~」
レンジで温め直した渚沙の料理を頬張りながら、ミヤビは行儀悪くタブレット端末であれやこれやと情報の確認をする。合宿中は練習がハードだったため、普段は毎日チェックしている情報サイトやメッセージの確認が覚束なかった。急ぎの要件などが無いことを一通りチェックし終えると、改めて食事を済ませる。それからミヤビは通話アプリを起動して、叔母に連絡をとった。
「
★
ミヤビは、両親と幼い頃に死別している。共に有能な医師だった彼女の両親は大学病院に勤務する傍ら、
叔母たちの心配をよそに、ミヤビは明るく健やかに育った。両親譲りの正義感の強い子で、理不尽なできごとには上級生が相手であろうと全く怯まず立ち向かい、その信頼の篤さからミヤビはたくさんの友人に囲まれて過ごした。明るく、賢く、ちょっといたずら好きな面のあるごく普通の女の子。そして何より、叔母夫妻のもとに生まれた病弱な弟の
ミヤビは両親のもとにいたときから既にテニスを始めていた。テニスを通じて知り合った両親は、忙しい仕事の合間をぬって時おりテニスコートに赴き、家族3人で仲良くテニスを楽しんだ。それがミヤビにとっての、テニスの原体験だった。叔母はミヤビが自分のもとに来たあとでさえテニスを続けるのをみて、辛い記憶を思い出させるのではないかと当初は気を揉んでいた。しかし、ミヤビは気にする素振りを見せず、これまで通りテニスを楽しんだ。
やがて、ミヤビは成長と共にその才覚を発揮し始め、遂に日本最大のテニスアカデミーである
「
ついこの間までランドセルを背負っていた少女は、自分が親元を
加えて、折しもこのとき実の息子である彰斗の容態が芳しくなく、その治療費が家計を圧迫していた。叔母夫妻は悩みに悩んだ。現実問題として、夫妻の経済能力ではこのさき子ども二人を満足に育てられる充分な余裕は無く、当時の生活もかなり切り詰めやっとの思いでやりくりしていた有様である。しかし、だからといって姉の忘れ形見であるミヤビを放り出すことなど絶対に有り得ない。状況的に板挟みになっていた叔母夫妻だったが、ミヤビをスカウトした
以来、ミヤビは
★
叔母との通話を終えると、ミヤビは食器を洗ってからシャワーを浴びた。髪を乾かし終えて時計を見ると、時刻はまだ20時を回ったばかり。寝るには早すぎるし、かといってシャワーを済ませたので走りに行くのも面倒だ。合宿前に買った文庫本に手を伸ばすも、目が文字の上を滑るばかりで内容が頭に入ってこない。動画サイトを見ても、テレビをつけても、空しいバカ騒ぎを見せられるような気がしてシラケてしまう。普段ならもっと気軽に楽しめるはずだが、今日はちっとも心が動かない。無論、合宿の疲れが出ているわけではないというのは、ミヤビ自身よく分かっていた。
(あぁ、ちょっとマズいかも)
ソファにもたれ天井を見上げる。胸のうちに、じわりと何かがもたげてくるような錯覚を覚える。合宿は逃げ出したくなるほどキツイ練習だったが、幸いなことに苦楽を共にするメンバーと四六時中一緒だった。どんな辛い練習も、仲間が傍にいれば乗り切ることができる。余計なことを、考えずに済む。
不意に、おへその上に重さを感じた。虎猫の十兵衛が、まるでそれをするのは当たり前の権利である、というような顔で遠慮なくミヤビのお腹の上に乗る。十兵衛はおもむろにミヤビと視線を合わせると、何も言わずに丸くなった。
「こいつ~」
お腹の上で丸くなった十兵衛の背を優しく撫でるミヤビ。すると今度は横からパスタがにゅっと顔をだし、ミヤビの頬を舐めてくる。パスタの顔をグリグリと撫でてやると、嬉しそうに尻尾をパタパタ振った。
眠るでもなく、暗い気分に沈むでもなくしばらくそうしていると、やがてミヤビはゆっくり身体を起こす。お腹の上に乗っていた十兵衛を抱っこして、そっとソファに乗せてやる。十兵衛はあくびを一つすると、顔を抱えるようにして丸くなった。
ミヤビは押入れを開け、茶色いギターケースを取り出した。中にはアコースティックギターが収められている。部屋着の上にパーカーを羽織ると、ギターを持ってパスタと一緒に部屋を出た。初夏の気配を感じる夜空には、綺麗な三日月が星々と共に静かに浮かんでいる。少し歩くと、ミヤビは
わずかにライトアップされたほの明るい広場につくと、ミヤビは噴水の縁に腰かけ、ケースからギターを取り出す。ストラップを首に回し左手でギターのネックを握る。指が弦に触れると、幽かにフレットノイズが鳴る。ギターはまだ覚えて間もないので、細かいチューニングはしない。右手の親指でギターの弦を上から順番にゆっくり爪弾くと、綺麗な音色が波紋のように響き渡る。音を確かめると、ミヤビは小さく咳ばらいをして、息を吸った。
「水色の風が 通り雨に濡れて」
たどたどしい手つきで、弦を弾く。
「ふと、あの日の街を 思い出しました」
奏でる音色と彼女の歌声は、噴水の流れる音と重なりとけていく。
「当たり前のように 季節は流れて 黄昏に染まる そう、いつかと同じ空」
ゆっくりと、歌詞を噛み締めるようにしてミヤビは歌う。
「ただ重ねる 何度も掲げた 言葉」
まるで木漏れ日のように優しい音色のその曲は、この世界に在る全ての命を賛美するようで、しかしそれらは大いなる流れの中、始まりと終わりを繰り返すのだと唄う。始まりが美しいのなら、終わりもまた美しいのだと。
「いつの日か私も君も 終わってゆくから 残された日の全て 心を添えておこう」
ミヤビがこの曲の存在を知ったのは、留守を預けた友人の
彼らの楽曲には抽象的でやや難解な歌詞が多い。独特な世界観で宇宙や命、自身の在り方について歌い、それを聴いていると自身の抱えている悩みが小さなことのように思えてくるのだ。自分の悩みを、スケールの大きな視点に立つことで矮小化しているだけに過ぎないとミヤビは自覚している。だがそうすることで煩わしい感情にも、小利口な理屈にも囚われずに済むのだ。ミヤビは心が乱れる前に彼らの曲を聴くことにし、今では歌うようになった。
「灯る火の 果てに」
記憶、感情、理屈を上手く混ぜ合わせ、祈るようにミヤビは歌った。
★
弾き終わると、ミヤビは溜め息を吐いて夜空を見上げる。耳の奥にあるギターの残響を、噴水の水音が徐々に掻き消していく。歌の余韻に浸っていると、後ろから小さく拍手が聞こえてきた。慌てて振り返った先には、トレーニングウェアを着た
「上手いじゃん」
言い訳でもするようにそうつぶやく蓮司。
「いつからいたの?」
咎めるつもりはないが、驚いたせいか少し声が尖るミヤビ。
「ギター持って、歩いてきた辺りから?」
「声かけてよ、もー! びっくりした!」
「パスタは気付いてたぜ?」
それがどうした、という言葉は言わず、ミヤビは頬をリスのように膨らませる。
「よく合宿のあとに走ろうと思うね」
つんとした言い方で、露骨に話題を逸らすミヤビ。
「なんかちょっと色々あって。気持ちが落ち着かなかったんだよ」
蓮司はそう言って、ミヤビの隣に腰掛ける。パスタが歓迎するように蓮司の足の周りにまとわりつき、フンフンと鼻を鳴らしてにおいを嗅ぐ。蓮司は嬉しそうにしながらパスタの頭を撫でてやる。
「聞いたよ、えっと、モノストーン君? 大丈夫だったの?」
「そっちはわかんね。
「聖くんは?」
「すっげー不満そうだった。帰りにちょい様子変だったけど」
「変って?」
「歩くのがクソ辛そうだった。まぁでも、自力で帰ったよ」
男子側では、合宿の仕上げに試合をしたとミヤビは聞いている。その際、聖の対戦相手が途中で倒れ気を失い、
日本のみならずテニスが世界的なブームになってから、そうしたスポンサー企業と選手を擁する団体や組織との間に少なからずトラブルが起こっているのはよく耳にする話だった。プロを目指し活動するミヤビたちにとって、そういう話は無関係ではないものの、だからといって直接なにか関われる類の話でもない。
どのスポーツにも言えることだが、スポーツが一つのビジネス市場としての役割を果たしている以上、資金にまつわる話は選手にとっても運営団体にとっても、決して切り離せない問題だ。途方も無い巨額の金が動き、それに付随して発生する様々な問題は、選手が関われる範疇を軽く越えてしまう。
ミヤビたちが選手としてテニスに邁進できるのは、そうした問題と向き合い、舵取りをし、環境を整えてくれる誰かがいるお陰だ。その役割は、
しかし自分達に深く関係する問題でありながら、なかなか自分たちからは積極的に関与できないという状況は、ミヤビでなくとも多くの選手たちにとって居心地の悪さを感じさせる話でもある。そうした課題に敏感な一部の選手や元選手は、選手主導の団体である選手会を立ち上げ、利益追求に傾倒しがちな企業をけん制すべく奮戦しているという。
「あと三ヶ月、か」
夜空を見上げながら、蓮司がつぶやく。三ヶ月後、九月下旬には十八歳以下の選手でチームを組んだ『国際ジュニア団体戦』が行われる。近年、国際テニス連盟が創設したこの大会は、言うなれば各国の有望な選手のお披露目会のような意味合いがある。そのため、
「緊張する?」
少しからかうようにミヤビがいう。すると蓮司は「まさか」と鼻で笑う。
「団体戦だぜ。
拳を力強く握りしめながら、蓮司は言う。彼は過去に一度、育成クラスからの除名寸前になったことがある。身長が伸びないことが影響し、中学までに得ていた実績とは裏腹に期待されていたほどの実績が出せず、沙粧直々に最後通告を受けた。その蓮司にミックスでの大会出場を提案し、窮地を救ったのがミヤビだ。
当時の蓮司は、今よりもずっと他人を寄せ付けないような刺々しい雰囲気だった。自分の実力を鼻にかけ、少しでもレベルが合わないと相手を見下し、バカにするような素振りをみせた。それが原因で孤立しかかっていたにも関わらず、テニスはあくまで個人競技。練習仲間は必要でも、友達は必要ない。そんな態度を崩さなかった。
「なんか、ちょっと成長したね」
ミヤビは蓮司が
「ちぇ、子ども扱いすんなよな」
そんなセリフが既に子供っぽいんだよ、とは言わない。
「七月からはどうするの?」
「おんなじさ。出られる大会には出て、少しでもITFのランクを上げる」
「遠征費は?」
「ん~……まぁ、それは自力でなんとか」
「蓮司が嫌じゃないなら、ミックスにも出ない?」
「嫌じゃないけど、ミヤだって自分の個人ランキングあるだろ」
「どっかの誰かさんは目を離すとすぐ無理するからな~」
「オレの心配かよ」
「強力なライバルもいることだし?」
うぐ、っと蓮司が言葉に詰まる。気合いが入っているのは良いことだが、大して身体が強くもないくせにすぐオーバーワークに走るのが蓮司の悪い癖だ。どこかで手綱を握っておかないと、またぞろ自滅しかねない。
「焦るのは分かるけど、一人で突っ走らないでね」
「……分かったよ」
不承不承、といった様子だが、蓮司は口にした約束は守る。
「夏が来るね」
「うん」
湿気を帯びた心地よい夜風が、二人の身体を静かに凪いでいった。
続く
※歌詞引用 ACIDMAN『季節の灯』より
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