第42話 「両手と片手」
ネットを挟み対角線上に相対し、互いに鋭い打球で激しい
(今ッ!)
ほんの幽かな勝機の兆しを見出し、仕掛けたのは挑夢の方だ。蓮司の打ったショットに、傍目からは決して見て取れないほどの微細な回転量の低下を感じ取り、
相手の球威を利用して打ち放つ得意の一撃に、確かな手応えを感じる挑夢。だが、相手はあの
(
案の定、蓮司は決定打に等しい挑夢の攻撃に見事な反応を見せる。そして挑夢はその蓮司が放つであろう反撃の手を先読みし、距離を詰める。一手先を読み、二手先を牽制し、三手先を封じる。相手の挙動とこれまで取ってきた対応策の偏りから、未来を予知するように次に起こる展開を瞬時に導き出す。しかし、
挑夢が放った鋭い
反撃の一打を繰り出すスイングは最小限に。短く、鋭く、疾く。懐に忍ばせた短刀で相手の急所を精確無比に狙って切り裂くような、無駄を全て削ぎ落とした合理的挙動で挑夢の守りの隙を突く。
(届けッ!)
足元、あるいは頭上を警戒していた挑夢は想定を裏切られながらも、機敏に反応。離れていくボールに向かって長い手足を使い精一杯ラケットを伸ばすが、ラケットの先端からボール2つ分ほど届かない。その最後の抵抗が及ばなかった瞬間、二人は勝者と敗者に分かたれた。
例え戦う力がまだ充分残っていようと、決定された勝敗が覆ることはない。皮膚から汗が滲み出るように、じわりじわりと挑夢の胸に敗北感が去来する。一方の蓮司の胸中には、まるで落ちれば奈落の底に転落するロープの上を渡り切ったような安堵感が、勝利の余韻よりも強く拡がっていた。小さな油断、僅かな焦り、その一つ一つが勝敗を分かちうるほころびになりえたことを誰よりも強く感じている。望んだ勝利は手中に納めたが、薄氷を踏むが如くに等しかった決着への道程は、とても素直に喜べるようなものではなかった。二人はそれぞれ、敗北の苦味と、辛勝の渋味を互いにその胸中へ仕舞い込みながらコートの中央へとゆっくり歩み寄る。勝者と敗者は視線を交わすと、どちらからともなく無言で拳を突き出しぶつけ合った。
「勝てる、と思ったんすけど」
「残念、まだ甘ぇよ」
挑夢は先にベンチにどかっと座り、タオルを頭からかぶって乱暴に汗を拭く。
「くっそ〜! 時間あんならもう3セットやりてぇ~!」
「バーカ、そんな時間ねぇよ。あっても返り討ちだっつの」
生意気な態度を隠そうともしない後輩に、普段あまり口にしない軽口で先輩風を吹かす蓮司。内心、この年下の少年が持つ末恐ろしいほどの才能に焦りを感じながら、しかし次やる時はもっと完璧に勝ってみせると密かに強く誓う。
「他は、あとやってんのは……
蓮司が視線を向けた先で、聖が必死にボールを追いかけている。蓮司の立っている場所からはスコアボードが見えない。だが距離が離れていても相手が攻勢、聖が守勢という雰囲気は明白だ。相手が仕掛ける激しい攻撃を、聖が懸命に凌いでいる。そして、聖のプレーを見た蓮司は、思わず目を疑った。
「レンさんタイブレやりましょうよ」
「うるさい、ボールとスティック片しとけ!」
乱暴に言って、蓮司は荷物も持たずに駆け出していった。
★
(こんな戦い方があるのか……!)
聖は
<サントロはオメーと背丈が近い上に、フィジカルよりもテクニックが際立ってるからな。トップアスリートにゃまだ及ばねーとはいえ、再開してからコツコツ真面目にトレーニングに励ンだお陰で
加えて、このサントロという選手の戦い方が対弖虎において絶大な効果を発揮する確信を、聖は最初の1ゲームで得ていた。コートサーフェスが
(でも、これはあくまで
コートチェンジの際、聖はタオルで汗を拭いながら自身に言い聞かせた。自分が弖虎に対して感じているのは、純粋なライバル意識とは異なると聖は考えている。自身の気持ちの中に混ざるどこか仄暗い感情の正体が掴めず、それゆえ能力の仕様をためらった。
(
自分が
(プロになるため努力をしているか、と問われたら、していると答えられる。だけど、能力を使用してこの道を進むと決めた時点で、もう僕は正道から外れた人間なんだ。自分の実力どうこうで相手を計ること自体おかしい。代償があるから常にとはいかないけど、出し惜しみはするべきじゃない。自力でプロを目指す彼らと同じ立場だと思っちゃダメだ。ハルナを独りにしないこと。それだけが僕の目的であるべきだ)
能力使用に踏み切ったことで戦局が好転し、聖は自身の抱えている迷いにひとまずの結論を出した。もしかするとまた同じことで悩むかもしれない。だが今はとにかく、目の前の相手に対し
★
蓮司が慌てた様子で聖の試合するコートに到着すると、既に試合を終えた他の合宿メンバーが集まり観戦していた。それぞれの顔に浮かんでいるのは、どちらかを応援しようといった表情ではなく、自分が試合をするならどう攻略すればよいか頭の中でシミュレートするようなものだった。
聖の対戦相手である弖虎が放つショットは強力かつ凶暴で、目を疑うほどの威力とコントロールを保っている。猛攻と呼ぶに相応しい連続攻撃を驚異的な精度で打ち続ける様は、ベストコンディションの時の
スピードの遅い、浅く低い
外側から中側へ、軌道を変えて曲がる
威力を利用した、低い軌道で滑空する
攻撃を無効化する、深く滞空する
積極的に攻撃を仕掛けているのは弖虎の方だが、聖が放つその多種多様な返球は徐々に相手の攻撃の手を鈍らせ、遂にはネット前に誘き出された弖虎の横を通り過ぎるようにして聖の
(ただスライスで凌ぐだけじゃねぇ……。遅い、浅い、止まる、曲がる、色んなスライスを織り交ぜて攻撃リズムを崩してる。かと思えば、一撃で決めたくなるようなエサを撒いて無理に攻勢を誘って、カウンターのパッシング。相手が誘いに乗らないようなら、深くゆっくりしたアプローチで前に出て自分から攻め立てる。展開のレパートリーが不規則かつ多彩だから、相手は迂闊に攻め込めなくなってやがる。聖のやつ、こんなにスライスが上手かったか? いや、っていうか、それより――)
聖の放った強い
その持ち手は、
(これだ、アイツなんで
片腕と両腕なら、より大きなパワーを生み出せるのはどちらか?考えるまでもなく、両腕である。しかし、生み出したパワーをどのような場面でどのように使うのかという変則的な条件が付帯した場合、必ずしも両腕を使うことが優位に立つとは限らない。
「フォア両手なんて初めてみた。なんで両手で打つんだろう」
蓮司が考えていた疑問を、参加仲間の一人がつぶやく。
「パワーが出せるから、じゃない?」
「野球やゴルフじゃあるまいし、飛ばせば良いってもんじゃないだろ」
「相手の威力すげーから、打ち負けないようにってことちゃう」
「耐衝撃性、だっけ?」
「そもそも両手フォアでスライスしか打ってねーぞ」
プレー中の二人に声が届かないよう気を遣いながら、合宿メンバーはそれぞれの考えを述べる。
<片手、両手打ち談義に花が咲いてらァ。走り回りながらボールを捉え、出力を適宜抑え、打球の高さ、方向、角度なんかをコントロールする必要があることを踏まえると、
観戦しているメンバーの会話を聞いていたらしいアドが不敵にいう。だが、聖の意識とは繋がっておらず、ただの独り言に過ぎない。
<メリット・デメリットをそれぞれ挙げて比較すりゃ、フォアハンドは片手の方に軍配が上がる。だが、両手にゃ片手にないメリットがあるのさ。そいつを自分の特性に照らし合わせて冷静に鑑みて、メリットを最大限に活かすプレースタイルを身につけたのがサントロだ。結果、極めて稀少で珍妙とも言える摩訶不思議な戦い方をする
アドの意識が、聖の視界を通じて弖虎に向けられる。
<テメェ等を叩きのめすにゃ、うってつけだろう?
★
聖はボールを捕らえ、
(ボールの威力が強過ぎて片手だとインパクトの瞬間に力負けしてたけど、両手なら余裕がある。腕の可動域が制限される分、それを補うために要求されるコートカバーリングの範囲は広くなったとはいえ、追いつきさえすれば正確にコントロールできるのは大きい!)
弖虎が横に跳ねる
(もう少し、もう少しだ……!)
聖は時計に目をやる。ポイント毎のラリーが長く感じられていた為、かなり時間を消費しているかと思ったが、
タオルで汗を拭き、しっかりと水分とカロリーを補給した聖は気持ちの良い集中状態を維持しながらポジションへ向かう。サントロというこの選手の戦い方は、
この時までは――。
(ん?)
次のサーブは弖虎だ。だが、弖虎はまだベンチに座っていた。コートチェンジの際に取れる休憩時間は90秒と決まっている。大会などの公式戦ならばきちんと時間を測り、主審が休憩の終わりを告げてくれるが、練習試合ではほぼ選手の感覚に委ねられる。そもそも時間の計測をしていないので、多少の前後は暗黙の了解で許されるのが通例だ。さきほどまでお互いに軽い水分補給をするだけで時間をかけていなかったこともあり、聖も特に気にせず弖虎が立ち上がるのを待った。だが、弖虎は立とうとしなかった。
「あ、あの~……」
しびれを切らした聖が、恐る恐る弖虎に近づきながら声をかける。弖虎は俯いたまま、微動だにしない。顔は長い前髪で隠れ窺い知れず、彼がどんな表情を浮かべているのか全く分からないので、聖が覗き込もうとしたその時だった。
ぐらり、と弖虎の上体が横に崩れる。
「危っ」
とっさに手を伸ばした聖が弖虎の身体を受け止め、辛うじて倒れるのを防いだ。
(軽……っていうか、体温ひっく!?)
弖虎を受け止めた聖が最初に感じたのはそれだった。確かに弖虎は筋肉質ではないし、まだ椅子に腰かけた状態のため、体重をそれほど感じないのは不自然ではないかもしれない。だが、体温だけはどう考えても異常だ。これだけ激しい運動をしているのに、全く温かみを感じない。それどころか、冷たいとすら感じるほどだ。
意識の確認をするべく前髪をどけると、弖虎は両の鼻から血を流し、虚ろな目をしている。意識は混濁し、うめき声とも、肺の空気が押し出たとも取れない小さな声が口から漏れる。
「ちょ、ねぇ、大丈夫っ」
何かとんでもない異常が起こっていると悟った聖は、しかし自分にはどうすることもできず戸惑うばかりだ。こういう時、下手に揺すったりするのは良くないとどこかで聞いたことがある、などと役に立ちそうもない豆知識が頭の中を駆け巡る。
「離れなさいッ!」
弖虎を支えていた聖の耳に、情け容赦のない鋭い一声が届く。声の方を振り向くと、さきほど観戦席でボールを取ってくれた女性が凄まじい形相を浮かべながらコートに入ってきた。
女は聖から弖虎をひったくる様に奪う。首筋に手を当て脈を確かめると、異常が無いことが分かったのか、女は小さくため息を吐く。次に女は、弖虎の髪を引っ掴んだ。それはまるで討ち取った大将首を片手でぶら下げるのに似ていた。呆気にとられる聖のことなどお構いなしに、女は左の手首に嵌めていた銀色のバングルを弖虎のこめかみに当てる。その弖虎に対するあまりにぞんざいな扱いに、聖は思わず抗議の声を上げようとした。
「試合は終わり。失せなさい」
だが、聖が声を出すより先に、女がぴしゃりと言う。聖の方など見ようともせず、彼女は立ち上がり、弖虎の身体から手を離す。力の抜けた弖虎の身体はそのままだらりとコートにくずおれ、死体のように動かない。
「あんた……!」
猛然と怒りがこみ上げる聖。この女、どういうつもりだ。女の顔を睨み付けると、聖の視線に気付いたその女は、不気味で不吉な色を湛えた金色の瞳を聖に向ける。その瞳は、聖がこれまで見てきたどんなものよりも禍々しく思えた。
何か言わなければ、と聖は言葉を探したが、何をどう言ったらいいのか分からない。言いあぐねていると、黒スーツを着た男がコートに入ってきて、手慣れた様子で弖虎を担ぎ上げ、女と二人で出て行った。
スコアボードに、5-1という数字だけが残っていた。
続く
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